19.留学を終えて
二年後の二〇〇七年四月上旬、哲也と洋子は成田空港に降り立った。米国での研究も帰国前までには一段落させることができ、天然物関係のジャーナルに投稿して受理されたのを最後の仕事とし、プロフェッサー・キングトンに心から感謝の気持ちを表して帰国した。
留学中、会社には月間報告書をきちんと提出していたが、未発表の研究に関しては全く触れることはできず、自分が行っていた研究とはあまり関係のないことしか書けなかったので、当たり障りのない報告書となっていた。また、会社の状況についてもほとんど情報は入ってこなかった。つくばを離れて、これまで当然のことのように入手していた情報にほとんど触れることができない環境に身を置くと、毎日通っていたつくば研究所がとても遠くに感じられた。
渡米した直後は、プロジェクトZのことを若干引きずっていたが、プロフェッサー・キングトンの人懐っこい性格と研究自体の面白さに埋没していくようになると、あまり会社のことが気にならなくなった。しかし、今、日本の地を自分の足で踏みしめてみると、やはり会社のこと、特にプロジェクトZのその後のことが気になりだした。以前住んでいたマンションは二人で住むには狭いので、渡米する際、解約していた。暫くの間、つくば市内のビジネスホテルに泊まることにし、できるだけ早く新居を決めるつもりでいた。ホテルの予約は会社でやってくれた。
帰国した翌日、洋子は臼井夫人のところに挨拶に行った。哲也は朝一番に研究所に顔を出し、臼井の居室がある研究室に入っていった。哲也には研究室が何となく以前とは違う雰囲気に感じられた。
「お早うございます、臼井さん。二年ぶりで日本に帰ってきました」
哲也が挨拶すると、臼井は忙しそうな素振りで哲也に向かって言った。
「お帰りなさい、太田君。久しぶりに帰国したのに、大変申し訳ないんだけれど、緊急ミーティングに行かなければならないんだ。積もる話はもう少し後にさせてくれないか」
哲也は頷くしかなかった。急ぎ足で研究室を後にする後姿が見えなくなるまで目で追ったが、臼井は振り返ることはなかった。
呆然としている哲也に青田が声をかけてきた。
「太田さん、お帰りなさい」
「やあ、青田君じゃないか。元気そうだね」
「太田さんこそ。私はてっきり太田さんは相当落ち込んじゃっているんじゃないかって思っていましたけど、大丈夫そうですね。プロジェクトZの件があった上に、留学したはいいけど行った先は合成が専門じゃなかったし、その上、太田さんがあまり好きじゃなかった英語漬けでしょ」
青田は結構明るかった。もしかしたら、しょんぼりしているように見えた哲也を元気付けるために、あえて元気そうに振舞ってくれているのかもしれないと哲也は思った。
「ご挨拶だね。キングトン教授がとってもいい人でね。初めのうちは大変だったけど、少し経つと結構慣れてきて、何とか楽しくやってきたよ。英語も、相手のことを理解していると何とかコミュニケーションできるものだね。ただし、初対面の人とか、ダウンタウンでの買い物なんかの時は、全く何を言われているのか分からなかったけどね。ところで、青田君は今何のプロジェクトをやっているの?」
「あっ、そうか。太田さんは会社の事情を全く知らないんでしたっけね」
「そうなんだよ。会社を離れてみると、それまで当然だったことが、実はそうではないことが実感できたよ。メールで会社と情報交換していたけど、伝達できる内容はそのまま外部に漏れても良いものばかりでね。ちょっとでも秘密なことには全く触れられない。かなり、この点はイライラしたね」
「そうですか。あれから僕は新しく研究が始まることになった糖尿病治療薬を狙ったプロジェクトTNの合成担当になったんです。TNって、糖尿という言葉のトウとニョウとの頭文字のアルファベットです。単純でしょう」
「そう、降圧剤から離れたんだ」
「最初は、プロジェクトZの後継プロジェクトの合成をやってくれ、って言われていたんですけど、臼井さんが反対して、TNの方をやることになったようです」
「臼井さんが?」
「はい。臼井さんが岩宿研究部長に掛け合ってくれたらしいんです」
「青田君としてはその方が良かったの?」
「ええ、勿論ですよ。なにしろ、プロジェクトZの後継プロジェクト、名前はZAっていうんですけど、リーダーがあの研究部長お気に入りの片桐博光さんなんですからね。それに、自分で片桐さんの片腕だと言って憚らない江曽島靖も、当然のことのようにZAプロジェクトに加わっているんですから、僕がプロジェクトに入ったって、使い走りをさせられるのが関の山でしょう。僕だって、太田さんのメンバーだったんです。それも臼井さんに志願してメンバーにしてもらったんですから、片桐さんのプロジェクトなんてやってられるはずはないじゃないですか」
「そうだったんだ。青田君にまで、迷惑かけていたんだ。ご免ね」
「いや、とんでもない。太田さんに謝っていただくことなんて、何一つありませんよ。でも臼井さんには感謝しています。相当強気で岩宿研究部長に迫ったらしいんです」
「臼井さんらしいね。それで、青田君の新しいプロジェクト、TNだっけ? それはうまくいっているの?」
「ええ、まあ。なにせ、まだ研究を立ち上げたばかりなんで、本格的な合成展開はまだまだ先になりますから。今は研究に必要となる化合物をいくつか合成している段階です。それより、太田さんはプロジェクトZAがどうなっているかの方に興味があるんでしょう?」
哲也は思わず正直に頷いてしまい、慌てて手を振ってそうではない、との意思表示をしたが、それを無視したかのように微笑みながら青田は続けた。




