18.結婚と離日
「太田さんとしては今後どうされるおつもりなのですか?」
「そうだねー。今後どうするのか、かー。ほとんど考えていなかったな……」
哲也にしてみれば、研究部門会以降に起こった現実を受け入れられないでいるわけなので、今後のことなど考えられないのは当然のことであった。その前に、現実を受け入れなければならないのだ。
「そういえば、米国留学してはどうか、と言われていたんだっけ」
「えっ、太田さん、アメリカに行ってしまうのですか?」
「いやいや、まだ何も決めていないよ。プロジェクトの終結宣言が出されてしばらくしてから言われたんだ。こんな状況になったので、岩宿研究部長は僕を厄介払いしようとでも思っているのかもしれない。とりあえず、返事は保留してあるんだ。実を言えば、留学の話自体を忘れていたけどね」
「まったくー、そんな大事なこと、もっと早く私にも教えてくださいな」
洋子は膨れ面をしてみせた。哲也は釣られて思わず微笑んだ。
「あっ、太田さんが笑った。良かった」
洋子は膨れっ面から一転して大袈裟に喜んだ。
「笑顔が出たからもう大丈夫ね」
笑い声の後はしばしの沈黙が続いた。二人が置かれている現実は、笑っていればどうにかなるような状況ではないことはよく分かっていた。どのような選択をすれば後悔せずにいられるのか、この瞬間にはまだ判断がつかなかった。お互いにいやな沈黙であると感じていた。ようやく洋子は決心したように、若干頬を紅潮させて口を開いた。
「太田さん、もしアメリカに留学されるなら、私も連れて行ってくださる?」
こんなことを女性に言わせるなんて哲也も罪深い。二人の交際に関して、哲也がなかなか前に進めてくれないので、洋子は少し焦れていた。自分以外に好きな人がいる気配は全く感じていないのに、結婚については一言も触れてくれない哲也の心情が徐々に心配になりかけていた。洋子にとっては口に出して哲也に言う良い機会であったのかもしれなかった。
「えっ、洋子ちゃん、それって、僕と結婚してくれるっていう意味?」
哲也にしてみれば、洋子みたいな女性は自分の人生でもう二度と目の前に現れないであろうと思っていた。洋子の配偶者は自分みたいな男でも良いのであろうか、などと考えていたので、プロポーズする勇気が湧いてこなかったのであった。それに、少し前までは自分の研究は絶好調であり、仕事にのめり込んでいたことも事実であった。そしてこの急展開。洋子とのことを突き詰めて考える時間を持ってこなかった。
「太田さんは嫌なのですか?」
洋子は真剣な眼差しで正面から哲也を見て訊いた。
「とんでもない。僕なんかが洋子ちゃんみたいな素敵な女性の配偶者になれるのかなんて考えていてさ、自信がなかっただけさ。僕の方からお願いしなくちゃいけない話なんだから」
哲也は一度言葉を飲み込み、洋子を正面から見つめ直して一つひとつ確認するように話を再開した。
「こんなピンチの状態の時に、洋子ちゃん、本当に有難う。洋子ちゃんと交際できるようになっていて本当に良かったと思っている。どうも僕はこの一週間、現実を受け入れないようにしてきていたようだね。多分決定されたことは覆らないだろうと思う。米国留学の件も含めて今後僕たちがどうすべきかを真剣に考えてみたい。少しだけ時間をくれないかい?」
「そうね。私も今日お聞きしたことをよく理解した上で、もう一度考えてみるわ。太田さんのお考えがまとまったら、電話してくださる?」
「分かった。そうしよう。洋子ちゃんのお蔭で、僕も少しは前向きに考えられるようになりそうだ。本当に有難う」
洋子は哲也の落ち着いた態度に安心して哲也の部屋を後にした。
米国留学なんてそう多くの研究者が行かしてもらえるとも思えなかった。哲也が米国行きを承諾したら、プロジェクトZのメンバーだった研究者たちはどう思うかを哲也は想像してみた。
「自分と岩宿研究部長とが裏で取引したように思われるのであろうか?」
「永倉や青田はどのように処遇されるのであろうか?」
「再挑戦するメンバーは一体誰が選ばれるのであろうか?」
「再挑戦で新たな化合物は発見されるのであろうか?」
哲也一人でいくら考えても、何の結論も出てこなかった。臼井に相談するしかなかった。
「そうだねー」
臼井はどう返事をすべきか迷っているような曖昧な声を出した。単純に自分の考えをまとめているようには感じられなかった。哲也が知らない情報を少しは持っていて、哲也にはどのように伝えるべきかを迷っているような感じであった。
「太田君の無念な気持ちは僕にはよく理解できるよ。しかし、ここは岩宿研究部長の申し出を受け入れておいた方が良いんじゃないかなー。確かに、あの研究室の専門は天然物の構造決定なんだが、太田君は将来的には難しい化合物を合成することもあると思うんだ。そんな時、特段の構造決定力は太田君にとって大きな力になると思うけどね。二年間、日本を離れてアメリカで新たな技術を身に着けて帰ってきたらどうかな?」
「永倉さんや青田君はどうなるのでしょうか? 僕が裏切ったなんて思わないでしょうか?」
哲也は真剣な調子で聞いた。本当に心配していたのである。
「僕の想像なんだけどね、少なくとも永倉君は新しいプロジェクトにも参画することになると思うよ。あのスクリーニング系に関して自信を持って動かせる人は他にはいないからね。青田君は、まだ若いから別のプロジェクトに入って研究しても全く問題はないだろうよ。むしろ、今回のことは彼にとっては非常に良い経験になったと思うんだ」
「えっ、永倉さんは残るんですか?」
「いや、まだ決まっているわけではないんだ。僕が勝手に想像しているだけなんだけどね」
「そうなんですか。結局、外されるのは、合成を担当していた僕と青田君だけなんですね」
「多分、そういうことになると思っている。だから、太田君は米国留学を受け入れても、誰からも恨まれることはないと思うよ」
哲也は非常に虚しい気持ちになったが、洋子と話したことで前向きに考えられるようになっていたためか、米国留学を受け入れる決心がこれで付いた。もう、他の研究者に配慮する必要性は感じられなくなった。
「洋子と一緒にアメリカに行こう。そして、もっともっと力をつけて帰ってきて、岩宿研究部長を見返してやろう」
プロフェッサー・キングトンの研究室にはその年の四月の頭から顔を出すことになった。三月末までには洋子と二人で米国に行かなければならなかった。結婚式の日取り、式場、出席者、料理、引き出物、司会者等々、決めなければならないことは山ほどあった。媒酌人を臼井夫妻にお願いすることには、哲也も洋子も全く依存がなかった。臼井夫婦のお蔭で二人は知り合えたわけなので、当然のなりゆきであった。
結婚式は結局つくばではなく、東京のホテルで行われた。その方が両家の親族が遠くからやって来るのに都合が良かった。哲也と洋子の勤務先の出席者たちも、当時はよくあることであったので、特に苦情を言う人もいなかった。披露宴の司会者はホテルで推薦してくれたプロに頼んだ。ビザ取得や各種手続きの関係で婚姻届は披露宴のずっと前に市役所に出した。新婚旅行は海外が普通のことであったが、これからアメリカで暮らすことになる二人は、日本の京都、奈良を選んだ。二〇〇五年三月、三泊四日の短い国内旅行の二日後、二人はアメリカに向かった。




