15.研究部門会
G製薬会社では、研究段階から開発段階へのステージ昇格決定法は、先ず『研究部門会』で審議され、そこで了承されたテーマのみが『研究開発本部会』で決済されて、ようやくステージを上げることができるようなシステムを取っていた。臨床開発への昇格が認められた開発ステージの初期段階からアメリカのFDAや日本の厚労省などへ申請できるようになるまでに関しては『開発部門会』で了承された後、『研究開発本部会』で最終的な決済がなされることになっていた。当時は、『研究開発本部会』の決済は松浪幸四郎研究開発本部長が行ない、越智剛・研究開発副本部長がそれを補佐していた。二人とも発酵部門出身であったため、岩宿研究部長にとっては『目の上のたん瘤』であることに間違いはなかった。
一月中旬の木曜日の午後一時から、G製薬会社つくば研究所大会議室に於いて『研究部門会』が開催された。この日の議題には哲也たちのプロジェクトの審議以外に、もっとステージの若いプロジェクトの進行状況報告が二つあったが、まだまだ初期研究段階にあるプロジェクトであるため、大きな審議点もなく、二つのプロジェクトはともに簡単に継続することが決済された。そしていよいよ哲也たちのプロジェクトの審議が始まった。
哲也が会議室の後の方に陣取っていた出席者たちに目をやると、片桐博光が下を向いた状態で座っていた。その横には片桐を慕い、片桐の片腕になりたいと常々言っている江曽島靖までもが座っていた。
「あれっ、おかしいな。片桐や江曽島は我々のプロジェクトとは関係ないはずなのに。どうしてだろう?」
哲也は一瞬不審に思ったが、この日の会議に臨むプロジェクトリーダーとしてはそんな細かい事は後回しにして然るべき状況であった。
先ずは哲也がこのプロジェクトのこれまでの経緯を説明した。この降圧剤Zプロジェクトの作用メカニズムで活性があると報告されている化合物は世界でもまだ皆無の状況であり、このプロジェクトで選抜された最適な化合物が発売できれば、世界初の素晴らしい作用を持った薬として世の中に送り出すことができ、多くの患者さんたちの苦しみを除くことが可能であり、ひいてはG製薬会社のプレゼンスを高めるものになると考えられることを力説した。
哲也の化合物に関してこれまで得られた多くのデータはどれもが素晴らしいものであり、今後の展開が大いに期待できる化合物であるが、最近実施した発癌性予備試験のデータが唯一の心配の種であることもきちんと述べた。さらに、この発癌性予備試験データでは、哲也の化合物投与群と無投与群との数値の間にはきちんとした統計学的有意差が認められてはいるものの、両方の数値があまり離れてなかったこと、さらには、通常の無投与群の上限の数値と下限の数値との間に、今回実験した哲也の化合物投与群の数値が位置しており、発癌性がない可能性も十分にあることを強調した。
プロジェクトチームとしては再実験を望んだが、一度今回のようなデータが出た以上、再試験結果がネガティブと出たとしても、今回のデータはずっと付いて回ると判断されるため、発癌性本試験を前倒しにして、コース転換後直ぐに発癌性本試験の並行的な実施をお願いしたい、とのプロジェクトチームの要望を述べた。発癌性本試験をこのステージで実施することは特例になることをチームはよく理解しているが、この化合物にはそれだけの可能性と魅力があるので、是非前向きな結論を出していただきたいと主張した。
経緯説明に続いて、哲也からこのプロジェクトの合成展開の詳細を説明し、永倉からそれら化合物の活性に関するデータを示して、活性としてはこれまでにない画期的なものであることを述べた。その後、代謝および物性の担当者からそれぞれのパートの説明を行ない、素晴らしい薬になる可能性を持っている化合物であることを強調した。最後に登場した安全性担当者からは、先日のプロジェクトZ会の時と同じようにたんたんとした説明の仕方で、発癌性予備試験の結果の詳細と、その結果を受けてプロジェクトチームが取り得る対応策のいくつかを列挙した。そして最後にこう述べた。
「本化合物は、リーダーである太田さんが述べられた通り、発癌性予備試験以外のデータは非の打ち所がないようなものであります。発癌性予備試験では、化合物投与群と無投与群との数値の間に統計学的な有意差が認められたものの、両方の数値があまり離れておりませんでした。さらに、通常の無投与群の数値の上限の数値と下限の数値との間に今回の化合物投与群の数値が位置しておりますので、発癌性本試験を行った時、発癌性がネガティブになる可能性は十分にあります。従いまして、白黒をはっきりと付けるためにも、是非コース転換後直ぐに発癌性本試験の並行的な実施をご許可くださいますよう、お願い致します」
用意されたプレゼンテーションが終わると、質疑応答の時間となった。ほとんどの質問や意見は発癌性予備試験のデータの判断と発癌性本試験を実施すべきか否かに集中した。G製薬会社で発売までに漕ぎ着けた医薬品で世界初と銘打つことができる薬はまだ存在していなかった。それだけに哲也の化合物が持つ魅力は研究部門会の出席者のほとんどが感じていた。その一方で、長期間使用することになる血圧降下剤に発癌性の可能性があることなど、断じて許されることではなかった。安全性担当者が述べたことについて司会者から安全性統括長にコメントが求められた。
「先ほど担当者が述べましたように、今回の発癌性予備試験の結果は統計学的に有意なものであります。従って、今後再試験することは意味がありません。ただし、この予備試験はまだ一般的に取り入れられている試験ではなく、当社でも仮実施というスタンスで実施し始めたものであります。真に発癌性があるのかないのかを判断するのは、この予備試験だけでは無理でありまして、発癌性本試験を実施しなければきっちりと判断できない、というのが現状であります。もし、発癌性本試験を実施することになれば、約二年の期間と数億円の費用とが必要になります。また、皆様ご存知のように、発癌性本試験というのは、通常はもっとずっと後のステージで実施するものでありますので、この段階で実施するとすれば、この後の『研究開発本部会』でご承認いただいた後、松浪研究開発本部長に取締役会での承認を得ていただく必要があるかと思います」
このコメント以降の発言は、発癌性本試験を実施すべきだという意見と、そんな博打を打つ必要性はない、化合物を新たに探して、発癌性予備試験で結果がシロとなるような化合物を見出してから再提案すべきだという意見とが拮抗した。新たな化合物を見出す可能性については司会者から哲也にコメントが求められた。
「先ほども申し上げましたように、この降圧メカニズムで活性を示すことが分かっている化合物は世界でも我々の化合物だけであります。活性を示す構造の範囲は著しく狭く、ほんの少しでも構造を変えると、活性が著しく低下するか不活性になってしまいます。『研究部門会』への提案の前に、周辺化合物の可能性につきましては、かなり沢山の検討を致してきております。チームとしてはこの化合物だけが薬物としての資質を備えている、との結論を出した次第です。従いまして、新たな化合物へ変更できる可能性は著しく低いと考えております」
その後いくら議論しても二つの相反する考え方以外にこの問題を解決できる方向性を示すような意見は出て来なかった。
「議論は煮詰まったように思います。これ以上議論致しましても新たなご意見は出てこないと思われます。従いまして、この辺で岩宿研究部長にご決済をいただきたいと思います」
司会者は岩宿の決断を促した。これまで一言も発言してこなかった岩宿はようやく口を開いた。
「確かにこの化合物は大変魅力的なものであります。当社としては世界初の薬を市場に送り出したことがないわけですから、何とか製品化したいという思いはあります。しかし、唯一の問題は発癌性であり、降圧剤のような長期間投与される薬剤においては決してあってはならない欠点であります。コース転換後直ぐに発癌性本試験の並行的な実施を行なうという選択肢に関しましては、研究を担当されたチームの皆様の心意気は十分に感じ取れますが、一方で、本試験を実施すれば発癌性の疑いが晴れるという保証はどこにもありません。そのような状況のプロジェクトに二年の期間と数億円もの投資を『研究開発本部会』、ましてや『取締役会』にまで提案することは出来ない、というのが私の判断です。
結論を申し上げます。本プロジェクトは一旦ここで終結し、新たな骨格の探索を含めた新プロジェクトを立ち上げていただきます。勿論、ここまで持ってこられたチームの努力は賞賛に値するものでありますので、この財産を次の新プロジェクトでも十分活かしていっていただきたいと思います。新プロジェクトの詳細に関しては、早急に統括長会を開催して決めていきたいと思います。以上」
プロジェクトZのメンバーは皆一様に狐に摘ままれたような表情をしていた。直ぐには岩宿研究部長が喋った内容を理解することができないような状態であった。特に哲也は今回の結論を自分で勝手に、コース転換後直ぐに発癌性本試験の並行的な実施と決め付けて会議に臨んでいたわけで、こんな結論はあり得ないことであった。気が付くと大会議室には哲也と永倉だけが呆然として残っていた。誰かが会議室に入ってきた。
「太田君、ここに居ても仕方がない。研究室に戻ろう。永倉君も」
哲也の上司であり研究部門合成研究第五グループ長の臼井良平であった。
「新プロジェクトについては太田君や永倉君がそのまま残れるように合成統括長によくお願いしておくから。とにかく、今日はこれで帰ろう」
二人は臼井に促されてようやく重い腰を上げ、それぞれの研究室の方向に足を踏み出した。




