14.発癌性予備試験
暦は二〇〇五年に入っていた。この二ヶ月くらいの間、哲也は夢見心地で時を過ごしてきた。哲也の化合物はその後も順調に進み、薬として世の中に出すことにブレーキを掛けるような兆候は微塵も感じさせない程完璧に思えた。それに、しばらくの間ほったらかし状態であった洋子との関係も無事修復させることができた。と言うより、会えない期間があったことが二人の関係を密にしてくれたように感じられた。テニスだけではなく、人生のパートナーとしても重要な人になりそうだと思えてきた。
そんな時、永倉から電話が入った。
「はい、太田です。あっ、永倉さんですか。また、良いデータでも出ましたか?」
哲也は自信満々な言い方で訊いた。
「えーとですねー。例の発癌性予備試験の結果の速報というのが安全性組織の担当者から入ってきましてねー……」
どうも永倉にはいつもの歯切れの良さが感じられなかった。普段永倉はあまり感情を外に出さず、端的に結論を述べてから詳細について説明してくれるのであるが、この日は、口籠っている感じが露わになっていた。
「まだ最終的な結果という位置付けではないのですが、統計学的には発癌性予備試験は『ポジティブ』という判定にせざるを得ないと担当者は考えているようです。安全性組織としての最終的な見解は今週末に開かれる安全性会で決まるそうなんですけれど」
「えっ……」
そう言うと、哲也は次の言葉が出てこなくなった。哲也の感じているショックを少し前に味わったばかりの永倉は、哲也より少し冷静に振舞った。
「太田さん、私がそちらに伺ってデータの説明をしてもよいのですが、青田さんや同室の他の方々にはまだ聞かれない方が良いのではないかと思うのです。それで、一〇九会議室を確保しています。私は今そこから電話しているのです。こちらに来ていただけませんか?」
哲也は『この電話は現実のものではなくて夢を見ているのだ』と思っている自分に気付いた。
『最近、自分に都合の良い状況のことばかり考えていたので、天が警鐘を鳴らすためにこんな夢を見させているのだ。百歩譲ったとして、本当に永倉の口から発せられた言葉だとしても、彼は有頂天になっている自分を戒めるために少し冗談を言っているのだ』
そんな風にしか、哲也はこの現実を受け止めることができなかった。一〇九会議室に来るまで廊下で何人かとすれ違い挨拶されたが、哲也にはそれに応えることはなかった。目では確かに見ていたはずであるが、脳に情報としてインプットされるまでには至らなかったのであった。
一〇九会議室のドアは重かった。
哲也が会議室に入ると二人は目を合わせたが、しばらくの間会話は起こらなかった。
「とりあえず、入手できた情報をお示ししましょう。安全性組織の守りは堅くて、これ以上のデータは現段階では渡してくれないのです。安全性会の後でないとダメだと言って」
先に永倉が口を開いた。
「お願いします」
沈んだ声で哲也が言った。
永倉の説明によれば、哲也の化合物は三つある発癌性予備試験のうちの二つ目の試験で陽性の判定が出そうだということであった。まだこの実験のデータは渡されていないとのことであったが、永倉のノートにはかなり詳細にデータを書き写したものがあった。非常に厳しい状況下でも冷静に対応できる永倉のことであるから、安全性組織の担当者の対応は飲み込んでいて、説明を受けている最中にしっかりとメモを取っていたのであろうと思われた。哲也の化合物が二つ目の発癌性予備試験で陽性の判定になりそうだということの根拠の数字を見せてもらった哲也は、しばらくの間、ノートに書かれていた数字をボーとした感じで眺めていたが、急に目の輝きを取り戻した。
「永倉さん、この我々の化合物の平均値は、これまでの無投与群の数字より低い数値じゃないですか!」
「確かにそうなんですけどね」
永倉の返事は哲也の勢いを削ぐような重い感じの響きを持っていた。
「私もそれに気が付きましてね。それでノートにメモしておいたのです。安全性の担当者の意見は、我々の化合物と今回の無投与群との数値の間にはきちんと統計学的有意差が認められるので、結果の判定は陽性であるとのことでした。ただ、私は両方の数値があまり離れていなかったものですから、通常の無投与群の数値はだいたいどのくらいなのかを質問してみたのです。担当者はおよその上限の数値と下限の数値とを答えてくれたのですが、その上下の数値の間に今回の実験での我々の化合物投与群の数値が位置していたのです」
「そんな実験結果では、いくら統計学的に有意差が出たからと言っても、信頼できる実験結果とは言えないのではないですか!」
哲也は語気を荒げて言った。
「私も全く同じ意見でした。それで、もう一度実験をやり直したらどうかと訊いたんです」
「そうですよ。全く同感です」
「安全性の担当者は、今回のデータは捨て去ることはできないもので、例え、再実験して陰性の結果が得られたとしても、今回の結果があるため発癌性の疑いはずっと付いて回る、と言うのです」
「その疑惑を取り除く方法はないのですか?」
哲也は『憤懣やるかたない』という感情を顕にして言った。
「あるにはあるようです」
この日の永倉の言葉は相変わらず歯切れが悪かった。
「あるんですか。それだったら、その実験をやってもらえばよいのですね。でもそれはそう簡単なことでなない、ということですか」
哲也は永倉の態度からおよその流れを推測して尋ねた。
「そういうことになります。発癌性予備試験のデータを覆す方法はただ一つ、発癌性本試験を実施して発癌性がないことを実験データで示すしかないそうです」
「発癌性本試験を行うには、凄くお金と時間とが掛かるんだそうですよね」
哲也は力なく小さな声で訊いた。
「そうです。通常はもっとずっとステージが進んだ段階で行う試験なので、費用も途轍もなくかかりますが、実験期間も二年くらいは掛かってしまうようですね。普通に考えれば、我々の化合物が位置しているステージでは、とても実施できるような試験ではない、と判断されるのでしょうね」
哲也はしばらくの間、黙りこくっていた。自分が陥ったこの窮地を救う方法を必死で考えているような目の動きであった。永倉の存在すら希薄なものに思われるくらい集中して考えていた。ようやく永倉を見つめ直すと、静かに、しかし永倉や自分自身に言い聞かすように哲也は言った。
「今度のコース転換の提案書には、コース転換後直ぐに発癌性本試験を並行的に実施することを要望すると記載しましょう。実施する理由は、発癌性の疑いさえ晴らすことができれば、我々の化合物は世界で初めての素晴らしい作用を持った降圧剤として世界中で販売することができる国際的医薬品になり得る、ということで説明しましょう」
「そうですね。ここまで来たら、我々としては挑戦する以外に取るべき道はありませんね。私も太田さんのお考えに賛成です。まっ、そうは言っても、この件はまだ非公式の話ですので、安全性組織としての正式見解が出てからチームで話し合いを持って決めましょう」
「そうですね。この問題は非常に重要なことなので、チームとしての意思統一を図っておかなければいけませんね。とりあえず、この件は当面我々だけのことにしておくとしましょう。私は水面下で、発癌性本試験を実施してもらうための提案書の文章を練っておきます」
哲也は夢から覚めた。現実をしっかりと見つめている、以前までの哲也に戻っていた。
その週末に開かれた安全性会の結果は哲也と永倉とが予想していた通りになった。週明けの月曜日にプロジェクトZ会が開かれた。この会議はもともとこのプロジェクトのコース転換の提案資料の最終摺り合わせのミーティングになるよう設定されていたものであったので、一時間もあれば十分だと思われていた。しかし、そんなことはどこかに吹き飛んでしまうようなデータがチームメンバーに示されたのであった。
会議の冒頭、永倉が発癌性予備試験を行なった経緯について簡単に説明した後、安全性組織の担当者から詳細なデータの提示と説明があった。そして、最終的に安全性会の判断として、哲也の化合物は発癌性予備試験で陽性であるとの正式見解が示された。
哲也の化合物投与群と今回の無投与群との数値の間にはきちんとした統計学的有意差が認められてはいるものの、両方の数値があまり離れていなかったこと、さらには、通常の無投与群の数値の上限と下限との間に、今回の実験の哲也の化合物投与群の数値が位置していたこととをきちんと皆に告げた。安全性組織に属しているとは言え、発表者もこのプロジェクトの立派なチームメンバーである。当初はこの化合物に大きな期待を感じた人たちの一人である。当然このチームのメンバーには仲間意識を感じていたのであって、裏切るような行為は絶対にしたくないのは間違いなかった。
さらに、今回のデータは、化合物投与群の数値と無投与群の数値とにあまり大きな差が認められなかったものの、きちんと統計学的な有意差が認められているデータであることから、このデータを無視したり捨て去ったりすることはできないものであることを皆に告げた。また、例え再実験して結果が陰性になったとしても、今回の結果があるため、発癌性の疑いはずっと付いて回る、ということも付け加えた。この疑惑を取り除く確実で唯一の方法は、発癌性本試験を実施して発癌性がないことを実験データで示すしかないこともきちんと皆に述べたのであった。
代謝の実験で素晴らしいデータを得て、この化合物に惚れ込み、哲也の所に直接報告に来てくれた、あの代謝担当者が直ぐに質問した。
「発癌性本試験の実施に関して、具体的に説明してくれませんか? 特に、必要な費用とか期間について詳しく教えて下さい」
かなり語気を強めての質問であった。代謝の担当者は、『こんなことであの素晴らしい化合物を葬り去って堪るものか』という意気込みを感じさせるような迫力を持った質問をしたのであった。
「まだ、はっきりとはしていませんが、約一年半の間ずっと投与し続け、発癌作用が認められるかどうかを検証しなければなりません。従って、化合物投与が終了した後での生体の各組織の詳細な観察も含めて、約二年の期間と億を超える費用とが必要になると思います。そして、この発癌性本試験は、本来、プロジェクトZのような臨床研究入りコース転換を行なうような段階で実施する試験ではなく臨床試験の中盤から終盤で行なうのが一般的な試験であることも我々は認識しておかなければならないのです」
安全性担当者は、代謝担当者の迫力に若干押されながらも、冷静に自分の答えなければならないことを明確に伝えた。この日の会議では、ほとんどの時間が発癌性本試験についての議論に費やされた。
結局、哲也の化合物の可能性に魅力を感じ、一種の虜状態に陥っていた多くのチームメンバーの意見に引き摺られ、チームの結論としては、コース転換後直ぐに発癌性本試験の並行的な実施を要求することになった。哲也と永倉とが予想した通りの展開になったのであった。




