No.21 約束の朝(前編)
ユウの自宅は散歩道に面していた。
通りを行き交うのは学生や年配の人々がほとんどだった。
早朝にはランナーの足音が響き、最終バスが過ぎる頃には
人影もまばらになる。
ある日の深夜、ユウはなかなか寝付けずに窓の外を眺めていた。
自宅の斜め前には木製のベンチがひとつ置かれている。
そのベンチに、人が横たわっていた。
外灯の淡い光に浮かび上がる後ろ姿。
大きめのバッグを枕にし、こちらに背を向けて眠っている。
女性だった。
ホームレスだろうか。
そう思った瞬間から、ユウはますます眠れなくなった。
やがて空が白み始めた頃、女性がゆっくりと身を起こし、
立ち去ろうとしていたところを目にした。
気がつくとユウは玄関を飛び出していた。
「突然でごめんなさい」
女性は振り返った。
「私、今からおにぎりを作って食べようと思っていたところなの。
もし失礼でなかったら、ご一緒にいかがですか」
女性は驚いたように目を見開いた。
ユウはその表情をまともに見ることができなかった。
「すぐ持ってきますから」
そう言い残して家に駆け込み、急いで塩むすびを握った。
缶のお茶と海苔を添えて差し出すと、女性は少し戸惑いながらも
素直に受け取った。
ユウは女性の隣に腰を下ろした。
塩むすびに海苔を巻き、大きくかじりつく。
中から昆布の佃煮が申し訳なさそうに顔をのぞかせた。
「お腹が空いていると、こんな物でもおいしいものね。遠慮なさらず、
あなたもどうぞ」
女性は小さくうなずいた。
その横顔を見て、ユウは改めて女性の顔立ちに目を留めた。
切れ長の二重まぶた。すっと通った鼻筋。ふっくらとした唇。
整った顔立ちだった。
だが、その美しさよりも先に、どこか張りつめた疲労の色が目に入った。
女性は海苔を丁寧に巻き、ゆっくりとおむすびを口元へ運んだ。
二人とも何も話さなかった。
風が木々の葉を揺らし、朝の光が少しずつ散歩道を照らしていく。
ただ黙って、おむすびを食べた。
その沈黙は不思議と居心地が悪くなかった。
ユウは何か話しかけようとして、思わず言葉を飲み込んだ。
女性が泣いていた。
声も立てず、ただ涙だけが頬を伝っている。
「大丈夫ですか」
できるだけ静かな声で尋ねた。
女性は涙をぬぐい、かすかに微笑んだ。
「迷惑だから別の場所へ行って、と言われることがほとんどでした。
嬉しくて……自然に涙が出てしまいました。ありがとうございます」
優しい声だった。
おむすびを食べ終え、缶のお茶を口に運ぶ頃になると、女性はぽつりぽつりと自分のことを話し始めた。
父親は会社を経営していたこと。
何不自由なく育ったこと。
二十歳のとき、留学先のアメリカで父の訃報を聞いたこと。
音楽学校を辞めて帰国したときには、住んでいた屋敷も失われていたこと。
母と二人で暮らしたこと。
その母も数年前に亡くなったこと。
生活のためにバーでピアノの弾き語りをしていたが、
店を辞めることになったこと。
そして今は、行く当てもなく夜を過ごしていること。
「でもね」 女性は少しだけ笑った。
「舞台衣装だけは捨てられなかったのです」
その言葉にだけ、かすかな誇りが混じっていた。
「だからトランクルームを借りています。今の私には、
いちばん高価な持ち物かもしれません」
話し終えると、女性は空になった缶を見つめた。
ユウは何も言わなかった。 何も言えなかった。
その時、突然、ユウは亡き母の言葉を思い出した。




