No.15 沈黙の遺言(後編)
智子が息を引き取ったのは、それから一週間も経たない朝のことだった。
あまりにも静かな最期だった。
まるで、自ら定めた約束をすべて終え、
安心して眠りについたかのようだった。
葬儀を終えた数日後、弁護士事務所の応接室で遺産についての話し合いが開かれた。
部屋に集まったのは、弁護士、長男の一郎、長女の明子、そしてユウの四人だけだった。
重苦しい沈黙が部屋を包んでいた。
やがて弁護士が静かに口を開く。
「それでは、遺言書を開封いたします」
全員の視線がユウへ向けられた。
ユウは静かに頷き、封筒を取り出した。
差し出された鋏を受け取り、ゆっくりと封に刃を入れた。
紙を裂く乾いた音だけが、部屋に響いた。
――その中身は、すでに知っている。
それでも初めて目にするものとして、一枚の便箋を丁寧に広げた。
そこには智子の自筆で、簡潔な文章だけが記されていた。
遺言書
長男 山田一郎に全財産を与える。
長女 山田明子には、本人所有の物以外、一切相続させない。
令和二年三月二日
山田智子
短い遺言だった。
理由も、言い訳も、一切書かれていない。
沈黙が部屋を覆った。
最初に口を開いたのは一郎だった。
「……母は、死を前にして正常な判断ができなくなっていたのかもしれません」
そう言うと、遺言書を乱暴に受け取り、何度も読み返した。
怒りというより、理解のできない現実を拒もうとしているようだった。
すると、その隣で静かな声が響いた。
「分かりました。」 明子だった。
「私は、それで十分です。」 誰もが彼女を見つめた。
「大学まで行かせてもらいました。不自由なく育ててもらいました。それだけで十分です」
その声に恨みは感じられなかった。
「でも……もし許されるなら、一つだけ教えてください。」
明子は真っ直ぐユウを見つめた。
「母は、なぜ私に何も残さなかったのでしょうか」
逃げ場のない沈黙に包まれた。
ユウはゆっくり息を吸った。
病室で交わした約束が胸によみがえる。
「智子さんは、生前、この理由を皆さんに伝えてほしいと私に託されました」
誰も言葉を発しなかった。
「話せば、皆さんを傷つけることになります」
それでも、ユウは静かに続けた。
「これは智子さんが、最後まで背負い続けた罪のお話です」
一郎の表情が固くなった。 明子は黙って耳を傾けていた。
「若い頃、お父さんには別の女性がいました。」
ユウの静かな声だけが部屋に流れた。
「智子さんは深く傷つきました。そして、その苦しみの中で、勤め先の店長と関係を持ってしまったのです」 重苦しい空気が流れた。
「その後、妊娠に気づいたそうです」
ユウは一度言葉を止めた。 そして明子を見つめた。
「明子さん……あなたは、お父さんの実の娘ではありません」
時が止まった様だった。 誰も動かなかった。
聞こえるのは壁掛け時計の秒針だけだった。
「智子さんのご主人は、生涯その事実を知ることはありませんでした」
ユウは続けた。
「でも智子さんは、最期を前にして、自分の犯した過ちと向き合おうと決めたのです。」
「あなたに遺産を残さなかったのは、憎んでいたからではありません。
自分の罪を、最後まで自分自身で引き受けようとした結果だったのです」
静かな沈黙が流れた。
やがて明子が、小さく息をついた。
「……そうだったのですね。」
その顔に涙はなかった。
「母は、昔から私にどこか距離を置いていました。」
少しだけ寂しそうに笑った。
「でも、今日やっと理由が分かりました。」
一郎は黙ったまま俯いていた。
父の裏切りと父を裏切った母。
知らずに娘を育て続けた父。
どちらの苦しみも、一度には受け止めきれなかった。
明子は静かに立ち上がった。
「父にも兄にも、感謝しかありません」 深く頭を下げた。
「今まで、本当にありがとうございました。」
バッグを手に取り、部屋を出ようとした。
「明子!」
一郎が呼び止めた。
「どうするつもりだ。今までどおり、一緒に暮らそう。」
明子は立ち止まった。
しかし振り返ることはなかった。
「ありがとう、お兄ちゃん。」
その一言だけ残し、事務所をを出て行った。
ユウは静かに後を追った。
廊下で追いつくと、明子は窓辺に立ち止まり、春の日差しを見つめていた。
「これから、どうするつもり?」 ユウは尋ねた。
明子は穏やかに微笑んだ。
「もう一人でも生きていける年齢ですから・・・これからのことは、ゆっくり考えます」
そして少し間を置いて言った。
「落ち着いたら……実の父にも会ってみたいと思います」
ユウは静かに頷いた。
「一つだけ、伝えておくわ」
明子がユウを見ながら言った。
「智子は、あなたを憎んでいたわけじゃない」
「最後まで憎んでいたのは、自分自身だったの」
明子はゆっくりと頷いた。
「分かっています」
その笑顔は、どこか幼さが消え、一人の大人の女性のものになっていた。
「私は、大丈夫です」
「兄の留守中に荷物だけ取りに来ます」
そう言うと、明子は歩き出した。
その背中を、ユウは静かに見送った。
もう引き止める理由はなかった。
明子は過去ではなく、自分の未来へ向かって歩き始めていた。
ユウはゆっくり空を見上げた。
「……智子。」
小さくつぶやくように言った。
「心配はいらないよ。全部、うまくいく」
北風はいつしか遠のき、柔らかな春の風が街を渡っていた。
人は過ちを消すことはできない。
それでも、その過ちと向き合い、生き直すことはできる。
智子が遺した沈黙の遺言は、それぞれの胸に新しい季節を運んでいた。




