第95話 監査所見、読まれる
王太子府の会議室には、夕方の光が斜めに入っていた。
王城の西側にあるその部屋は、普段なら補佐官たちが集まり、商務、儀典、地方貴族からの陳情を処理するために使われる。壁には王国地図が掛けられ、棚には過去の監査報告と領地収支に関する写しが並んでいる。
そこに、今日はいつもより重い空気があった。
王太子アルベルトは上座に座っていた。
机の上には、辺境から戻った監査所見の封筒。
王太子府監査局宛ての証拠封箱。
ロイエン副使の先行小文。
そして、王太子府補佐官室が作った簡単な要約紙。
要約紙には、すでにいくつかの言葉が並んでいる。
辺境側手順への過度な同調。
王太子府権限の相対化懸念。
帳場を中心とする現地支配体制。
フェルナー監査官は、その要約紙を見て、眉を動かした。
ほんのわずかだった。
だが、彼を知る者なら、それが不快の表れだとわかっただろう。
ロイエン副使は、隣で静かに立っている。
表情は整っていた。
ただ、指先だけが机の縁を軽く叩いている。
エドガル・ヴァイスナーは、アルベルトの斜め後ろに控えていた。
彼は焦っていないように見える。
少なくとも、そう見えるようにしている。
監査所見が辺境を断罪するものではないことは、ロイエンの小文で予想できていた。
だからこそ、読む前に空気を作った。
フェルナーは慎重すぎる。
辺境側に引きずられている。
レティシアは帳場を使い、王太子府の手を縛っている。
先にそう置いておけば、同じ文章も別の色に見える。
アルベルトは封筒を見下ろし、不機嫌そうに言った。
「開けろ」
補佐官が封蝋を確認し、受領記録を読み上げる。
「監査所見封筒、王都門受領時異常なし。補佐官室ヘルムート・ガイゼル一時受領。フェルナー監査官確認済み」
アルベルトが眉をひそめた。
「いちいち名を読む必要があるのか」
フェルナーが答えた。
「必要です」
「ここは辺境の帳場ではない」
「証拠と所見の道筋を確認する場です。場所は関係ありません」
部屋の空気が少し硬くなる。
アルベルトは、露骨に不快そうな顔をした。
「続けろ」
封筒が開かれる。
厚い紙束が取り出され、補佐官が読み上げを始めた。
第一項。
銀狐商会との試験取引について。
現地裁量の範囲を著しく逸脱した事実は、現時点で確認されない。
ただし、鉱石を扱う交易であるため、王太子府への仮報告手順を設けること。
アルベルトはすぐに顔を上げた。
「逸脱していない?」
フェルナーが頷く。
「現時点では」
「銀狐商会と鉱石取引をしているのだろう」
「試験取引です。規模、対価、配分、町荷車屋の参加記録を確認しました。問題点はありますが、不正取引と断定する材料はありません」
「問題点があるなら、問題だろう」
「問題点と不正は違います」
フェルナーの声は平坦だった。
それがかえって、アルベルトの苛立ちを煽った。
第二項。
帳場記録について。
物資配分、町荷車屋参加、夜番負担、豆札制度などに記録整備の意思が認められる。
未成熟ながら、領内運営の透明性向上に資する。
「透明性向上」
アルベルトはその言葉を嫌そうに繰り返した。
「民に帳場を見せることが、そんなに立派なことか」
フェルナーは答える。
「食料配分や夜番負担に関わる部分を、町代表者に説明した記録があります。結果として、噂による混乱は抑えられています」
エドガルが静かに口を挟んだ。
「しかし、殿下。民に不満を言わせ、その不満を帳場で吸い上げる仕組みは、見方を変えれば領民を帳場へ依存させる体制です」
フェルナーの目がエドガルへ向く。
「不満が噂や暴発ではなく記録へ向かうことは、統治上の利点です」
「利点だけなら、そうでしょう」
エドガルは穏やかに返す。
「問題は、その帳場を誰が握っているかです」
アルベルトの視線が鋭くなる。
「レティシアか」
「はい」
エドガルは深く頭を下げる。
「辺境の民が、王太子府ではなくレティシア嬢の帳場へ不満を持ち込む。これが長く続けば、現地の忠誠はどこへ向くでしょうか」
フェルナーは即座に言った。
「忠誠を測る監査ではありません」
「しかし、統治に関わります」
「統治に関わるからこそ、私は不正と改善事項を切り分けています」
アルベルトは机を指で叩いた。
「続けろ」
第三項。
証拠棚保全。
封印一号から三号の現状保全、写し作成、採取片送付、封箱追跡帳の整備は妥当。
ただし、初期対応には不備あり。
アルベルトはそこへ食いついた。
「不備があるではないか」
「あります」
フェルナーはあっさり認めた。
「現場発見から正式登録までの時間差、豆札改ざん未遂時の紐保全漏れ、聞き取り書式のばらつき。改善事項として記載しています」
「なら、なぜそれをもっと重く見ない」
「改善可能な実務不備だからです」
ロイエンが口を開いた。
「監査官殿は、辺境側の不備には寛容ですな」
フェルナーはロイエンを見る。
「君の異論所見は添付してある」
「承知しています」
「なら、ここでは本所見への事実誤認がある場合のみ言え」
ロイエンの笑みが薄くなる。
アルベルトは、そのやり取りを不機嫌そうに見ていた。
かつてなら、自分の一言で場が動いた。
だが今は、フェルナーが監査官としての手順を盾にしている。
ロイエンは署名付きの異論所見に縛られている。
エドガルでさえ、慎重に言葉を選んでいる。
その中心にあるのは、辺境から戻ってきた紙だ。
レティシアの紙。
そう思うと、胸の奥がざわついた。
第四項。
白蔦会関連調査。
断定は行わない。
だが、空箱、焼け帳面、火災現場物証、証言群、王立書庫照合文の関連性から、継続調査の必要性は高い。
エドガルの指先が、ほんの一瞬だけ動いた。
誰も気づかないほど小さな動きだった。
フェルナーは気づいた。
だが何も言わない。
ここで言うべきことではない。
アルベルトは眉を寄せる。
「白蔦会というのは、結局何なのだ」
フェルナーが答える。
「辺境側では、金貸し、証拠攪乱、火災、香木箱、鉱石流通に関わる符丁網として認識されています。ただし全容は不明です」
「不明なものを、なぜそこまで大きく扱う」
「火災現場に物証があるためです」
「その白蔦会とやらが、ヴァイスナー家に繋がると言いたいのか」
部屋の空気が、ぴたりと止まった。
エドガルは、静かに顔を上げた。
フェルナーは、少しも慌てなかった。
「現時点では断定していません」
「現時点では、か」
「王立書庫照合により、後援印がヴァイスナー侯爵家分家印に類似する候補として挙がっています。ただし候補です」
アルベルトはエドガルを見る。
エドガルは、深く頭を下げた。
「殿下。ヴァイスナー家ほど枝の多い家であれば、古い印がどこかで悪用される可能性はございます。むしろ私どもも被害者である可能性が」
「黙れとは言っていない」
「失礼いたしました」
エドガルはすぐに引いた。
引き際は心得ている。
今は強く否定しすぎても怪しい。
あくまで、分家印の悪用の可能性を置くだけでよい。
第五項。
証人保護。
証人には保身、恐怖、恩義等の動機がある。
しかし、それは証言を直ちに無効とする理由にはならない。
アルベルトは顔をしかめた。
「恩義があるなら、レティシアに都合のいい証言をするだろう」
フェルナーは答える。
「その可能性はあります。だから物証、時系列、第三者証言と照合しています」
「結局、可能性ばかりではないか」
「監査とは、可能性を断定へ飛ばすことではありません。確認できる範囲と、できない範囲を分けることです」
アルベルトは椅子の背にもたれた。
その顔には、明らかに不満があった。
彼が求めていたのは、もっと単純な結論だった。
レティシアに問題があった。
辺境の運営は危険だった。
王太子府の監督が必要だった。
そう言ってくれればよかった。
だが所見は違う。
不備はある。
改善は必要。
監督も必要。
しかし、不正とは断定しない。
その曖昧さが、アルベルトには苛立たしかった。
第六項。
王立書庫との照合および王太子府への報告遅延。
報告遅延は重大な判断。
だが、商務院記録欠落、旧代官所記録分離、細目の質屋帳面焼却、ベルナール・ロック移送疑い、王都側仮倉庫発見報告を踏まえ、証拠保全上の懸念は否定できない。
アルベルトは、とうとう声を荒げた。
「つまり、王太子府を信用できなかったと言っているのだろう」
フェルナーは即答した。
「王太子府内に関係者がいる可能性を考慮した、という説明です」
「同じことだ」
「同じではありません」
「俺の府が疑われたのだぞ」
その言葉には、王太子としての怒りがあった。
だが、そこに混ざっている個人的な苛立ちを、エドガルは見逃さなかった。
レティシアに疑われた。
その事実が、アルベルトの自尊心を刺している。
エドガルは静かに言う。
「殿下。レティシア嬢に悪意があったと断じるには、まだ慎重であるべきでしょう」
アルベルトがエドガルを見る。
意外そうだった。
エドガルは続ける。
「ですが、結果として王太子府への報告が保留され、王立書庫との照合が優先された。これは制度上、看過すべきではありません」
「つまり?」
「フェルナー監査官の所見通り、不正断定ではなく改善対象として扱う。その上で、王太子府の関与を強めるべきかと」
アルベルトの目が動く。
「関与を強める」
「はい」
エドガルは、静かに紙を一枚差し出した。
それは、あらかじめ用意していた案だった。
北方旧所領改善監督案。
フェルナーの眉が動く。
エドガルは、あえてその反応に気づかないふりをした。
「監査所見は、不備と改善事項を多数認めています。ならば、それを支援するため、王太子府から常駐の監督官を置くことも考えられます」
アルベルトは紙を受け取る。
「常駐か」
「名目は支援です。辺境側も改善事項が多く、書式整備、仮報告、証拠保全、銀狐商会取引と仕事が増えております。王太子府から人を出せば、報告遅延も防げます」
言葉はもっともらしい。
支援。
改善。
報告遅延防止。
だがフェルナーは、その中に別の線を見た。
現地帳場の上に、王太子府の目を置く。
レティシアの手順へ、別の手順を重ねる。
そして、証人、証拠、銀狐商会取引へ触れる口実を作る。
フェルナーは言った。
「現段階での常駐監督官派遣には慎重であるべきです」
アルベルトが眉をひそめる。
「なぜだ」
「現地運営がようやく回り始めた段階です。外部監督官を入れれば、帳場の指示系統が二重化する恐れがあります」
エドガルは穏やかに返す。
「混乱するなら、それこそ監督が必要なのでは?」
「違います」
フェルナーははっきり言った。
「混乱の中で整え始めた手順へ、別の命令系統を上から差し込めば、改善ではなく停止になります」
アルベルトは不満そうにフェルナーを見る。
「お前は、どこまで辺境の肩を持つ」
「肩は持っていません。監査所見に基づいて言っています」
「その所見が慎重すぎると言われている」
「慎重でなければ監査ではありません」
部屋の空気が凍る。
ロイエンが、ここで静かに口を挟んだ。
「監督官という名が強すぎるのであれば、連絡官という形もございます」
エドガルは、わずかに目を細めた。
ロイエンも読んでいる。
常駐監督官では、フェルナーが強く反対する。
ならば名を変える。
「王太子府連絡官」
ロイエンは言った。
「監督ではなく、報告の円滑化と王都との調整を担う役です。辺境側も、仮報告手順や証拠保全報告で負担が増える。連絡官がいれば助けになるでしょう」
助け。
その言葉を聞いて、フェルナーは目を細めた。
名を柔らかくしただけだ。
だが、王太子府の会議では、名の柔らかさが通り道になることがある。
アルベルトは考え込んだ。
「連絡官か」
エドガルは、すぐに乗った。
「よい案かと。監督という言葉を使わずとも、王太子府の目は置けます」
「誰を出す」
アルベルトの問いに、部屋の視線が自然とロイエンへ向いた。
ロイエンは一礼した。
「私でよろしければ、現地事情は把握しております」
フェルナーは即座に言った。
「ロイエン副使は不適です」
ロイエンの顔が一瞬だけ固まる。
「理由は?」
「監査中、非公式接触を行った記録があります」
会議室が静まり返った。
アルベルトがロイエンを見る。
「非公式接触?」
フェルナーは淡々と説明した。
「休憩中、監査対象に含まれる現地荷運びガレスへ、帳場の公平性について記録外で質問を試みました。町人ヨハンが帳場での記録付き質問を求め、接触は中断。記録済みです」
ロイエンの表情は整っていたが、目だけが冷えていた。
「軽い雑談です」
「記録では、非公式接触として扱っています」
フェルナーは返す。
「連絡官は現地町人、証人、帳場記録へ接する立場になる。記録外接触の前歴がある者は避けるべきです」
エドガルは内心で舌打ちした。
ここでも記録か。
アルベルトは、苛立たしげに机を叩く。
「なら、条件をつければいい。連絡官の職務範囲を明文化し、証人接触は禁止。帳場記録へのアクセスも範囲を定める」
フェルナーは少しだけ黙った。
それなら反対しにくい。
ロイエン派遣を止めきれなくても、縛ることはできる。
「条件付き検討なら、監査所見と矛盾しません」
フェルナーは言った。
「ただし、職務範囲、閲覧範囲、証人接触禁止、銀狐商会取引への関与範囲、行動記録を明文化すること」
エドガルの顔には出なかった。
だが心の中で、はっきりと毒づいた。
また紙か。
アルベルトは、疲れたように息を吐いた。
「よい。連絡官案を条件付きで詰めろ」
エドガルが一礼する。
「御意」
その時、会議室の外で小さな物音がした。
扉の外。
エミリアが立っていた。
彼女は偶然、通りかかっただけだった。
少なくとも、そう見える。
だが中の声は聞こえていた。
レティシア。
辺境。
監査所見。
連絡官。
アルベルトの苛立ち。
姉は、ここにいない。
それなのに、この部屋の中心にいる。
エミリアは、扇を握る手に力を込めた。
誰も彼女に気づかない。
彼女は静かに廊下を離れた。
胸の奥で、何かが崩れかけている。
姉が遠くへ行けば、自分の場所が空くと思っていた。
けれど遠くへ行った姉は、紙の束になって戻ってきた。
そして、また皆が姉の話をしている。
「私だって……」
誰にも聞こえないほど小さく、エミリアは呟いた。
「私だって、役に立てるのに」
その声には、嫉妬と不安と、幼い決意が混ざっていた。
王都の夜は、まだ始まったばかりだった。




