表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
95/256

第95話 監査所見、読まれる

 王太子府の会議室には、夕方の光が斜めに入っていた。


 王城の西側にあるその部屋は、普段なら補佐官たちが集まり、商務、儀典、地方貴族からの陳情を処理するために使われる。壁には王国地図が掛けられ、棚には過去の監査報告と領地収支に関する写しが並んでいる。


 そこに、今日はいつもより重い空気があった。


 王太子アルベルトは上座に座っていた。


 机の上には、辺境から戻った監査所見の封筒。

 王太子府監査局宛ての証拠封箱。

 ロイエン副使の先行小文。

 そして、王太子府補佐官室が作った簡単な要約紙。


 要約紙には、すでにいくつかの言葉が並んでいる。


 辺境側手順への過度な同調。

 王太子府権限の相対化懸念。

 帳場を中心とする現地支配体制。


 フェルナー監査官は、その要約紙を見て、眉を動かした。


 ほんのわずかだった。

 だが、彼を知る者なら、それが不快の表れだとわかっただろう。


 ロイエン副使は、隣で静かに立っている。


 表情は整っていた。

 ただ、指先だけが机の縁を軽く叩いている。


 エドガル・ヴァイスナーは、アルベルトの斜め後ろに控えていた。


 彼は焦っていないように見える。

 少なくとも、そう見えるようにしている。


 監査所見が辺境を断罪するものではないことは、ロイエンの小文で予想できていた。


 だからこそ、読む前に空気を作った。


 フェルナーは慎重すぎる。

 辺境側に引きずられている。

 レティシアは帳場を使い、王太子府の手を縛っている。


 先にそう置いておけば、同じ文章も別の色に見える。


 アルベルトは封筒を見下ろし、不機嫌そうに言った。


「開けろ」


 補佐官が封蝋を確認し、受領記録を読み上げる。


「監査所見封筒、王都門受領時異常なし。補佐官室ヘルムート・ガイゼル一時受領。フェルナー監査官確認済み」


 アルベルトが眉をひそめた。


「いちいち名を読む必要があるのか」


 フェルナーが答えた。


「必要です」


「ここは辺境の帳場ではない」


「証拠と所見の道筋を確認する場です。場所は関係ありません」


 部屋の空気が少し硬くなる。


 アルベルトは、露骨に不快そうな顔をした。


「続けろ」


 封筒が開かれる。


 厚い紙束が取り出され、補佐官が読み上げを始めた。


 第一項。

 銀狐商会との試験取引について。


 現地裁量の範囲を著しく逸脱した事実は、現時点で確認されない。

 ただし、鉱石を扱う交易であるため、王太子府への仮報告手順を設けること。


 アルベルトはすぐに顔を上げた。


「逸脱していない?」


 フェルナーが頷く。


「現時点では」


「銀狐商会と鉱石取引をしているのだろう」


「試験取引です。規模、対価、配分、町荷車屋の参加記録を確認しました。問題点はありますが、不正取引と断定する材料はありません」


「問題点があるなら、問題だろう」


「問題点と不正は違います」


 フェルナーの声は平坦だった。


 それがかえって、アルベルトの苛立ちを煽った。


 第二項。

 帳場記録について。


 物資配分、町荷車屋参加、夜番負担、豆札制度などに記録整備の意思が認められる。

 未成熟ながら、領内運営の透明性向上に資する。


「透明性向上」


 アルベルトはその言葉を嫌そうに繰り返した。


「民に帳場を見せることが、そんなに立派なことか」


 フェルナーは答える。


「食料配分や夜番負担に関わる部分を、町代表者に説明した記録があります。結果として、噂による混乱は抑えられています」


 エドガルが静かに口を挟んだ。


「しかし、殿下。民に不満を言わせ、その不満を帳場で吸い上げる仕組みは、見方を変えれば領民を帳場へ依存させる体制です」


 フェルナーの目がエドガルへ向く。


「不満が噂や暴発ではなく記録へ向かうことは、統治上の利点です」


「利点だけなら、そうでしょう」


 エドガルは穏やかに返す。


「問題は、その帳場を誰が握っているかです」


 アルベルトの視線が鋭くなる。


「レティシアか」


「はい」


 エドガルは深く頭を下げる。


「辺境の民が、王太子府ではなくレティシア嬢の帳場へ不満を持ち込む。これが長く続けば、現地の忠誠はどこへ向くでしょうか」


 フェルナーは即座に言った。


「忠誠を測る監査ではありません」


「しかし、統治に関わります」


「統治に関わるからこそ、私は不正と改善事項を切り分けています」


 アルベルトは机を指で叩いた。


「続けろ」


 第三項。

 証拠棚保全。


 封印一号から三号の現状保全、写し作成、採取片送付、封箱追跡帳の整備は妥当。

 ただし、初期対応には不備あり。


 アルベルトはそこへ食いついた。


「不備があるではないか」


「あります」


 フェルナーはあっさり認めた。


「現場発見から正式登録までの時間差、豆札改ざん未遂時の紐保全漏れ、聞き取り書式のばらつき。改善事項として記載しています」


「なら、なぜそれをもっと重く見ない」


「改善可能な実務不備だからです」


 ロイエンが口を開いた。


「監査官殿は、辺境側の不備には寛容ですな」


 フェルナーはロイエンを見る。


「君の異論所見は添付してある」


「承知しています」


「なら、ここでは本所見への事実誤認がある場合のみ言え」


 ロイエンの笑みが薄くなる。


 アルベルトは、そのやり取りを不機嫌そうに見ていた。


 かつてなら、自分の一言で場が動いた。


 だが今は、フェルナーが監査官としての手順を盾にしている。

 ロイエンは署名付きの異論所見に縛られている。

 エドガルでさえ、慎重に言葉を選んでいる。


 その中心にあるのは、辺境から戻ってきた紙だ。


 レティシアの紙。


 そう思うと、胸の奥がざわついた。


 第四項。

 白蔦会関連調査。


 断定は行わない。

 だが、空箱、焼け帳面、火災現場物証、証言群、王立書庫照合文の関連性から、継続調査の必要性は高い。


 エドガルの指先が、ほんの一瞬だけ動いた。


 誰も気づかないほど小さな動きだった。


 フェルナーは気づいた。


 だが何も言わない。


 ここで言うべきことではない。


 アルベルトは眉を寄せる。


「白蔦会というのは、結局何なのだ」


 フェルナーが答える。


「辺境側では、金貸し、証拠攪乱、火災、香木箱、鉱石流通に関わる符丁網として認識されています。ただし全容は不明です」


「不明なものを、なぜそこまで大きく扱う」


「火災現場に物証があるためです」


「その白蔦会とやらが、ヴァイスナー家に繋がると言いたいのか」


 部屋の空気が、ぴたりと止まった。


 エドガルは、静かに顔を上げた。


 フェルナーは、少しも慌てなかった。


「現時点では断定していません」


「現時点では、か」


「王立書庫照合により、後援印がヴァイスナー侯爵家分家印に類似する候補として挙がっています。ただし候補です」


 アルベルトはエドガルを見る。


 エドガルは、深く頭を下げた。


「殿下。ヴァイスナー家ほど枝の多い家であれば、古い印がどこかで悪用される可能性はございます。むしろ私どもも被害者である可能性が」


「黙れとは言っていない」


「失礼いたしました」


 エドガルはすぐに引いた。


 引き際は心得ている。


 今は強く否定しすぎても怪しい。

 あくまで、分家印の悪用の可能性を置くだけでよい。


 第五項。

 証人保護。


 証人には保身、恐怖、恩義等の動機がある。

 しかし、それは証言を直ちに無効とする理由にはならない。


 アルベルトは顔をしかめた。


「恩義があるなら、レティシアに都合のいい証言をするだろう」


 フェルナーは答える。


「その可能性はあります。だから物証、時系列、第三者証言と照合しています」


「結局、可能性ばかりではないか」


「監査とは、可能性を断定へ飛ばすことではありません。確認できる範囲と、できない範囲を分けることです」


 アルベルトは椅子の背にもたれた。


 その顔には、明らかに不満があった。


 彼が求めていたのは、もっと単純な結論だった。


 レティシアに問題があった。

 辺境の運営は危険だった。

 王太子府の監督が必要だった。


 そう言ってくれればよかった。


 だが所見は違う。


 不備はある。

 改善は必要。

 監督も必要。

 しかし、不正とは断定しない。


 その曖昧さが、アルベルトには苛立たしかった。


 第六項。

 王立書庫との照合および王太子府への報告遅延。


 報告遅延は重大な判断。

 だが、商務院記録欠落、旧代官所記録分離、細目の質屋帳面焼却、ベルナール・ロック移送疑い、王都側仮倉庫発見報告を踏まえ、証拠保全上の懸念は否定できない。


 アルベルトは、とうとう声を荒げた。


「つまり、王太子府を信用できなかったと言っているのだろう」


 フェルナーは即答した。


「王太子府内に関係者がいる可能性を考慮した、という説明です」


「同じことだ」


「同じではありません」


「俺の府が疑われたのだぞ」


 その言葉には、王太子としての怒りがあった。


 だが、そこに混ざっている個人的な苛立ちを、エドガルは見逃さなかった。


 レティシアに疑われた。


 その事実が、アルベルトの自尊心を刺している。


 エドガルは静かに言う。


「殿下。レティシア嬢に悪意があったと断じるには、まだ慎重であるべきでしょう」


 アルベルトがエドガルを見る。


 意外そうだった。


 エドガルは続ける。


「ですが、結果として王太子府への報告が保留され、王立書庫との照合が優先された。これは制度上、看過すべきではありません」


「つまり?」


「フェルナー監査官の所見通り、不正断定ではなく改善対象として扱う。その上で、王太子府の関与を強めるべきかと」


 アルベルトの目が動く。


「関与を強める」


「はい」


 エドガルは、静かに紙を一枚差し出した。


 それは、あらかじめ用意していた案だった。


 北方旧所領改善監督案。


 フェルナーの眉が動く。


 エドガルは、あえてその反応に気づかないふりをした。


「監査所見は、不備と改善事項を多数認めています。ならば、それを支援するため、王太子府から常駐の監督官を置くことも考えられます」


 アルベルトは紙を受け取る。


「常駐か」


「名目は支援です。辺境側も改善事項が多く、書式整備、仮報告、証拠保全、銀狐商会取引と仕事が増えております。王太子府から人を出せば、報告遅延も防げます」


 言葉はもっともらしい。


 支援。

 改善。

 報告遅延防止。


 だがフェルナーは、その中に別の線を見た。


 現地帳場の上に、王太子府の目を置く。

 レティシアの手順へ、別の手順を重ねる。

 そして、証人、証拠、銀狐商会取引へ触れる口実を作る。


 フェルナーは言った。


「現段階での常駐監督官派遣には慎重であるべきです」


 アルベルトが眉をひそめる。


「なぜだ」


「現地運営がようやく回り始めた段階です。外部監督官を入れれば、帳場の指示系統が二重化する恐れがあります」


 エドガルは穏やかに返す。


「混乱するなら、それこそ監督が必要なのでは?」


「違います」


 フェルナーははっきり言った。


「混乱の中で整え始めた手順へ、別の命令系統を上から差し込めば、改善ではなく停止になります」


 アルベルトは不満そうにフェルナーを見る。


「お前は、どこまで辺境の肩を持つ」


「肩は持っていません。監査所見に基づいて言っています」


「その所見が慎重すぎると言われている」


「慎重でなければ監査ではありません」


 部屋の空気が凍る。


 ロイエンが、ここで静かに口を挟んだ。


「監督官という名が強すぎるのであれば、連絡官という形もございます」


 エドガルは、わずかに目を細めた。


 ロイエンも読んでいる。


 常駐監督官では、フェルナーが強く反対する。

 ならば名を変える。


「王太子府連絡官」


 ロイエンは言った。


「監督ではなく、報告の円滑化と王都との調整を担う役です。辺境側も、仮報告手順や証拠保全報告で負担が増える。連絡官がいれば助けになるでしょう」


 助け。


 その言葉を聞いて、フェルナーは目を細めた。


 名を柔らかくしただけだ。


 だが、王太子府の会議では、名の柔らかさが通り道になることがある。


 アルベルトは考え込んだ。


「連絡官か」


 エドガルは、すぐに乗った。


「よい案かと。監督という言葉を使わずとも、王太子府の目は置けます」


「誰を出す」


 アルベルトの問いに、部屋の視線が自然とロイエンへ向いた。


 ロイエンは一礼した。


「私でよろしければ、現地事情は把握しております」


 フェルナーは即座に言った。


「ロイエン副使は不適です」


 ロイエンの顔が一瞬だけ固まる。


「理由は?」


「監査中、非公式接触を行った記録があります」


 会議室が静まり返った。


 アルベルトがロイエンを見る。


「非公式接触?」


 フェルナーは淡々と説明した。


「休憩中、監査対象に含まれる現地荷運びガレスへ、帳場の公平性について記録外で質問を試みました。町人ヨハンが帳場での記録付き質問を求め、接触は中断。記録済みです」


 ロイエンの表情は整っていたが、目だけが冷えていた。


「軽い雑談です」


「記録では、非公式接触として扱っています」


 フェルナーは返す。


「連絡官は現地町人、証人、帳場記録へ接する立場になる。記録外接触の前歴がある者は避けるべきです」


 エドガルは内心で舌打ちした。


 ここでも記録か。


 アルベルトは、苛立たしげに机を叩く。


「なら、条件をつければいい。連絡官の職務範囲を明文化し、証人接触は禁止。帳場記録へのアクセスも範囲を定める」


 フェルナーは少しだけ黙った。


 それなら反対しにくい。


 ロイエン派遣を止めきれなくても、縛ることはできる。


「条件付き検討なら、監査所見と矛盾しません」


 フェルナーは言った。


「ただし、職務範囲、閲覧範囲、証人接触禁止、銀狐商会取引への関与範囲、行動記録を明文化すること」


 エドガルの顔には出なかった。


 だが心の中で、はっきりと毒づいた。


 また紙か。


 アルベルトは、疲れたように息を吐いた。


「よい。連絡官案を条件付きで詰めろ」


 エドガルが一礼する。


「御意」


 その時、会議室の外で小さな物音がした。


 扉の外。


 エミリアが立っていた。


 彼女は偶然、通りかかっただけだった。

 少なくとも、そう見える。


 だが中の声は聞こえていた。


 レティシア。

 辺境。

 監査所見。

 連絡官。

 アルベルトの苛立ち。


 姉は、ここにいない。


 それなのに、この部屋の中心にいる。


 エミリアは、扇を握る手に力を込めた。


 誰も彼女に気づかない。


 彼女は静かに廊下を離れた。


 胸の奥で、何かが崩れかけている。


 姉が遠くへ行けば、自分の場所が空くと思っていた。


 けれど遠くへ行った姉は、紙の束になって戻ってきた。


 そして、また皆が姉の話をしている。


「私だって……」


 誰にも聞こえないほど小さく、エミリアは呟いた。


「私だって、役に立てるのに」


 その声には、嫉妬と不安と、幼い決意が混ざっていた。


 王都の夜は、まだ始まったばかりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ