第47話 北の山道に残る香り
試験取引の翌朝、帳場にはいつもより早く灯りが入っていた。
昨日一日で動いた荷、量られた鉱石、受け取った塩と燃料、仮置きされた馬具材料。すべてを照合するには、朝の静かな時間が必要だった。
ルイスはまだ眠そうな顔をしていたが、手だけは正確に動いている。
「鉱石の重量、引き渡し時の数値と一致。対価の塩、燃料、馬具材料も受領記録と一致。現金分も、封印に異常ありません」
「よかったわ」
レティシア・エーヴェルシュタインは、帳簿に目を落としたまま頷いた。
大きな利益ではない。
だが、初めて外の商会とこちらの規則で取引した。その意味は、数字以上に重い。
ディルク・ヴァルゼンは窓際に立ち、中継小屋の方を見ていた。
「銀狐商会の荷車は、昼前には北へ戻るそうです」
「セラフィナは?」
「出立前に、お会いしたいと」
「でしょうね」
レティシアは短く答えた。
彼女も、あの女商人が黙って帰るとは思っていなかった。
午前、銀狐商会の馬車が門前に整えられた。
町の者たちは、遠巻きにその様子を見ている。昨日と違い、好奇心だけではない。自分たちが関わった取引がどう終わるのか、それを見届けようとしている顔だった。
セラフィナ・ヴァルクは、出立用の外套を纏っていた。
昨日の夜会のような艶は少し抑えられ、今朝は商人の顔に戻っている。だが、その目だけは変わらない。こちらを見て、測り、そして楽しんでいる。
「お見送り、感謝いたします」
「形式だけよ」
「あら。形式を整えるのは、とても大切なことでしょう?」
「そうね。あなたに言われると、少し皮肉に聞こえるけれど」
セラフィナは楽しそうに笑った。
「昨日の取引、こちらとしても得るものがありましたわ」
「利益は薄かったでしょう」
「利益は薄くとも、得るものは多い時がございます」
彼女は町へ視線を向けた。
荷捌き場ではヨハンが車輪を確認し、ガレスが荷運び組に声をかけている。豆売りの女主人は露店の前で腕を組み、銀狐商会の荷車をじっと眺めていた。鍛冶屋の親父は、いつも通り不機嫌そうな顔で炉の火を見ている。
どこにでもある、辺境の朝。
けれどセラフィナは、それを軽く見ていない。
「貴女の町は、思ったより厄介ですわ」
「厄介?」
「ええ。甘い話をすればすぐに揺れると思っておりましたのに、皆さま、意外と自分の足元を見ていらっしゃる」
「まだ見始めたばかりよ」
「それが一番厄介なのです。最初から賢い者は、慢心します。けれど、学び始めた者はよく伸びる」
その言葉には、商人としての率直な評価があった。
レティシアは少しだけ目を細める。
「では、次も来るの?」
「もちろん。利益が出るなら、商人は戻ってまいります」
「泣きながらでも?」
「ええ。泣き顔は見せませんけれど」
その返しに、レティシアはほんの少し笑った。
セラフィナは、その表情を見てから、声を落とした。
「ただし、一つだけ忠告を」
空気が変わる。
ディルクが、わずかに立ち位置を変えた。
セラフィナはそれに気づいたが、気にした様子はない。
「北の山道を食っていた者たちは、私どもだけではありません」
「でしょうね」
「驚きませんのね」
「あなた一人で、この流れを何年も維持できたとは思っていないわ」
セラフィナは満足げに頷いた。
「やはり、貴女は嫌になるくらい勘がいい」
「続けて」
「銀狐商会は、確かに山道を知っています。正規も、非正規も。それは否定しません。けれど、あの道に金を流していた者の中には、北の者だけではない」
彼女はそこで一度、王都の方角へ目を向けた。
「王都の香水の匂いがする方々も、混じっておりましたわ」
レティシアは黙った。
胸の奥で、冷たいものが一つ落ちる。
王都。
やはり、そこへ繋がる。
「誰?」
短く問う。
セラフィナは笑みを浮かべたまま、首を横に振った。
「そこまで申せば、商人として売れるものをただで渡しすぎですわ」
「代価は?」
「今は要りません」
「商人なのに?」
「商人だからです」
セラフィナは一歩近づいた。
声は低い。
けれど、よく通る。
「この情報は、貸しにしておきます。いずれ貴女がもっと大きな取引をする時、思い出してくだされば結構ですわ」
ディルクが低く言う。
「脅しか」
「いいえ。挨拶です」
セラフィナは涼しい顔で答えた。
「この土地と長く付き合うなら、最初に隠しすぎるのは得策ではありませんもの」
レティシアは、しばらくセラフィナを見つめていた。
この女は敵だ。
少なくとも、完全な味方ではない。
けれど、ただ潰せばいい相手でもない。
商人として利を求め、時に罠を張り、時に情報を売る。その危うさごと、付き合う価値がある。
「覚えておくわ」
「ええ。そうしてくださいませ」
セラフィナは優雅に一礼した。
「次に参る時までに、貴女の町がどれほど面倒になっているか、楽しみにしております」
「面倒な町にするつもりよ」
「素敵ですわ」
そう言って、セラフィナは馬車へ乗った。
銀狐商会の商隊は、ゆっくりと北の山道へ戻っていった。
銀の狐の旗が遠ざかる。
だが、残された言葉はその場に消えなかった。
王都の香水の匂い。
レティシアは、その言葉を胸の中で繰り返した。
ディルクが隣で低く言う。
「やはり、王都が絡んでいますか」
「可能性は高いわ」
「調べます」
「ええ。でも慎重に。こちらが気づいたと知られれば、相手はすぐ隠す」
「承知しました」
少し離れた場所で、ルイスが帳面を抱えたまま立っていた。
レティシアは彼を呼ぶ。
「今の言葉、記録して」
「はい」
ルイスは緊張した顔で筆を取る。
「銀狐商会セラフィナ・ヴァルク、出立前に北山道裏流通について示唆。関係者は北方商人のみならず、王都貴族筋にも及ぶ可能性あり……」
「まだ断定しないで」
「はい。可能性、ですね」
「ええ。けれど、忘れないように」
ルイスは強く頷いた。
その日の午後、王都では第二王子ルシアンが、古い取引記録を前に同じ線を見つめていた。
銀狐商会。
北方旧所領。
鉱山収益の減少。
王都のある貴族家との密かな取引。
記録は、まだ断片だ。
だが断片が同じ方角を向いている。
近習が静かに問う。
「殿下、こちらの家名は伏せたまま調べますか」
「当然だ」
ルシアンは記録から目を離さない。
「今はまだ、誰かを責める段階ではない。事実を集める段階だ」
「しかし、王太子殿下の側近筋にも関わる可能性が」
「だからこそ慎重に進める」
ルシアンは紙の端へ指を置いた。
そこには、銀狐商会が過去に扱った鉱石の量が記されている。
北方旧所領の表帳簿では鉱山が衰退していた時期と、その取引量が不自然に重なっていた。
「……兄上は、気づいていないのだろうな」
その声には、怒りよりも疲れがあった。
近習は答えない。
ルシアンは窓の外を見た。
王都の庭園は、今日も美しい。
花は整えられ、噴水は澄み、遠目には何も崩れていない。
だが、彼にはもう見えていた。
王都の香は、時に腐敗の匂いを隠す。
「辺境へ、もう少し詳しい使者を出す準備を」
「第二王子殿下の名で、ですか」
「まだ私の名は出さない」
「では」
「書庫調査の一環として、北方旧所領の過去記録を照会する形にする」
近習は一礼した。
「承知しました」
ルシアンは再び記録へ目を落とした。
遠く辺境では、レティシアが同じ匂いに気づき始めている。
王都では、彼が記録から同じ線を追っている。
まだ二人は直接言葉を交わしていない。
だが、同じ謎の両端を掴みつつあった。
その夜、辺境の帳場で、レティシアは今日の記録を口述した。
「銀狐商会、試験取引第一便を終え北方へ帰還。セラフィナ・ヴァルクより、北山道裏流通に王都貴族筋が関与している可能性を示唆される。断定は避けるが、今後の調査対象とする」
ルイスが書き終える。
レティシアは少し間を置き、最後に続けた。
「追記」
「はい」
「北の山道に残っていた影は、王都の香をまとっていた。」
帳場の中が静まった。
窓の外では、中継小屋の三つの火が今夜も揺れている。
火は消えていない。
だが、その先に伸びる影は、思っていたよりずっと長かった。




