第45話 王都からの視線
王都ルーメルンでは、春季祭礼の余韻がまだ残っていた。
余韻、と呼べば聞こえはいい。
だが実際には、甘い香の下に焦げた匂いが混じっているような、どこか居心地の悪い空気だった。
祭礼そのものは終わった。
式次第も、祈祷も、王族の挨拶も、大きく崩れたわけではない。
けれど、王城で働く者なら誰でも気づいていた。
今年の祭礼は、いつものようには回らなかった。
菓子は数が足りず、いくつかの席では配られる順番が変わった。
贈答品の差し替えは直前まで続き、商会の代表者たちは笑顔のまま微妙に距離を取った。
貴族二家の席次を巡る不満は表では抑えられたが、廊下では冷たい言葉が交わされた。
どれも、王国を揺るがす大事件ではない。
だが、小さな綻びが多すぎた。
第二王子ルシアンは、書庫の奥で祭礼記録を閉じた。
机の上には、今年の記録と過去三年分の記録が並んでいる。
見比べれば、違いは明らかだった。
過去の記録には、余白に細かな補記がある。
どの商会へ事前に一筆入れたか。
どの家の喪中に配慮したか。
どの貴族家同士を離したか。
今年の記録には、それが少ない。
いや、少ないのではない。
その補記を書いていた者が、いない。
「殿下」
近習が静かに入ってきた。
「辺境からの追加報告です」
「置いてくれ」
近習は薄い紙束を机へ置いた。
北方旧所領。
追放同然にレティシア・エーヴェルシュタインが送られた土地。
そこに、銀狐商会が入ったという。
ルシアンは紙を一枚めくる。
銀狐商会。
北方山越え交易を扱う大きな商会。
表向きは毛皮、燃料、馬具、塩、鉱石の流通を担う。
だが、王都の古い記録には別の顔も残っている。
山道の裏流通。
税の抜け道。
諸侯と商人の密約。
「……やはり、あそこへ行ったか」
ルシアンが呟くと、近習が問う。
「銀狐商会が、ですか」
「ええ。鉱山が動き始めたのなら、来ない方が不自然だ」
彼はさらに紙をめくった。
報告は断片的だった。
レティシアが銀狐商会の専任委託を拒んだこと。
試験取引に限ったこと。
帳場登録を義務づけたこと。
町の荷車屋と職人を必ず組み込む条件を付けたこと。
ルシアンの目が、そこで止まる。
「……面白い」
近習が顔を上げる。
「殿下?」
「拒まなかったのだな」
「はい。報告では、条件を付けて受けた、と」
「正しい」
ルシアンは静かに言った。
「銀狐を完全に追い払えば、別の抜け道を使われる。丸呑みすれば流れを奪われる。なら、規則で縛って表へ出すのが一番いい」
近習は少し驚いたようだった。
「ずいぶん評価されるのですね」
「評価せざるを得ない」
ルシアンは紙を置く。
「兄上は、あの方を“役目を妹で代えられる婚約者”として切った。だが辺境で彼女がしていることは、王都が失ったものそのものだ」
近習は答えなかった。
その沈黙が、むしろ肯定だった。
やがてルシアンは、別の古い記録を引き寄せた。
銀狐商会の過去取引記録。
そこに名前がいくつか並んでいる。
王都の貴族家。
その中に、アルベルトの側近と縁の深い家名があった。
ルシアンの指が止まる。
「……ここにも繋がるか」
近習がそっと覗き込む。
「この家は、王太子殿下の……」
「ええ。側近の母方だ」
直接の証拠ではない。
だが、線は見え始めていた。
辺境の鉱山が死んだことにされていた。
裏流通が北へ抜けていた。
銀狐商会が関わっていた可能性がある。
その銀狐商会と、王都貴族の一部が以前から取引していた。
そして、レティシアが王都から切られた。
偶然と言うには、少し出来すぎている。
「殿下、どうなさいますか」
近習が慎重に問う。
ルシアンはしばらく黙った。
ここで不用意に動けば、王太子府との対立になる。
だが放置すれば、王都の綻びと辺境の問題が、どこかでひとつに繋がるかもしれない。
「まず、記録を集める」
「記録、ですか」
「銀狐商会と王都貴族の過去五年の取引。北方旧所領の鉱山収益記録。王太子府がレティシア嬢へ送った書簡の写し。可能な範囲で」
近習が息を呑む。
「かなり深く入ることになります」
「わかっている」
ルシアンは窓の外を見た。
王都の空は青い。
庭園の花も美しい。
だがその美しさの下で、見えない糸が少しずつ絡まり始めている。
「今はまだ、問いにしない」
「では」
「事実だけを並べる」
彼は静かに言った。
「事実が揃えば、問いは勝手に形を持つ」
その頃、辺境では、試験取引の準備が進んでいた。
銀狐商会の荷車は、中継小屋の外に止められている。
町の荷車屋たちは、自分たちの車輪と相手の車輪を見比べながら、妙に真剣な顔をしていた。
ヨハンが銀狐商会の若い荷役へ言う。
「こっちの道は、見た目より沈む。急ぐと車輪を取られるぞ」
若い荷役は少し不満げに返す。
「北の山道よりは楽だ」
「そう思うなら、好きにすりゃいい。ただ、沈んだら俺らが引く羽目になる」
「……わかった」
短い言い合いだったが、以前なら起きなかった会話だった。
町の荷車屋が、外の商会へ道の癖を教えている。
それはもう、ただ使われる側の人間の姿ではなかった。
帳場では、ルイスが荷札を整えていた。
銀狐商会の荷札。
領地側の記録札。
中継小屋の通過札。
鉱石の秤札。
何枚も重なるそれを見て、セラフィナが少し呆れたように言う。
「本当に細かいですわね」
「抜け道を作らないためです」
ルイスは緊張しながらも答えた。
「それに、後で誰が困ったかもわかります」
「困った者まで記録するの?」
「はい。次に直すために」
セラフィナは、ふっと笑った。
「貴女のところの書記官も、ずいぶん育っていらっしゃる」
レティシアは少し離れた場所で、そのやり取りを聞いていた。
育っている。
それはルイスだけではない。
町も、兵も、帳場も、少しずつ変わっている。
その変化を、外から来たセラフィナが見ている。
そして遠い王都では、ルシアンが記録の中からこちらを見始めている。
レティシアは窓の外へ目を向けた。
王都と辺境。
遠く離れた二つの場所が、少しずつ同じ線で繋がろうとしている。
まだ、はっきりとは見えない。
だが風の向きは変わり始めていた。




