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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第36話 順番を待てる町

 翌朝、辺境の町には、いつもより少しだけ落ち着いた忙しさがあった。


 中継小屋に分けて置かれた三つの小さな火は、夜を越えて消えなかった。

 大きな炎ではない。

 それでも、馬の影、人の動き、積まれた荷の輪郭を照らすには十分だった。


 井戸番と荷捌きの朝運用変更も、日の出と同時に始まった。


 若い兵二人は、昨夜ほとんど眠れなかったのではないかという顔で持ち場へ立っていた。緊張している。だが、その緊張は悪くなかった。自分たちの案が試される日の顔だった。


「桶、先に炊事場へ三つ!」


「荷捌き場側、空桶を戻します!」


 最初はぎこちなかった。


 井戸から水を上げる者、桶を運ぶ者、炊事場へ回す者、荷捌き場へ一時置く者。それぞれが新しい順番にまだ慣れていない。だが、混乱はすぐに昨日までと違う形を見せ始めた。


 詰まらない。


 これまでは、井戸の前で兵と下働きと荷運びが同時に立ち止まり、互いに譲り合うようでいて、実際には時間だけが削られていた。今日は違った。片方の兵が井戸そのものを見て、もう片方が荷捌き場側との受け渡しを見ているだけで、人の流れが分かれた。


 炊事長が大鍋の前から顔を出し、低く言う。


「悪くないね」


 その一言を聞いた若い兵の顔が、ぱっと明るくなる。

 だがすぐに表情を引き締めた。

 まだ一日目だ。喜ぶには早いと、自分でわかっているのだろう。


 レティシア・エーヴェルシュタインは、回廊からその様子を見ていた。


 隣にはルイスが帳面を抱えて立っている。今日の彼は、ただ言われたことを書き留める書記ではなく、運用の結果を記録する者の顔をしていた。


「朝の井戸前停滞、昨日より明らかに短縮」


 レティシアが静かに言うと、ルイスがすぐに筆を走らせる。


「はい」


「ただし、一度だけ荷捌き場側で空桶が溜まったわ」


「空桶戻しの役が曖昧だったからでしょうか」


「ええ。三日試験の一日目としては十分。あとで本人たちに聞きましょう」


 ルイスは頷きながら、少し嬉しそうでもあった。


 目の前で、紙の上の案が現実になっている。

 そして現実になった瞬間、紙だけでは見えなかった問題が出てくる。

 その問題をまた書き留め、直し、次へつなぐ。


 帳場の仕事が、まさに生きた流れになり始めていた。


 市場の方でも、変化はあった。


 北外れの馬小屋跡では、ヨハンとガレスが中心となって一角だけの仮整備を始めている。

 全部は直さない。

 昨日の評議で決めた通り、まずは馬二頭と荷車一台が休めるだけの区画を確保する。


「そこ、板を横にするな! 車輪が噛む!」


「でも縦だと隙間が広くなるだろ!」


「だったら細いのを間に入れろ!」


 怒鳴り合いのように聞こえるが、喧嘩ではない。

 手を動かす者たちが本気で使い勝手を考え始めた時の声だった。


 ガレスは、少し前まで流民として町の端に立っていた若者とは思えない顔をしていた。腰に縄を下げ、手に板を抱え、周りへ指示を出している。まだ拙い。時々声が裏返る。けれど、誰も笑わない。


 彼がこの仕事の一部を任されていることを、皆が知っているからだ。


 ヨハンが汗を拭いながら言った。


「ここまでやれりゃ、明日の昼には一台入れられる」


 ガレスが頷く。


「でも、入口が狭い。荷車を切り返す時に詰まる」


「じゃあ、最初は出入りを一方通行にするか」


「一方通行?」


「入る時は北側、出る時は市場側。逆走なし」


 その言葉を聞いていた町役人が慌てて紙へ書きつける。


 誰かが命じたのではない。

 現場で生まれた工夫だった。


 レティシアはその様子を見て、静かに頷いた。


「良いわね」


 隣のディルク・ヴァルゼンが腕を組んだまま言う。


「多少荒いですが」


「荒くていいの。最初から綺麗にしようとすると、動きが止まるわ」


「それは、兵の運用にも言えますね」


「ええ。まず動かす。そのあと整える」


 ディルクは小さく息を吐いた。


「最初にここへ来られた時の閣下なら、もっと初めから整えようとしたのでは?」


 レティシアは少しだけ考えた。


「そうかもしれないわ」


 王都では、失敗を見せないことが大事だった。

 整っていないものを人前へ出せば、それだけで誰かの顔を潰す。

 だから不完全なものは、裏で直してから表へ出す必要があった。


 だが辺境は違う。


 ここでは、不完全でも動かさなければ明日が来ない。

 そして人々は、完成された仕組みを上から与えられるより、自分たちの手で少しずつ直す方を信じ始めている。


「この地に教えられているのかもしれないわね」


 レティシアがそう言うと、ディルクはほんのわずかに目を細めた。


「閣下が、ですか」


「ええ。私も万能ではないもの」


「それを言える時点で、相当珍しい主君ですが」


「褒めているの?」


「半分は」


「残り半分は?」


「無茶をされるので警戒しています」


 その返答に、レティシアは小さく笑った。


 昼には、炊事場で簡易汁物の試作が始まった。


 正式運用はまだ先だ。

 だが炊事長は、待つことがあまり得意ではなかったらしい。

 豆売りの女主人から砕け豆を少し受け取り、リュンデル村の根菜端を刻み、塩を控えめにして小鍋へ入れた。


 香りは素朴だった。


 王都の料理とは比べものにならない。

 だが、朝から荷を運び、板を打ち、井戸を回している者たちにとっては、十分すぎるほど魅力的な匂いだった。


「試しだよ。今日は多くないからね」


 炊事長がそう言いながら、小さな椀に汁をよそう。


 最初に渡されたのは、井戸番の若い兵二人だった。


「俺たちが先でいいんですか」


「今日はあんたらの案が回ってるんだ。倒れられたら困る」


 炊事長のぶっきらぼうな言葉に、周囲から小さな笑いが起こる。


 兵は汁を口にし、目を丸くした。


「……温かい」


「そりゃ汁だからね」


「いや、そうじゃなくて」


 言葉にならないようだった。


 空腹を満たすほどではない。

 だが、身体の中心に火が戻る。

 その感覚が、彼らの顔を一段明るくした。


 荷運びのガレスも、あとで小さな椀を受け取った。


「うまい」


 彼は短く言った。


 それだけだったが、炊事長は満足そうに鼻を鳴らした。


 午後になると、今度は中継小屋の夜火分散案を確認するため、薪の置き場が整えられた。


 大きな火一つではなく、小さな火三つ。

 中継、見張り、補修。

 それぞれに役目を分ける。


 鍛冶屋の見習いは、昨夜よりも真剣な顔で風向きを見ていた。


「こっちは湿気る。火を置くなら少し上だ」


 蹄鉄屋の少年が反論する。


「でも上すぎると馬が影を嫌がる」


「じゃあ少し横へずらす」


「それなら薪の置き場も変えないと」


 二人の言い合いを、年嵩の流民組の男が黙って聞いていた。

 やがて低く言う。


「火は動かせる。薪は動かしにくい。なら薪の置き場を先に決めろ」


 二人が同時に黙った。


 それから、ほとんど同時に頷く。


 こうして、また一つ現場の知恵が混ざった。


 夕刻、帳場には今日一日の結果が集まり始めた。


 井戸番の試験運用、一日目。

 朝の混雑は減少。ただし空桶戻しに改善余地あり。


 馬小屋跡第一段階。

 入口幅に問題。出入りの一方通行案を検討。


 簡易汁物試作。

 働き手の反応良好。ただし豆と根菜の供給量を要確認。


 夜火分散案。

 薪置き場の位置を先に固定する必要あり。


 紙の上に並べると、どれも小さなことだ。

 だが、どれも確かに進んでいる。


 ルイスが書きながら言った。


「閣下」


「なに?」


「すべて、少しずつ問題があります」


「ええ」


「ですが……以前の問題とは違いますね」


 レティシアは頷いた。


「そうね」


 以前の問題は、放置された問題だった。

 誰も手を入れず、ただ悪くなっていくものだった。


 いまの問題は、動かしたからこそ見えてきた問題だ。

 つまり、前へ進んでいる証でもある。


「問題があることを、怖がらなくていいのよ」


 レティシアは静かに言った。


「問題が見えたなら、直せるもの」


 ルイスはその言葉をゆっくり受け止めるように頷いた。


 夜、帳場の外では、三つの小さな火が予定通り灯った。


 昨日よりも位置が整っている。

 人の影が重ならず、馬も落ち着いている。

 見張りの兵も、以前より周囲を見やすそうだった。


 レティシアは窓辺からその火を見た。


 小さな火。

 小さな問題。

 小さな修正。


 だが、その積み重ねこそが、この領地を支えるものになる。


 帳面を開き、彼女は今日の記録を口述した。


「小評議決定事項、初日運用開始。井戸番・荷捌き朝運用、馬小屋跡第一段階整備、簡易汁物試作、夜火分散案、それぞれ実施。各案に改善点あり。ただし、いずれも運用開始によって初めて見えた改善点であり、前進と判断」


 そして最後に、こう書かせた。


 動かぬ土地の問題は腐る。動き始めた土地の問題は、次の仕事になる。


 ルイスが書き終えると、外の三つの火が風に揺れた。


 だが、消えなかった。

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