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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第33話 名前の残る仕事

 辺境では、名前が残るということは、それだけで少し怖い。


 王都なら、帳簿に名が載るのは誉れにもなる。

 誰が主催し、誰が寄進し、誰が整えたか。

 名が残ることは、家の格にも、次の縁談にも、時には政治の札にもなる。


 けれど、この北方旧所領では長く違った。


 名が残る時は、たいていろくな時ではなかった。

 税の滞納。

 徴発の不足。

 揉め事の責。

 あるいは、何かが失敗した時に誰へ押しつけるかを決めるための印。


 だからこそ、昨日、ヨハンとガレスの名前が正式に帳場へ載ったことは、町の人間にとって思っていた以上に奇妙な出来事だった。


 しかもそれは、罪でも失敗でもなく、

 「ここをこう直したい」

 という提案の名として残ったのだ。


 その一夜が明けた朝、帳場の前にはいつもより人が多かった。


 列を作るほどではない。

 だが、豆売りの女主人が荷を下ろすついでにちらりと覗き込み、蹄鉄屋の主人が用もないのに井戸のついでを装って近くを通り、荷運びの若者たちが“たまたま”帳場の窓の前で立ち話をする。


 皆、知りたいのだ。


 自分たちの提案も、本当にあそこへ持って行っていいのか。

 名前が載るのは、怖くないのか。

 いや、怖くても、それに見合う何かが本当にあるのか。


 レティシア・エーヴェルシュタインは、その空気を帳場の奥で感じていた。


 机の上には昨日の提案書。

 北外れ馬小屋跡再整備案。

 文字は拙く、墨も薄い。

 だがその紙には、この領地が次の段階へ足をかけた重みがある。


 ルイスが帳簿を閉じながら、少し不思議そうに言う。


「閣下、今朝は帳場の前を通る人が多いですね」


「ええ」


「やはり、昨日の件でしょうか」


「そうでしょうね」


 レティシアは窓の外へ目をやる。


「人は、“本当に残るのか”を見に来ているのよ」


 ルイスは少し考える。


「残る、とは」


「自分の言葉が。自分の仕事が。自分の名前が」


 帳場とは、本来そういう場所だ。

 ただ金を数えたり、荷を記したりするだけではない。

 誰が何をやったかを、公の形へ変える場所でもある。


 王都ではそれがあまりに当たり前で、誰も意識しない。

 だが辺境では、その当たり前が長く壊れていた。


「……では、今日も何か来るでしょうか」


 ルイスが問うたちょうどその時、外で少しだけ揉めるような気配がした。


 大声ではない。

 だが、誰かが押し出されるように帳場の前へ出てきたらしい。


 マルタが様子を見に行き、すぐに戻る。


「お嬢様」


「誰?」


「市場南端のパン屋の娘さんと、豆売りの女主人、それから……」


 マルタが少しだけ笑いを含んだ顔になる。


「どうやら、互いに“お前が先に出せ”と押し合っているようでございます」


 レティシアも少しだけ口元を緩めた。


「通して」


 入ってきたのは三人だった。


 豆売りの女主人。

 パン屋の娘。

 それに、ぬかるみ対策の話をしていた蹄鉄屋の主人。


 全員、昨日のヨハンたち以上に居心地が悪そうだった。


「……何かしら」


 レティシアが促すと、豆売りの女主人が真っ先に首を振る。


「い、いえ、その、あたしは付き添いで」


「じゃあ誰が用なの?」


 そう問われて、今度はパン屋の娘が慌てて首を振る。


「わ、私でもなくて……!」


 結局、最後に蹄鉄屋の主人が重い口を開いた。


「……市場南端のぬかるみの件です」


 ルイスの目が少しだけ輝く。

 案の芽が、もう来たのだ。


「どうしたいの?」


 レティシアが問う。


 蹄鉄屋の主人は、頬を掻きながら言う。


「雨のたびに、あそこだけ足を取られるでしょう。馬も嫌がるし、人も滑る。あれを、木屑と鍛冶灰で少し締められないかと」


「誰が言い出したの?」


「最初は俺です。でも、パン屋のとこも困ってるし、豆売りも朝の荷を避けて通るのが面倒だと」


 豆売りの女主人が、ようやく小さく頷く。


「ぬかるむと、客も寄りつきにくいんです」


 パン屋の娘も続ける。


「それに、子供が滑ったこともあるので……」


 レティシアは静かに聞きながら、内心で整理する。


 とてもいい。

 困りごとがある。

 それに対して、“誰か何とかしてくれ”ではなく、“こうすれば少しはましになるのではないか”という案がある。

 それを一人ではなく、周囲の商いと繋げて考え始めている。


 これこそが領地が立ち上がる感触だった。


「紙はある?」


 三人が揃って目を瞬く。


「……紙、ですか」


「ええ。昨日みたいに。書いてきた?」


 全員が、ものすごく気まずそうな顔になった。


 ないのだ。

 言いに来たまではいいが、昨日と同じように紙へ起こすところまでは踏み切れなかったらしい。


 それでも来たのは、昨夜からずっと迷っていた証拠だろう。


 レティシアは少しだけ間を置いてから、ルイスへ視線を向けた。


「では今日は練習にしましょう」


「練習、でございますか」


「ええ」


 そして三人へ向き直る。


「今日はあなたたちの口で言うことを、ルイスが紙に起こすわ。でも次からは、自分たちで持ってきて」


 三人の顔に安堵と緊張が入り混じる。


 その場で、簡単な聞き取りが始まった。


 場所。

 困っていること。

 やりたい対策。

 必要な物。

 誰が手を出せるか。


 蹄鉄屋の主人が話し、豆売りの女主人が横から補い、パン屋の娘が「雨の日はこの辺まで水が来る」と身振りで示す。ルイスはそれを、できるだけ元の言い方を崩さぬように書き留めていく。


 書き終えたものを読み上げると、三人とも妙に神妙な顔になった。


「……これが、提案書」


 パン屋の娘が、少しだけ呆然と呟く。


「そうよ」


 レティシアは頷く。


「たいそうなものではないでしょう? 困っていることと、どうしたいかを書くだけ」


「でも……」


 豆売りの女主人が、その紙を見つめながら言う。


「こうして字になると、急に本当っぽいですね」


「本当なんだもの」


 その一言に、三人とも小さく息を呑んだ。


 そうだ。

 困っていたことは最初から本当だった。

 けれど、それを口でこぼすだけでは風のように散る。

 紙に載り、帳場へ残ることで、ようやく“領地の話”になる。


「件名は?」


 ルイスが訊ねる。


 三人は顔を見合わせる。

 誰もすぐには言えない。

 やがて蹄鉄屋の主人が、少し照れくさそうに言った。


「……市場南端ぬかるみ対策案、で」


「承知しました」


 ルイスがその題を書き入れる時、窓の外で誰かが立ち止まった気配がした。

 帳場の前を通りすがった者たちが、中を見ているのだ。

 たぶん噂はすぐに広がる。


 また一つ、町の名で案が残ったと。


 午後には、案の登録だけで終わらなかった。


 ヨハンとガレスが、まるで自分たちの時に受けた返礼のように、今度は蹄鉄屋たちを北外れ馬小屋跡へ案内し始めたのだ。


「ここは最初、板をどこに打つかで迷ったんだ」


「でも閣下が“誰が何をやるか先に決めろ”って言って」


「それで、荷の流れが見えたんだよな」


 そんな声が風に乗って聞こえてくる。


 レティシアは帳場の窓からそれを見ていた。


 面白いと思う。

 人は、一度“自分の名前で案を通した経験”をすると、それを誰かへ教え始めるのだ。

 領地の再建は、こうして少しずつ手渡されていくのかもしれない。


 夕方、ディルクが戻ってきた時、彼は珍しくはっきりと笑った。


「どうやら帳場が、妙なことになっていますね」


「妙なこと?」


「ええ。兵が二人、“井戸番の交代順を少し変えた方が楽ではないか”と、紙を借りに来ていました」


 レティシアは思わず目を見開き、それから笑ってしまった。


「兵まで?」


「ええ。しかも、真面目な顔で」


「それは……」


 小さく息を吐く。


「始まったわね」


「何がです」


「皆が、自分の困りごとを“次に直せるもの”として考え始めたの」


 ディルクは少し黙ってから、低く言う。


「領地が、自分で立ち上がるというのは、こういうことですか」


「たぶんね」


 夜、帳面を開いたレティシアは、いつもより少し温かな気持ちで記録を口述した。


「市場南端ぬかるみ対策案、口頭提案より書面化し正式登録。提案主体は蹄鉄屋、豆売り、パン屋。前日登録された北外れ馬小屋跡再整備案の影響により、町側に“提案を帳場へ残す”意識が発生。さらに兵側からも小規模運用改善案の萌芽を確認」


 そこで少し止まり、静かに言う。


「追記」


「はい」


 ルイスが筆を整える。


「最初の提案は一つだった。だが二つ目が出た時、それはもう偶然ではなく流れになる。」


 ルイスがそれを書き終えたあと、少しだけしみじみした顔で言った。


「閣下」


「なに?」


「帳場が、以前よりずっと騒がしいです」


「嫌?」


「……いいえ。たぶん、こういう騒がしさが本来なのだと思います」


 レティシアは静かに頷いた。


 ええ、きっとそうなのだ。


 帳場とは、ただ過去を記録する場所ではない。

 誰かが次を考え始めた時に、その考えへ形を与える場所でもある。


 そして今、この辺境には、ようやくそれが戻り始めていた。

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