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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第206話 箱はいらない、中身だけ

 箱はいらない、中身だけ。


 その言葉は、まだ確かな証言ではなかった。


 柳瀬小宿の草履売り老婆トメが、記憶の底から引っ張り出したかもしれない一言。


 他の客との会話だったかもしれない。

 言い回しが変わっているかもしれない。

 そもそも、旅人本人の言葉ではなかったかもしれない。


 だから、ルイスは朝一番で壁に貼った。


 「箱はいらない、中身だけ」は確度低。


 豆売りの女主人は、それを読んで腕を組んだ。


「今日は最初から冷や水だね」


 ガレスが頷く。


「でも、必要です。あの言葉、強すぎます」


「そうだよ。強すぎる言葉は、人を引っ張る」


 ヨハンは小物移動経路図を見ながら、苦い顔をしていた。


「正直、かなり合ってるんですよね。古布袋には小箱は入らない。でも中身なら入る。細長革袋も、紙片も、木札も、鍵も」


 ボルツが低く言った。


「鍵は入る。俺が見ても、その袋なら細い鉄物は十分入る」


 クラウス・ベルガーは、慎重に補う。


「商人の視点で見ても、小箱ごと運ぶより中身だけ移す方が足は軽くなります。特に古道を歩くなら」


 ガレスが小さく言った。


「じゃあ、泥草履の旅人は、小箱を受け取りに来たんじゃなくて……中身を抜きに来た?」


 レティシアは、すぐには答えなかった。


 少し間を置いてから言う。


「候補の一つです」


 ルイスが新しい表を作る。


 小箱の扱い候補・再整理。


 一、小箱ごと回収予定。

 二、中身だけ回収予定。

 三、箱も中身も見つけさせる予定。

 四、回収失敗で、結果的に箱も中身も見つかった。

 五、中身の一部だけ回収予定。


 豆売りの女主人が、五番を見て眉を寄せた。


「一部だけ、ってのが一番嫌だね」


「なぜですか」


 ガレスが聞くと、女主人は豆袋の紐を締めながら答えた。


「残す物と持っていく物を選んでるからだよ。偶然じゃなくて、意図が強い」


 その言葉に、帳場は静かになった。


 レティシアは頷いた。


「ええ。ですから、五番は慎重に扱います」


 ヨハンが小物一覧を指した。


「残すなら、紙片と木札ですかね。『第三鍵返却済』と灰鷹状類似印。見せたいものに見えます」


 ボルツが続ける。


「持っていくなら鍵だ。第三鍵類似加工鍵は、使い回せるし、加工跡が見られると困るかもしれない」


 クラウスも静かに言った。


「細長革袋もです。袋から購入経路や修理痕を追われる可能性がある」


 ルイスが記録する。


 中身一部回収仮説:見せたい物=紙片・木札。回収したい物=鍵・革袋の可能性。ただし、実際にはすべて小箱内で発見されているため、未遂または予定変更の可能性。


 ガレスは、その記録を見て息を吐いた。


「もし本当にそうなら、宿主人が渡さなかったことで、抜き取りが失敗したんですね」


「可能性があります」


 レティシアは答える。


「ただし、全部を見つけさせる予定だったなら、失敗ではありません」


 豆売りの女主人が、うんざりしたように笑った。


「どっちにも見えるねえ」


「だから、紐を見ます」


 レティシアの言葉で、全員の視線が小箱の記録へ向いた。


 南の村小箱を閉じていた紐。


 届いた時から緩かったのか。

 輸送中に揺れて寄ったのか。

 誰かが開けようとして戻したのか。

 あるいは、最初からそう結ばれていたのか。


 南の村宿主人の追加証言は、昼前に届いた。


 ルイスが封を開き、読み上げる。


「宿主人証言。小箱の紐は、届いた時から少し片側へ寄っていた気がする。ただし当時は異常と思わず、詳細に記録していない。村長へ見せた時にも、結び目が中央よりやや右に寄っていた印象。宿主人自身は開封していない」


 ヨハンがすぐに言った。


「届いた時から、ですか」


 ルイスは首を横に振る。


「“気がする”です」


 レティシアが頷く。


「後発想起です。重くしすぎない」


 ルイスが書く。


 宿主人後発想起:小箱紐の結び目が片側へ寄っていた印象。開封なし。詳細記録なし。確度中未満。


 王都南門馬車宿の発送時控えも確認された。


 発送時の小箱外観欄には、短くこうある。


 紐結び中央。外布灰。小箱一。


 ただし、馬車宿の記録は簡略であり、中央という表現も厳密な測定ではない。


 ルイスが読み上げると、ボルツが言った。


「発送時は中央、南の村では片寄り。なら途中で動いたんじゃないか」


 レティシアはすぐに答える。


「輸送中に動いた可能性があります」


 ルイスが書く。


 発送時記録“紐結び中央”。南の村到着時は片寄り印象。ただし記録精度低。輸送中の揺れ、結びの甘さ、開封未遂等の可能性。


 ガレスが眉を寄せる。


「開封未遂、出ますね」


「候補です」


 レティシアは短く言った。


「開封された、ではありません」


 豆売りの女主人が頷く。


「紐が緩いだけで、人を縛らない。皮肉だね」


 ルイスは内部控えに書きそうになって、今度は自分で止めた。


 多すぎる。


 すると女主人が笑った。


「今のは書かないのかい」


「誘惑されました」


「成長したね」


 次に問題になったのは、旅人が小箱へ触れた時間があったかどうかだった。


 宿主人は「奥棚へは近づかせていない」と証言している。


 下働き少年も当初は「旅人は帳場前にいた」と言っていた。


 つまり、旅人が直接紐に触った線は弱い。


 ルイスが整理する。


 泥草履の旅人が小箱紐へ直接触れた証言なし。宿主人は奥棚接近を否定。直接開封未遂線は弱い。


 ヨハンが言った。


「じゃあ、紐が緩んだのは輸送中か、南の村到着前ですか」


 クラウスが首を横に振る。


「南の村到着後でも、宿内の誰かが触った可能性はあります。ただし、誰かを疑うには証拠が足りません」


 レティシアは頷いた。


「触れた可能性者を淡々と整理します」


 ルイスが新しい表を書く。


 小箱紐に触れ得た者。

 一、王都南門馬車宿の預け主または宿側。

 二、定期便御者または積替え担当。

 三、南の村馬車宿の宿主人。

 四、宿の下働き。

 五、村長確認時の立会人。

 六、泥草履の旅人。ただし直接接触証言なし。

 七、輸送中の揺れ・荷擦れによる自然緩み。


 ガレスは表を見て言った。


「泥草履の旅人だけに絞らないんですね」


「絞りません」


 レティシアは答えた。


「絞れる段階ではありません」


 その時、南の村からさらに小箱外布についての報告が入った。


 外布の端、紐の結び目付近に、細い糸くずが付いていたという。


 色は灰がかった古麻色。


 宿側では当時気づかず、保全時に確認されたものだった。


 ルイスが読み上げた瞬間、帳場の空気がわずかに変わった。


「柳瀬小宿の古布袋の補修糸と、色味が似る可能性あり。ただし古麻糸は広く使われる。比較待ち」


 豆売りの女主人が低く言った。


「次は糸くずかい」


 ボルツが顔をしかめる。


「どんどん小さくなるな」


 レティシアは静かに答えた。


「小さな物で仕掛けられた可能性があるなら、小さな物を見るしかありません」


 ルイスが書く。


 小箱紐結び目付近に灰色古麻糸様の糸くず。柳瀬小宿古布袋補修糸との類似可能性。ただし一般麻糸可能性あり。比較待ち。


 ガレスが小さく言った。


「もし、結び目付近に集中しているなら……誰かが布袋を持ったまま紐を触った可能性が出ますね」


 「可能性」と言えたことに、ルイスは少しだけ目を細めた。


 レティシアも頷く。


「はい。次回、糸くずの位置と種類を確認します」


 ヨハンが言った。


「でも、旅人が奥棚に近づいてないなら」


「別の誰かが触った可能性もあります。あるいは輸送中に布と擦れた可能性も」


 ルイスが書く。


 糸くずがあっても、泥草履の旅人の接触とは限らない。輸送中擦れ、宿内布、別人接触の可能性。


 クラウスは腕を組んだ。


「紐が緩み、糸くずが結び目付近にある。開封未遂の候補としては見る価値があります」


「はい」


 レティシアは答える。


「ただし、開封未遂ではなく、開封準備、結び直し、輸送揺れ、いずれも残します」


 ルイスが、最後にもう一枚札を貼った。


 紐の緩みは、開封の証明ではない。


 豆売りの女主人が深く頷いた。


「今日の杭はそれだね」


 夜、レティシアは小箱紐の記録を前にして口述した。


 小箱の紐は、少し緩んでいたかもしれない。発送時には中央、南の村では片寄っていたかもしれない。だが、記録は粗く、記憶は後から整う。泥草履の旅人が直接触れた証言はない。輸送中に揺れたのか、結びが甘かったのか、誰かが触ったのか、まだわからない。ただ、結び目付近に灰色の古麻糸様の糸くずがある。柳瀬の古布袋と似るかもしれない。似すぎるものは危ない。だから、次は糸くずを見る。紐は箱を閉じる。だが、紐が少し緩んだだけで、物語まで勝手に開けてはいけない。


 ルイスは筆を置いた。


 箱はまだ閉じている。


 だが、その紐の結び目に、小さな糸くずが引っかかっていた。


 それは、誰かの手が触れた跡か。


 ただの荷擦れか。


 次は、その小さすぎるものを追うことになった。

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