第195話 白蔦筋という符丁 白蔦筋。
その三文字は、帳場の空気を変えるには十分だった。
白蔦会ではない。
白蔦筋。
たった一文字違うだけで、意味は大きく変わるかもしれない。
だが、町の者が聞けば、そんな違いはほとんど残らない。
白蔦という名だけが走る。
白蔦会が動いた。
古い闇組織が戻った。
灰鷹商会が白蔦会とつながった。
北方旧所領にまた密かな荷の道が開いた。
そういう噂は、説明よりずっと速い。
だから、ルイスは朝一番で壁に貼った。
白蔦筋は、白蔦会とは限らない。
豆売りの女主人はそれを読んで、深く頷いた。
「今日は、それを十枚くらい貼ってもいいね」
ヨハンが横で言う。
「十枚貼ったら、逆に怪しまれませんか」
「怪しまれるよ。でも一枚でも怪しまれる。だったら、ちゃんと読める字で一枚だ」
ガレスは、ヴィクトル私用帳簿の写しを見つめていた。
白蔦筋 確認料。
金額は大きくない。
銀貨二枚。
けれど、その一行は、これまでのどの大きな書類よりも、不気味だった。
「確認料って、誰かに確認させたってことですよね」
ガレスが言うと、レティシアは静かに頷いた。
「そう見えます」
「白蔦筋を確認させた」
「そう見えます」
「でも、白蔦筋が何か、まだわからない」
「はい」
ルイスが書く。
“確認料”は誰かに何かを確認させた可能性。ただし内容・相手・成果は未確認。
ボルツが腕を組んで唸った。
「また“見える”の山だな」
豆売りの女主人がすぐ返す。
「見えるだけで走らないための帳場だろ」
「まあな」
ボルツは不満そうにしながらも、もう反論はしなかった。
王立書庫への照会結果は、昼前に届いた。
王都からの早馬だった。
表題は長い。
“白蔦筋”という語の古物流通資料上の用例に関する照会結果。
ルイスは封を確認し、読み始めた。
「王立書庫古物流通資料より。“白蔦筋”の用例、三件確認。一、旧物流組合時代の補助路を指す俗称。二、白蔦印を用いた荷札系列を指す商人符丁。三、白蔦会と呼ばれた不正流通集団に関する後年の噂資料。年代順では、補助路としての用例が最も古い」
帳場が静まる。
ロイエンが低く言った。
「道が先、ですね」
レティシアは頷いた。
「ええ。少なくとも資料上は」
ルイスは記録する。
“白蔦筋”は、最古用例では旧物流組合の補助路を指す俗称。白蔦会そのものを指すとは限らない。
クラウス・ベルガーが、書庫資料の写しへ目を落とした。
「商人の間で“筋”と言えば、道筋、取引筋、流通経路を指すことがあります」
豆売りの女主人がすかさず言った。
「豆筋もあるのかい」
クラウスは少し考えてから、真面目に答えた。
「あると思います。産地から市場までの流れを、そう呼ぶことはあります」
女主人は一瞬、黙った。
「……本当にあるのかい」
「ええ」
「冗談で言ったのに」
ヨハンが吹き出し、ガレスも笑った。
緊張していた帳場に、少しだけ息が戻る。
だが、書庫資料の中身は重かった。
王立書庫によれば、白蔦筋という言葉を現在知っている者は限られる。
古い商人。
物流組合の歴史に詳しい者。
王都南区の仲介人。
旧道や補助路を扱う荷運び。
そして、白蔦会の噂に詳しい者。
ただの若い使いが、自然に知る言葉ではない。
ルイスが読み上げると、帳場はまた静かになった。
ガレスが言った。
「ヴィクトルは、ただの噂って言ってましたよね」
ロイエンが頷く。
「“古い商人なら誰でも噂くらいは知っている”と」
クラウスが眉を寄せる。
「それは、半分本当です。白蔦会という名前なら、噂として聞いた者は多い。ですが、“白蔦筋”を、確認料の対象として私用帳簿に書くのは別です」
レティシアは静かに言った。
「そこを分けます」
ルイスが書いた。
白蔦会の噂を知ることと、“白蔦筋”を確認対象として扱うことは違う。
豆売りの女主人が腕を組む。
「噂を知ってるだけなら酒場の客でもいる。でも、金を払って確認するとなると、仕事だね」
「はい」
レティシアは頷く。
「人ではなく、道へ金が払われた可能性があります」
その一言で、帳場の空気がぴんと張った。
ヨハンが小さく繰り返す。
「道へ金が払われた……」
ガレスが壁の旧白蔦流通路図を見る。
小鹿渡し。
冬季木材道。
灰松倉庫跡。
布片様のもの。
麻紐片。
木杭の擦れ跡。
泥。
靴拭い布。
それらが、ただの地味な確認ではなく、ヴィクトルの私用帳簿の一行と細くつながり始める。
だが、まだ線は細い。
ルイスは慎重に書く。
“白蔦筋 確認料”は旧白蔦流通路確認費の可能性。ただし、別の商人符丁・取引系列確認料の可能性も残す。
その午後、王太子府ではヴィクトルへの再照会が行われた。
フェルナー監査官は、私用帳簿の一行を机に置いた。
「“白蔦筋 確認料”。説明を」
ヴィクトルは、少しだけ表情を硬くした。
だが、すぐにいつもの商人の顔へ戻る。
「古い商人筋の確認です。白蔦会などという話ではありません」
フェルナーは問いを変えない。
「白蔦筋とは何ですか」
「古い物流筋の俗称です」
「なぜ確認したのです」
「北方方面の市場調査です。古い道が現在も使われているか、商人として把握する必要がありました」
「誰に払いましたか」
ヴィクトルは、そこで初めて黙った。
フェルナーは待つ。
レムスの筆も止まっている。
やがて、ヴィクトルは言った。
「南区の使いです」
「通称レオンですか」
「名は、覚えておりません」
「南区使い、北手間、白蔦筋確認料。すべて別人ですか」
「別件です」
「それを示す報告書は?」
「私的な市場調査ですので、簡易な口頭報告でした」
「口頭報告の内容は」
「……旧道は、徒歩なら通れる可能性がある、と」
フェルナーの目が細くなった。
「どの旧道ですか」
「北方方面の古い補助路です」
「小鹿渡し、灰松倉庫跡、冬季木材道という名は聞きましたか」
ヴィクトルは答えなかった。
短い沈黙。
それだけで十分だった。
フェルナーは静かに言う。
「聞いたか、聞いていないかです」
ヴィクトルは、低く答えた。
「……聞いたかもしれません」
レムスの筆が走る。
ヴィクトル、“白蔦筋”を古い物流筋の俗称と説明。旧道が徒歩なら通れる可能性を南区使いから口頭報告されたと述べる。小鹿渡し・灰松倉庫跡・冬季木材道の名について“聞いたかもしれない”と回答。
フェルナーは続けた。
「その南区使いは、通称レオンですか」
「覚えておりません」
「紹介札を持たせた若い使いと同じ人物ですか」
「覚えておりません」
「北便の小物運びを頼んだ人物と同じですか」
「私は北便の小物運びを頼んでおりません」
「では、なぜその前後に北手間があるのです」
「市場調査費です」
「市場調査の報告書は」
「口頭です」
「便利ですね」
ヴィクトルの口元がわずかに引き締まる。
「監査官殿、それは侮辱ですか」
「いいえ。所見です」
部屋が静まり返った。
フェルナーは、声を荒げない。
「あなたは、白蔦会を否定している。そこは記録します。しかし、白蔦筋という旧道の確認に金を払ったことは認めた。そこも記録します」
ヴィクトルは黙った。
その顔から、初めて余裕が少しだけ消えていた。
王都から北方旧所領へ報告が届いたのは、夕刻だった。
ルイスが読み上げるにつれ、帳場の空気は少しずつ重くなる。
ヴィクトルは白蔦筋を古い物流筋と説明した。
白蔦会ではないと否定した。
だが、旧道が徒歩なら通れる可能性を南区使いから聞いたと認めた。
小鹿渡し、灰松倉庫跡、冬季木材道の名を聞いた可能性を否定しなかった。
報告書はなく、口頭報告だったと説明した。
読み終えると、しばらく誰も口を開かなかった。
豆売りの女主人が、低く言った。
「道へ金を払った、だね」
レティシアは頷く。
「その可能性が高まりました」
ガレスが言う。
「それを調べた南区使いが、通称レオンかもしれない」
「ええ」
レティシアは答える。
「ただし、まだ通称レオンとは断定しません」
ルイスが壁に線を引く。
ヴィクトル“白蔦筋確認料” → 南区使い → 旧道徒歩通行可能性報告
その線は、以前より濃い。
だが、先端には札がある。
南区使い=通称レオン未確認。
クラウスが腕を組んだ。
「これで、ヴィクトルは旧白蔦流通路の確認を依頼した可能性がかなり高くなりました」
ロイエンも頷く。
「白蔦会ではなく、白蔦筋。組織ではなく道」
ヨハンが言った。
「でも、その道が、小箱や鍵を動かすのに使われたかもしれない」
「はい」
レティシアは認める。
「ただし、“使われた”ではなく、“使えると確認された”段階です」
ルイスが書く。
旧道が使えると確認された可能性と、実際に使用されたことは違う。
豆売りの女主人が、その札を見て頷いた。
「今日もいい杭だね」
町向けには、この情報は出さないことになった。
白蔦筋という言葉は危険すぎる。
代わりに、一般説明だけを出す。
北方古道に関する確認は継続しています。現時点で、旧組織の活動を示すものではありません。外部関係者の一部に古道情報への関心があった可能性を確認中です。
ガレスが読んで言った。
「白蔦という名を出さないんですね」
レティシアは頷いた。
「町向けには、今は出しません。出すと、白蔦会の噂が先に走ります」
「でも、隠してるって言われませんか」
豆売りの女主人が答えた。
「言われるよ。でも、言葉を出して町を燃やすよりましだ。出す時は、消し方まで用意してから出すんだよ」
ルイスは内部控えに書いた。
危ない言葉は、出す時に消し方も用意する。
夜、レティシアは私用帳簿の写しと旧道図を並べて口述した。
白蔦筋は、白蔦会ではなかった。少なくとも、今はそう置く。筋とは、道筋であり、物流筋であり、商人の符丁である。ヴィクトルは、白蔦筋を古い物流筋だと説明した。そして、旧道が徒歩なら通れる可能性を南区使いから聞いたと認めた。小鹿渡し、灰松倉庫跡、冬季木材道。その名を聞いたかもしれない、と言った。これは大きい。だが、まだ白蔦会ではない。まだ実使用でもない。人ではなく、道へ金が払われた可能性が高まっただけだ。けれど、道へ金を払う者は、道を使いたい者か、道を使わせたい者である。次に見るべきは、誰がその道を確認したか。南区使いとは誰か。通称レオンなのか。それとも、また別の手なのか。
ルイスは筆を置いた。
壁には、新しい札が増えていた。
白蔦会ではない。白蔦筋だ。
その言葉は、恐怖を少しだけ細くした。
細くしたからこそ、追える。
帳場は、白蔦という名の怪物ではなく、旧道を確認した人間の足跡を追う段階へ入っていた。




