第194話 副支配人の私用帳簿
ヴィクトル・グレイの私用帳簿は、薄かった。
灰鷹商会の本帳簿に比べれば、拍子抜けするほど薄い。
だが、薄い帳簿ほど厄介なことがある。
大きな帳簿には、大きな金が載る。
大きな金には、承認印がつく。
承認印がつけば、人の目を通る。
だが、薄い帳簿に載る小さな金は、人目の隙間を通りやすい。
王太子府から北方旧所領へ届いた写しには、フェルナー監査官の札がついていた。
灰鷹商会副支配人ヴィクトル・グレイ私用帳簿・限定提出分。
ルイスは封筒を持ったまま、少しだけ息を吸った。
「私用帳簿です」
豆売りの女主人が腕を組んだ。
「とうとう番頭の財布まで来たね」
クラウス・ベルガーは、微妙な顔をした。
「商会人としては、あまり気分のよいものではありません」
「そりゃそうだろうね。自分の財布を覗かれるのは、誰だって嫌だ」
「ですが、必要です」
「うん。だから嫌でも見るんだよ」
レティシアは静かに頷いた。
「読みましょう」
ルイスは封印を確認し、写しを広げた。
帳簿は、整っていた。
整いすぎてはいない。
商会本帳簿ほど細かくはないが、ただの走り書きでもない。
日付。
短い用途。
金額。
時には印。
時には、誰に渡したか曖昧な記号。
まず目に入ったのは、小さな支出の連続だった。
南区使い 銀貨三枚。
古物 銀貨五枚。
端袋 銀貨二枚。
北手間 銀貨四枚。
ガレスが壁の役割表を見た。
「南区使い……」
ヨハンが言う。
「レオンっぽく見えますね」
豆売りの女主人が、すかさず指を立てる。
「見える、だよ」
「はい。見えます。でも、まだレオンとは言いません」
ルイスが記録する。
ヴィクトル私用帳簿に“南区使い”記載。通称レオンとの接続可能性。ただし未確認。
クラウスは帳簿写しを覗き込み、眉を寄せた。
「“古物”は、マーロ経由の古い鉄鍵かもしれません」
ボルツが横から言う。
「古物なんて、いくらでもあるだろ」
「その通りです」
クラウスは頷いた。
「古い鍵、古い金具、古い帳箱、古い道具。商人の帳簿で“古物”だけなら、何も決まりません」
ルイスが書く。
“古物”は古鍵を指す可能性があるが、古物一般を意味する可能性もある。
ヨハンが苦笑した。
「一行ごとに札が必要ですね」
「必要です」
レティシアは答えた。
次は、端袋。
これは、リッツ革具店の端革細長袋と接続しそうに見える。
端革品。
三角印。
細長工具袋六つ。
ガレスが慎重に言った。
「“端袋”は、リッツ革具店の端革袋のことに見えます」
ルイスが書く。
“端袋”はリッツ革具店端革細長袋との接続可能性あり。ただし端革袋一般の可能性あり。
豆売りの女主人が頷く。
「いいね。見えるものを、見えるで止める。だいぶ板についてきた」
そして、問題は最後だった。
北手間。
その言葉だけは、帳場の空気をわずかに硬くした。
北へ向かう手間賃。
北便の手配料。
北方方面の市場調査費。
旧白蔦流通路の確認料。
いくらでも意味が入る。
だからこそ、危険だった。
レティシアは言った。
「北手間、の候補を並べます」
ルイスは新しい紙を出した。
“北手間”候補。
一、北方方面市場調査費。
二、北便手配手数料。
三、通称レオンまたは南区使いへの手間賃。
四、旧白蔦流通路確認の費用。
五、別件の北方商談費。
未確認。
ボルツが唸った。
「一言で五つか」
豆売りの女主人が肩をすくめる。
「一言ってのは、荷車より積めるんだよ」
ロイエンが深く頷いた。
「本当にそうですね」
王太子府側の報告には、ヴィクトル本人への照会結果も添えられていた。
ルイスは続けて読み上げる。
「ヴィクトル説明。“南区使い”は南区の市場調査補助。“古物”は古い倉庫金具見本の購入費。“端袋”は金具見本整理用の袋代。“北手間”は北方方面の市場調査費であり、事件とは無関係」
ヨハンが顔をしかめた。
「全部、説明はつくんですね」
クラウスが苦く笑う。
「説明がつかない帳簿は、商人の帳簿ではありません」
豆売りの女主人が即座に言った。
「説明がつきすぎる帳簿も、信用できないけどね」
クラウスは否定しなかった。
「はい」
レティシアは、ヴィクトルの説明をそのまま写させた。
ヴィクトル説明:各支出は北方方面市場調査および倉庫金具確認に関するもの。事件関係を否定。
その下に、ルイスが確認札をつける。
説明はある。裏付け未確認。
ガレスが小さく言った。
「説明があることと、本当であることは違う」
「ええ」
ルイスが頷き、さらに書いた。
説明があることは、事実であることを意味しない。
豆売りの女主人が笑った。
「今日の札はそれも強いね」
王都側では、さらにレンツの帳面との照合が行われていた。
その結果が、次の紙にあった。
ルイスは眉を寄せながら読む。
「レンツ帳面。“端袋六 現金払”の日付と、ヴィクトル私用帳簿“端袋”の日付が一致。金額は一致しないが、差額は仲介手数料を含む可能性あり」
クラウスが低く言った。
「近いですね」
「はい」
ロイエンも頷く。
「ただし金額が一致しない」
ルイスが記録する。
ヴィクトル“端袋”日付とレンツ“端袋六 現金払”日付一致。金額不一致。仲介手数料等の可能性あり。ただし同一取引未認定。
続いて、もう一行。
「レンツ帳面“小物運び 北便”の日付と、ヴィクトル私用帳簿“北手間”の日付が一致。金額は近いが完全一致せず」
帳場が静まった。
北手間。
小物運び。
北便。
同じ日。
金額が近い。
だが、完全一致ではない。
ガレスが、慎重に言った。
「これは……かなり近いです」
レティシアは頷いた。
「近いです」
「でも、同一とはまだ」
「認定しません」
ルイスが書く。
ヴィクトル“北手間”日付とレンツ“小物運び 北便”日付一致。金額近似。ただし完全一致ではなく、同一支払い未認定。
ヨハンが息を吐いた。
「でも、もう隣にいますよね」
豆売りの女主人が言った。
「隣にいるからって、同じ布団に入ってるとは限らないよ」
「例えが急に生活感ありますね」
「生活感のある例えの方が間違えにくいんだよ」
クラウスは、壁の金の線を見ていた。
「これで、ヴィクトル個人線はさらに濃くなりました」
レティシアは否定しない。
「ええ。濃くなりました」
その上で、彼女はルイスに新しい札を書かせた。
金額一致ではなく、日付一致・金額近似。
さらにもう一枚。
近似は一致ではない。
ボルツが苦笑する。
「帳場の壁、だんだん説教くさくなってきたな」
豆売りの女主人が返す。
「説教で人が守れるなら安いもんだよ」
王都側の照会では、ヴィクトルは「北手間」を北方方面の市場調査費と説明していた。
アルベルトは、その説明に納得しなかったらしい。
報告の端に、フェルナー監査官の短い所見がある。
市場調査費であれば、調査先、調査項目、報告者名が通常残る。私用帳簿にはこれらなし。追加提出を求める。
ルイスが読み上げると、ガレスが言った。
「フェルナー監査官、鋭いですね」
ロイエンが頷く。
「市場調査費という説明を受けるなら、市場調査の成果を見せろ、ということです」
豆売りの女主人がにやりとする。
「いいね。調べたって言うなら、何を調べたか出しな、ってやつだ」
クラウスが頷いた。
「商人には効きます」
帳場では、ヴィクトルの私用帳簿の各行を、これまでの線へつないでいった。
南区使い
通称レオン、若い使い、南区の臨時使い。接続候補。
古物
マーロ、古物市場、古い鉄鍵。接続候補。
端袋
リッツ革具店、レンツ、細長袋六つ。接続候補。
北手間
レンツ、小物運び、北便、王都南門小箱発送。接続候補。
すべてが候補だ。
だが、候補が同じ日付の周囲に集まっている。
それは無視できない。
レティシアは言った。
「時期の並びを作ります」
ルイスが新しい表を書く。
ヴィクトル私用帳簿と関連行動の時系列
一、リッツ革具店端袋購入。
二、マーロ古物鍵引渡し。
三、古袋修理依頼。
四、北便小物運び手配。
五、王都南門小箱発送。
六、送り状南の村方面追記。
ガレスは表を見つめ、静かに言った。
「金額は小さいのに、動きは大きいですね」
クラウスが答える。
「小さい金で、人と物を動かした可能性があります」
ヨハンが眉を寄せる。
「大金じゃないから、余計に見逃される」
「はい」
ルイスが記録する。
少額支出でも、人・物・便の手配に使われた可能性。金額の大小は重要度を直接示さない。
その時、王都からさらに短い追記が届いた。
フェルナー監査官からの急報だった。
灰鷹商会側が追加提出したヴィクトル私用帳簿の次頁に、新たな記載があったという。
ルイスは封を開き、読み上げた。
「追加頁。記載一行。日付、小物運び北便の二日前。金額、銀貨二枚。用途欄……」
彼は一度、言葉を止めた。
帳場の全員が見る。
ルイスは、ゆっくり読んだ。
「白蔦筋 確認料。」
空気が固まった。
白蔦。
その言葉は、何度見ても、帳場の背筋を冷やす。
だが、今度は「白蔦会」ではない。
白蔦筋。
筋。
道筋。
流通筋。
取引筋。
豆売りの女主人が、低く言った。
「来たね」
ガレスは思わず口を開きかけ、閉じた。
ヨハンも黙っている。
レティシアは、すぐに言った。
「白蔦会とは書かない」
ルイスは筆を取った。
“白蔦筋”は“白蔦会”とは限らない。
その字が壁に貼られるまで、誰も次の言葉を出さなかった。
クラウスが慎重に口を開く。
「商人の世界で、“筋”は道筋、流通経路、取引系列を意味することがあります」
ロイエンも頷く。
「王立書庫照会が必要です。旧白蔦流通路の俗称として使われていたか」
豆売りの女主人が言った。
「白蔦会じゃなくて、白蔦筋。人じゃなくて道かもしれない」
レティシアは静かに頷いた。
「はい。次はそこです」
ルイスが新しい表題を書いた。
“白蔦筋”という語の意味確認
ボルツが、壁の文字を見て小さく唸った。
「白蔦って出るだけで、町なら騒ぎになるな」
「だから、町へは出しません」
レティシアは即答した。
「現時点では内部確認。白蔦会活動とは未確認です」
ルイスが書く。
“白蔦筋 確認料”は内部確認事項。町向け未共有。白蔦会活動とは未確認。
ロイエンは王都向け返答をすぐにまとめ始めた。
ヴィクトル私用帳簿に“白蔦筋 確認料”の記載を確認。白蔦会との接続は未確認。“筋”が旧物流路・流通経路・取引系列を意味する可能性あり。王立書庫および商務古語資料へ照会を要する。
レティシアはそれを読み、頷いた。
「よいと思います」
その声は、いつもより少し低かった。
夜、レティシアは私用帳簿の写しを前にして口述した。
ヴィクトルの私用帳簿には、小さな金が並んでいた。南区使い、古物、端袋、北手間。どれも小さい。だが、小さい金は人を動かし、物を動かし、便を動かす。レンツの帳面と日付が重なり、金額が近づき、ヴィクトル個人線は濃くなった。だが、濃い線にも札はいる。そして最後に、“白蔦筋 確認料”が出た。白蔦会ではない。白蔦筋。筋とは、道かもしれない。流通経路かもしれない。商人の符丁かもしれない。ここで白蔦会と叫べば、これまで分けてきたものが崩れる。だから、次も分ける。白蔦会ではなく、白蔦筋。人ではなく、道へ払われた金かもしれない。
ルイスは筆を置いた。
帳場の壁には、新しい札が貼られている。
白蔦筋。
その言葉は、白蔦会よりも少し地味だった。
けれど、地味なぶんだけ、深いところへ続いている気がした。




