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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第192話 ヴィクトルの紹介札

紹介札というものは、軽い。


 紙一枚だ。


 だが、その紙一枚で扉が開く。


 商会の店先。

 職人の作業場。

 馬車宿の帳場。

 普段なら断られる相手でも、よく知られた名が一筆添えられていれば、通ることがある。


 だから、紹介札はただの紙ではない。


 誰かの信用を、少しだけ切り分けて持たせるものだった。


 王都から届いた灰鷹商会の封書は、いつもより厚かった。


 ルイスは封を手に取った瞬間、わずかに眉を動かした。


「灰鷹商会からです。王太子府監査官室の確認札もあります」


 豆売りの女主人が腕を組んだ。


「ずいぶん大げさな封筒だね。中に言い訳でも詰まってるのかい」


 クラウス・ベルガーが苦い顔をする。


「商会から出る紙は、だいたい言い訳を含みます」


「銀狐も?」


「はい」


「正直でよろしい」


 ヨハンが小声で笑った。


 だが、ルイスが封を開けると、帳場の空気はすぐに静まった。


 中に入っていたのは、灰鷹商会副支配人ヴィクトル・グレイが、王都外郭の錠前商マーロへ出したとされる紹介札の控えだった。


 正確には、控えの写し。


 原本はマーロ側に渡され、現在は王太子府が保全中とのことだった。


 ルイスは読み上げる。


「紹介札控え。宛先、王都外郭錠前商マーロ殿。差出、灰鷹商会副支配人ヴィクトル・グレイ。文面……」


 彼は一度、息を整えた。


「“本状を携える者に、古き型に近きものを渡すこと。用途は倉庫確認。支払いは後日、当方にて処理する”」


 帳場が静まり返った。


 古き型に近きもの。


 鍵とは書いていない。


 だが、マーロが証言した「古い倉庫鍵に近い型の鍵を探す依頼」と、かなり近い。


 ガレスが、慎重に言った。


「“古き型に近きもの”は、鍵のことに見えます」


 レティシアは頷いた。


「見えます」


「でも、鍵とは書いていない」


「ええ」


 ルイスが記録する。


 紹介札文面:“古き型に近きもの”。鍵を指す可能性が高いが、鍵とは明記されていない。逃げ道のある表現。


 豆売りの女主人が嫌そうに息を吐いた。


「うまいことぼかしてるねえ」


 クラウスは文面を見つめたまま答えた。


「商人の文章です。あとで説明できるように書いている」


 ヨハンが言った。


「鍵って書いたらまずいって、わかってたんですかね」


 レティシアはすぐには答えない。


 少し置いてから言った。


「そうかもしれません。ただし、商務上、あえて広く書くこともあります」


 ルイスが書く。


 鍵と明記しなかった理由候補:意図的な曖昧化、商務上の広い表現、現物未確定、後日説明余地確保。未確認。


 ボルツが、紹介札の写しを横から覗いた。


「“古き型に近きもの”か。鍛冶屋なら、そんな言い方はしねえな」


 ニーナが頷く。


「革職人でもしませんね。依頼が曖昧すぎると、作業にならない」


 クラウスが言う。


「だからこそ、職人への正式注文ではなく、紹介札です。持ってきた者の口頭説明で補わせる前提だったのでしょう」


 ロイエンが記録を見ながら言った。


「その“本状を携える者”も、名前がありません」


 そこが、次の問題だった。


 紹介札には、若い使いの名がない。


 レオンとも、レオとも、何も書かれていない。


 ただ、本状を携える者。


 ルイスは記録する。


 紹介札に携行者名なし。“本状を携える者”とのみ記載。通称レオンとは未確認。


 ガレスが眉を寄せた。


「名前を書かない紹介札って、普通なんですか」


 クラウスは少し考えてから答えた。


「あります。急ぎの場合や、使いがまだ決まっていない場合。ただし、信用を渡す紙としては危険です」


「落としたら、誰でも使える?」


「はい。だから、普通は携行者の名や特徴を添えることが多い」


 豆売りの女主人が鼻を鳴らす。


「危ない紙だね」


「ええ」


 クラウスは頷いた。


「そして、危ない紙だからこそ、意図してそうした可能性もあります」


 ルイスが書く。


 携行者名なし紹介札は、急ぎ・携行者未定・慣例の可能性がある一方、意図的に名を残さないための形式である可能性もある。


 紹介札の控えには、日付も曖昧だった。


 日付欄には、月はある。


 だが、日が擦れている。


 もともと薄く書かれていたのか、写しの状態が悪いのか、意図的にぼかされたのかは不明。


 ロイエンが王都側注記を読む。


「灰鷹商会は、控えの保存状態が悪く、日付の一部が読めないと説明。王太子府は原本側の日付痕と照合中」


 ヨハンが顔をしかめる。


「都合よく読めないですね」


 豆売りの女主人がすぐ言った。


「都合よく見える時ほど、まだ都合よくとは書かない」


 ルイスが頷いて書く。


 日付一部不明。保存状態不良との灰鷹説明。意図的改変とは未確認。原本照合待ち。


 レティシアは紹介札の紙質に目を向けた。


「紙については?」


 ルイスが別紙を読む。


「王太子府紙質係初見。紹介札控えの紙は、灰鷹商会通常業務紙とは異なり、副支配人私用紙に近い可能性あり。繊維配合、厚み、裁断幅が一致候補。ただし同じ紙を商会内でも使う者あり」


 クラウスの表情が明らかに変わった。


「私用紙……」


 ガレスが聞く。


「それは、どう違うんですか」


 クラウスは慎重に答えた。


「商会の正式業務紙なら、商会全体の帳簿や発注とつながります。私用紙なら、副支配人個人の用件で出した可能性が上がる」


 豆売りの女主人が言った。


「つまり、灰鷹商会じゃなくて、ヴィクトル個人の線かい」


「可能性です」


 レティシアが即座に補った。


「商会全体とヴィクトル個人は分けます」


 ルイスが大きく書く。


 灰鷹商会全体とヴィクトル個人を分ける。


 さらに続ける。


 紹介札紙質、副支配人私用紙に近い可能性。灰鷹商会正式業務紙とは未確認。ただし商会内流通紙の可能性も残す。


 ヨハンが言った。


「だいぶヴィクトル個人に寄ってきましたね」


 レティシアは頷いた。


「寄っています。ただし、まだヴィクトルが黒幕とは言いません」


 ボルツが腕を組む。


「じゃあ何なんだ。ほとんど自分で紙出してるじゃねえか」


 クラウスが答える。


「紙を出したことと、事件全体を仕組んだことは違います。ヴィクトルが一部を頼まれた可能性、利用された可能性、あるいは自分の利益のために一部だけ動いた可能性もあります」


 豆売りの女主人が低く言う。


「全部悪いか、一部悪いか、知らずに悪いことに使われたか。そこを分けるんだね」


「はい」


 レティシアは静かに頷いた。


 紹介札の文面には、もう一つ気になる表現があった。


 支払いは後日、当方にて処理する。


 これもまた、曖昧だった。


 当方とは、灰鷹商会か。

 ヴィクトル個人か。

 副支配人の私用金か。

 あるいは、別件の手数料に混ぜるつもりだったのか。


 ルイスが読み上げると、ロイエンが顔を上げた。


「レンツの証言とつながりますね。彼は、過去別件手数料に含まれていた可能性を否定しませんでした」


 クラウスも頷く。


「マーロへの支払い、レンツへの手数料、革袋購入。全部が小口現金か、後日処理に寄っています」


 レティシアは壁に新しい札を置かせた。


 後日処理・小口現金線。


 ガレスがそれを見て言った。


「お金の線ですか」


「ええ」


 レティシアは答えた。


「物の線、道の線、筆跡の線。次は金の線が必要です」


 ルイスが書く。


 “当方にて処理”の当方は未確定。灰鷹商会正式支払い、ヴィクトル個人支払い、別件手数料混入の可能性。


 その日の午後、王都から短い追加報告が届いた。


 灰鷹商会へ紹介札について確認したところ、ヴィクトルはこう説明したという。


 急ぎだったため、手元にあった私用紙を使った。商会業務に関することであり、私的依頼ではない。


 ルイスが読み終えると、ボルツが鼻を鳴らした。


「便利な説明だな」


 豆売りの女主人がすかさず言った。


「便利だからって嘘とは限らない。でも、便利な説明には札をつける」


 ルイスは書く。


 ヴィクトル説明:急ぎのため私用紙使用。商会業務であり私的依頼ではないと主張。便利な説明だが、真偽未確認。


 クラウスは少し苦い顔をしていた。


「商会側からすれば、そう言うしかありません。私的依頼と認めれば、副支配人個人の逸脱になる。商会業務と言えば、商会全体の管理責任が問われる。どちらも避けたい」


 ロイエンが頷く。


「だから、曖昧なままにしたい」


「はい」


 レティシアは言った。


「ならば、こちらは曖昧さを分類します」


 ルイスが新しい欄を作る。


 ヴィクトル紹介札の位置づけ候補。

 一、灰鷹商会正式業務。

 二、ヴィクトル個人の私的依頼。

 三、商会業務を装った個人依頼。

 四、第三者に利用された紹介札。

 五、急ぎの通常処理。


 ガレスがそれを見て、ため息をついた。


「候補が多いですね」


 豆売りの女主人が言う。


「でも、多いまま置いた方がいい。早く一つにしたがると、だいたい間違う」


 その時、マルタが紹介札の原本写しに添付された別紙を見て、少しだけ眉を動かした。


「こちら、裏面の付着物についての注記があります」


 帳場が静まる。


 ルイスが読み上げた。


「紹介札原本裏面に、微細な灰色樹脂様付着あり。灰松樹脂様にも見えるが、灰松材の机、荷箱、または封箱からの移着可能性あり。王都側比較待ち」


 灰松。


 その言葉が出るたび、場の空気は重くなる。


 灰松倉庫跡。

 灰松樹脂様付着物。

 レオン下宿の香油小瓶。

 窪みの油様臭。


 だが、飛びつかない。


 ルイスは、もう反射で書いた。


 紹介札裏面の灰色樹脂様付着、灰松倉庫跡との接続未確認。机・箱・封具等からの移着可能性。弱線。


 ヨハンが小さく笑う。


「速い」


 ガレスも頷いた。


「ルイスさんの札、もう弓矢みたいに飛びますね」


「外すと危ないので、狙って書いています」


 豆売りの女主人が感心したように言った。


「うまいこと言うじゃないか」


 レティシアは紹介札の写しを静かに見つめていた。


 そこには、まだ答えはない。


 けれど、ヴィクトル個人の線は確かに濃くなった。


 マーロへの紹介札。

 鍵とは書かない曖昧な文面。

 携行者名なし。

 私用紙に近い紙。

 後日処理。

 裏面の灰色樹脂様付着。


 どれも一つでは弱い。


 だが、全部が同じ方向を向き始めている。


 ロイエンが王都向け所見を書いた。


 灰鷹商会提出の紹介札控えにより、ヴィクトルがマーロへ“古き型に近きもの”を渡すよう求めたことが確認された。ただし、鍵とは明記されず、携行者名も記載されていない。紙質は副支配人私用紙に近い可能性があり、灰鷹商会正式業務紙とは未確認。支払い文言“当方にて処理”は、商会正式支払い・ヴィクトル個人支払い・別件手数料混入のいずれも排除できない。紹介札裏面の灰色樹脂様付着は弱線として扱う。灰鷹商会全体とヴィクトル個人を分けて確認すべき段階に入った。


 レティシアは読み、頷いた。


「よいと思います」


 ロイエンは小さく息を吐いた。


「次は、灰鷹商会全体かヴィクトル個人か、ですね」


「はい」


 豆売りの女主人が言った。


「店全体と番頭一人を混ぜるな、ってやつだね」


 クラウスが頷く。


「商会信用に関わります。ここを誤ると、事件とは別の混乱が起きます」


 夜、レティシアは紹介札の写しを前にして口述した。


 紹介札は、紙一枚だった。だが、その紙でマーロの扉は開いた。文面には鍵とない。携行者の名もない。古き型に近きもの。当方にて処理。曖昧な言葉ばかりである。曖昧な言葉は、後から逃げるためにも、急ぎの実務にも使われる。だから、まだ決めない。ただ、紙は商会の正式業務紙ではなく、ヴィクトル個人の私用紙に近い。灰鷹商会全体なのか、ヴィクトル個人なのか。ここを混ぜれば、無関係な者まで巻き込む。紹介札は、ヴィクトルの手元に近い。だが、ヴィクトルがすべてを組んだとはまだ言えない。紙一枚で扉が開くなら、紙一枚で人を閉じ込めることもある。だから、紙の重さを測りながら進む。


 ルイスは筆を置いた。


 紹介札は、ヴィクトルの線を太くした。


 だが同時に、灰鷹商会全体とヴィクトル個人を分けなければならない段階へ、帳場を押し出した。

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