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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第184話 小鹿渡しの古い杭

 翌朝、帳場の壁には、また新しい線が足されていた。


 王都南門馬車宿。

 南の村。

 小鹿渡し。

 冬季木材道。

 灰松倉庫跡。


 通称レオンの足取りは、まだそこに直接は描かれていない。


 描かれているのは、あくまで通行可能性だった。


 レオンが通ったとは言えない。

 だが、通れない道ではなかった。

 靴拭い布の泥は、小鹿渡し付近の砂と一部似ている可能性がある。

 だが、通行証明ではない。


 そんな曖昧な札ばかりが増えていく。


 ガレスは壁を見上げ、ぽつりと言った。


「この事件、どんどん細くなってませんか」


 ヨハンが横で首を傾げる。


「細く?」


「最初は未申告荷車とか白蔦状類似印とか、大きい話だったじゃないですか。今は泥とか糸とか布片とか、杭とか……」


「杭はまだ出てないぞ」


「たぶん出ます」


 豆売りの女主人が豆袋を置きながら笑った。


「縁起でもない予言だね」


 ルイスは苦笑しつつも、新しい紙を用意した。


「実際、今日の確認対象は小鹿渡しの木杭です」


 ガレスが目を丸くした。


「出た」


 ヨハンが笑う。


「お前、だんだん当てるな」


「嬉しくないです」


 小鹿渡しには、古い木杭が二本残っている。


 正式な渡し場ではない。

 船もない。

 渡し守もいない。


 ただ、昔は荷を渡す時に縄を掛けたり、浅瀬の位置を示したりするための杭があったらしい。


 その木杭の状態を、昨日の踏み跡確認隊は十分に見ていなかった。


 水量と踏み跡ばかりに目が行っていたからだ。


 だが、灰松倉庫跡への道が少しずつ浮かび上がった今、渡し場そのものを見ないわけにはいかない。


 レティシアは静かに言った。


「今日は、小鹿渡しそのものを確認します。渡れるかではなく、最近使われた痕跡があるか」


 ルイスが表題を書く。


 小鹿渡し木杭および浅瀬周辺の使用痕跡確認


 豆売りの女主人がそれを読んで頷いた。


「今日は短めだね」


「これでも短い方です」


 ルイスが答えると、ヨハンが小さく笑った。


「感覚が壊れてきましたね」


 ディルクは出発人員を決めた。


 警備兵二名。

 案内人。

 エリオ。

 ヨハン。

 それにラウル。


 今回、ラウルは木杭の古さや縄跡を見るために同行する。


 ボルツも少しだけ行きたそうな顔をしたが、今日は帳場待機だった。


「俺は杭くらい見られるぞ」


 ボルツがぼやくと、豆売りの女主人が即座に言った。


「行ったら杭を引っこ抜きそうだから駄目だよ」


「俺を何だと思ってる」


「鍛冶屋」


「鍛冶屋は何でも壊す人間じゃねえ」


「直す前に一回壊すだろ」


「……場合による」


 帳場に小さな笑いが起きる。


 レティシアはその空気を壊さず、最後に確認した。


「小鹿渡しで見るものは、木杭の表面、縄跡、水際の石、踏み込み跡、対岸の草倒れ。何かを見つけても、その場で意味を決めないこと」


 エリオが頷く。


「はい」


 ヨハンも言った。


「杭に縄跡があっても、最近使ったとは限らない」


「ええ」


「縄が新しくても、事件関係とは限らない」


「そうです」


 ディルクが短く言う。


「見たまま持って帰る」


 レティシアは頷いた。


「お願いします」


 小鹿渡しは、朝の光の中で静かだった。


 水は浅い。


 川幅も広くはない。


 けれど、石は滑りやすく、足を置く場所を間違えると簡単に転ぶ。


 案内人が先に立ち、昨日と同じ場所を踏まないよう、少し横へ回った。


 エリオがまず記録する。


 小鹿渡し、水量前日と大差なし。浅瀬渡河可能。石面湿りあり。滑りやすい。


 ラウルは古い木杭の前でしゃがんだ。


 二本のうち一本は、ほとんど朽ちている。

 もう一本は、上部が割れながらも残っている。


 その残った方の杭に、細い擦れ跡があった。


 ラウルはすぐには触れない。


「縄跡に見えます」


 エリオが筆を構える。


「古いものですか」


「古い跡もあります。ですが、この一筋だけ、表面が少し明るい」


 ヨハンが近づき、目を細める。


「最近、何かが擦れたかもしれません。でも、縄かどうかはわかりません」


 エリオが記録した。


 小鹿渡し木杭一本に擦れ跡あり。古い縄跡様の溝複数。うち一筋、表面色が比較的明るい。最近の擦過可能性。ただし縄使用とは未確認。


 ディルクが問う。


「その高さで縄を掛けたら、何に使う」


 ラウルは立ち上がり、杭と川の位置を見た。


「人が渡る時の補助縄を一時的に掛ける高さです。荷を引くには少し低い。小箱を持った人が体を支えるには使えます」


 ヨハンが補足する。


「夜なら、縄があるだけでだいぶ違います。片手で荷を抱えて、片手で縄を持てる」


 エリオが書く。


 擦れ跡高さ、渡河補助縄を掛ける用途と整合可能。大荷引きには低め。小物携行者の補助には使用可能。ただし推測。


 水際の石も確認された。


 杭から対岸へ向けて、いくつかの石が並んでいる。


 自然にそうなったとも言える。


 だが、そのうち二つは少し動かされたように見えた。


 周囲の藻が剥がれ、石の濡れ方が違う。


 ヨハンが言った。


「足場を作ったかもしれないですね」


 ラウルは首を傾げる。


「増水で動いた可能性もある」


 エリオは書く。


 浅瀬内の石二つに位置変化様の違和感。藻剥がれ、濡れ方差あり。人為配置・増水移動・自然転石の可能性。


 対岸へ渡る。


 案内人が、慎重に足を置く。


 警備兵が続く。


 エリオは自分の足跡を記録に入れるため、渡った位置を簡単に印した。


 対岸の草は、少し倒れていた。


 ただし、昨日までの調査隊はここを通っていない。


 南の村の山菜採りが通る場所でもある。


 案内人が言う。


「村の者なら、ここを渡った後は左へ行くことが多いです。冬季木材道へ行くなら右へ入ります」


 ディルクが見る。


 右側の草に、細い通り跡がある。


 人一人分。


 だが、新旧は曖昧。


 エリオが記録する。


 小鹿渡し対岸、右側草倒れあり。冬季木材道方面へ続く。山菜採り等の村人利用との区別未確認。


 その草の中に、小さな麻紐の切れ端が落ちていた。


 灰色ではない。


 茶色い麻紐。


 濡れて泥を吸っている。


 ヨハンが見つけ、すぐに手を止めた。


「触らず記録、ですね」


「そうだ」


 ディルクが答える。


 麻紐の切れ端は、足元の草に絡んでいた。


 荷包みに使う紐としては、ごく普通のものだ。


 どこの商会でも、どこの村でも使う。


 だからこそ、特定はできない。


 だが、小鹿渡し、木杭の擦れ、浅瀬の石、対岸の草倒れ。


 そこに紐がある。


 その並びは、少しだけ意味を持ち始めていた。


 エリオは慎重に書く。


 小鹿渡し対岸右側草中に茶色麻紐片様のものを視認。荷包み紐・村人使用紐・自然流入物等の可能性。特定不可。位置記録後、回収。


 回収は短時間で終わった。


 それ以上、奥へは進まない。


 今日は小鹿渡しの確認であり、冬季木材道の追加調査ではない。


 ディルクは言った。


「戻る」


 ヨハンが少しだけ右側の道を見た。


「進みたいですね」


「進まない」


「はい」


「進みたい場所ほど、手順を持って戻る」


 ヨハンは苦笑した。


「それ、帳場の標語にできますね」


 エリオが内部控えに書きかけて、ディルクに睨まれた。


「書くな」


「はい」


 帳場へ戻ると、ガレスはもう記録受領の用意を終えていた。


 ルイスの隣に座り、移動表を開いている。


 ヨハンがそれを見て少し笑った。


「完全に待機係が板についてきたな」


「待機じゃなくて受領です」


 ガレスは少し胸を張った。


 豆売りの女主人が満足げに笑う。


「いい返しだ」


 エリオの報告が始まる。


 木杭の擦れ跡。

 浅瀬の石の違和感。

 対岸右側の草倒れ。

 茶色麻紐片様のもの。


 ガレスは、ひとつずつ確認してから移動表に反映した。


「木杭の擦れ跡は、渡河補助縄の可能性。でも最近使用かは未確認」


「はい」


「浅瀬の石は、人為配置の可能性。でも増水や自然転石も残る」


「はい」


「麻紐片は、荷包み紐かもしれない。でも一般品」


「はい」


「通称レオンとの接続は未確認」


 エリオが頷いた。


「はい」


 ルイスは、ガレスの整理を聞きながら少しだけ微笑んだ。


 豆売りの女主人が小声で言う。


「育ったねえ」


 ガレスは聞こえていたらしく、少し耳を赤くした。


 回収された麻紐片様のものを、クラウスが確認した。


「一般的な麻紐です。商会荷でも村の荷でも使います。銀狐とも灰鷹とも言えません」


 ボルツも見た。


「鍛冶場でも使うな。道具を束ねる時に」


 ヨハンが言った。


「荷車屋でも使います」


 豆売りの女主人が続ける。


「豆袋にも使うよ」


 ルイスは書いた。


 茶色麻紐片様のもの、一般的麻紐。商会・村・職人・豆袋等で広く使用。特定不可。


 ガレスが小さく笑う。


「豆袋まで入りましたね」


「入れないと、おかみさんが怒ります」


 ルイスが真面目に言うと、女主人は満足げに頷いた。


「わかってるじゃないか」


 次に、木杭の擦れ跡についてラウルが図を描いた。


 擦れ跡の高さ。

 向き。

 古い溝との違い。


 ボルツがそれを見て言う。


「縄なら、濡れた縄だな。乾いた縄なら、もう少し表面が削れる」


「なぜですか」


 ガレスが聞く。


「濡れた縄は滑る。乾いた縄は食う。木の表面への傷のつき方が違う」


 ルイスが書く。


 ボルツ所見:擦れ跡は濡れた縄等の滑りによる可能性。乾いた縄とは傷の出方が異なる可能性。ただし木杭劣化あり断定不可。


 クラウスが言う。


「もし夜間や朝方の渡河なら、縄が湿っていた可能性はあります」


 レティシアはすぐに確認した。


「それは通称レオンの渡河時間を示しますか」


「示しません。一般論です」


「記録」


 ルイスが書く。


 濡れた縄の可能性は一般論。通称レオン渡河時刻を示すものではない。


 クラウスは苦笑した。


「すぐ止められましたね」


「必要です」


 レティシアは静かに答えた。


 午後、王都から別の報告が届いた。


 レオン下宿の空の革袋についての寸法照会結果だった。


 ルイスが読み上げる。


「通称レオン下宿保全物、空の革袋。細長型。第三鍵類似加工鍵革袋と寸法が近い。ただし革の質、縫い目、口紐の位置に差異あり。同一品ではない。類似用途品の可能性」


 帳場が静まる。


 近い。

 だが同一ではない。


 また、その形だ。


 ガレスが言った。


「類似用途品……」


 ヨハンが頷く。


「鍵とか細い道具を入れる袋が、複数あった可能性ですね」


 クラウスが答える。


「はい。通称レオンが同じ用途の革袋を複数持っていた可能性。あるいは、同じ店で買った別品。あるいは、まったく一般品」


 ルイスが記録する。


 レオン下宿空革袋、第三鍵類似加工鍵革袋と寸法近似。ただし同一品ではない。類似用途品の可能性。一般品可能性あり。


 レティシアは移動表ではなく、物品表に新しい欄を作らせた。


 細長革袋類。


 一、第三鍵類似加工鍵革袋。

 二、レオン下宿空革袋。

 三、灰松倉庫跡窪みに入る可能性のある革袋寸法。


 三つが同じではない。


 だが、同じ用途の範囲にいる。


 豆売りの女主人が腕を組んだ。


「人じゃなくて、袋の仲間が出てきたね」


「袋の仲間……」


 ガレスが思わず笑う。


 ルイスは真顔で書きかけ、レティシアに見られて止めた。


「内部控えにも不要です」


「はい」


 夕方、今日の情報は二つの線へ分けられた。


 一つは、小鹿渡しの使用痕跡線。


 木杭の擦れ跡。

 浅瀬の石。

 対岸右側の草倒れ。

 麻紐片。


 もう一つは、細長革袋類の線。


 第三鍵類似加工鍵の革袋。

 レオン下宿の空革袋。

 灰松倉庫跡窪みの寸法。


 どちらも通称レオンへ直接はつながらない。


 しかし、足元と持ち物の両側から、少しずつ輪郭を作り始めていた。


 ロイエンが王太子府向け所見を書く。


 小鹿渡し木杭に比較的新しい可能性のある擦れ跡を確認。渡河補助縄使用と整合可能だが、縄使用・時期・人物は未確認。浅瀬石の位置変化様、対岸右側草倒れ、茶色麻紐片様のものを確認したが、いずれも一般的・自然的説明が可能。通称レオン通行証明とはしない。別途、通称レオン下宿空革袋は第三鍵類似加工鍵革袋と寸法近似するが同一品ではなく、類似用途品の可能性に留める。


 レティシアはそれを読み、頷いた。


「よいと思います」


 ロイエンは少し笑った。


「今日も認定しない報告です」


「認定しない報告が続く時は、線を整理する時です」


 豆売りの女主人が言った。


「派手じゃないけど、足場は増えてるよ」


 夜の追記に、レティシアは小鹿渡しの図を見ながら口述した。


 小鹿渡しには、古い杭が残っていた。杭には擦れ跡があり、浅瀬の石は少し動いたように見え、対岸の草は倒れ、麻紐の切れ端があった。どれも、単独では弱い。弱いものを重ねると、強い証拠になるとは限らない。弱いものを雑に重ねれば、弱いまま積み上がった錯覚になる。だが、弱いものを弱いまま置けば、次に見る場所はわかる。渡し場は使えたかもしれない。細長い革袋は複数あったかもしれない。通称レオンは、まだそこにいない。だが、誰かが小物を持って渡ることはできた。その事実だけを、今日の紙に置く。


 ルイスは筆を置いた。


 小鹿渡しは、ただの浅瀬ではなくなった。


 だが、まだ通称レオンの足跡ではない。


 道はある。


 渡し場もある。


 袋もある。


 それでも、人はまだ見えない。


 そのもどかしさを抱えたまま、帳場の夜は静かに更けていった。

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