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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第178話 灰色の布片様のもの

翌朝、帳場の壁には新しい札が貼られていた。


 灰色布片様のもの。衣服片とは断定しない。


 豆売りの女主人は、それを見てすぐに言った。


「長いねえ」


 ルイスは筆を整えながら答えた。


「短くすると、外套の切れ端になってしまいます」


「まあ、そうだね。灰色の布、ってだけで人はすぐ“レオンの外套だ”って言いたくなる」


 ガレスが、少し気まずそうに肩をすくめた。


「昨日、俺が言いかけました」


「言いかけて止まったなら、いいんだよ」


 女主人は豆袋を机の端へ置き、ガレスを見た。


「口から出る前に札が間に合ったってことだ」


 ヨハンが横で笑った。


「札が喉に引っかかったんだな」


「それ、苦しくないですか」


「苦しい方がいい時もある」


 いつもの軽口だった。


 けれど、今日の帳場は最初から少し緊張していた。


 昨日、斥候が冬季木材道の枝に見つけた灰色の布片様のもの。


 それを正式に保全する。


 ただ拾うだけではない。


 どこに掛かっていたか。

 どの高さか。

 枝に引っかかったのか、結ばれていたのか。

 新しいのか、古いのか。

 布なのか、紙なのか、荷札の一部なのか。

 衣服なのか、荷包みなのか。


 確認することは多かった。


 ディルクは、出発前に人員を絞った。


 警備兵二名。

 南の村出身の案内人。

 記録補助としてエリオ。

 荷と布の見立て役としてヨハン。


 ヨハンは、名前を呼ばれた瞬間に少し驚いた顔をした。


「俺、行っていいんですか」


「荷車は通れない。だが、布が荷包み由来か衣服由来かを見る目は必要だ」


 ディルクが言うと、ヨハンは真面目に頷いた。


「わかりました」


 ガレスが羨ましそうに見る。


「俺は?」


 レティシアは首を横に振った。


「今回は帳場で待機です」


「……はい」


 少し残念そうな返事だった。


 豆売りの女主人が肘で軽くつつく。


「待つのも仕事だよ」


「わかってます」


「顔がわかってない」


「顔まで札をつけないでください」


 女主人は、ふっと笑った。


「なら、ちゃんと待ちな」


 その言葉に、ガレスは少しだけ背筋を伸ばした。


 冬季木材道までは、馬で途中まで行き、そこから徒歩だった。


 南の村北口を抜け、小鹿渡しへ向かう道は、朝露で湿っていた。道と呼ぶには細く、草の間に人が歩いた跡が続いているだけにも見える。


 案内人が先を歩く。


「昨日はこの先まで見ました。渡しの水量は今日も低いです」


 ヨハンは足元を見ながら言った。


「荷車は絶対無理ですね。片輪どころか、両輪とも泣きます」


 エリオが記録板に書く。


 南の村北口〜小鹿渡し、徒歩通行可。荷車通行困難。朝露あり、地面やや湿り。


 ディルクがヨハンを見た。


「両輪とも泣く、は書かなくていい」


「わかってます」


 エリオが少しだけ笑ったが、すぐに真面目な顔に戻った。


 小鹿渡しは、正式な渡し場というより、浅瀬だった。


 川幅は狭く、古い木杭が二本だけ残っている。水は膝より下。だが、石は滑りやすい。


 案内人が言った。


「荷を持つなら、かなり慎重に渡らないと落とします」


 ヨハンは水面を見ながら頷いた。


「小箱くらいなら抱えて渡れる。でも、急いだら危ない。夜ならなおさら」


 エリオが書く。


 小鹿渡し、徒歩渡河可。小箱程度なら携行可能。ただし滑りやすく、夜間・雨後は危険。


 そこから冬季木材道へ入る。


 名前に「冬季」とあるだけあって、春の道としては頼りない。


 草が膝近くまで伸び、ところどころ泥が隠れている。雪があれば平らに見えたのだろうが、今は根と石と落ち枝が足を取る。


 ヨハンが足を止めた。


「この道、知ってないと入らないですね」


 ディルクが問う。


「見ればわかる道ではないか」


「入口だけなら見落とします。案内人がいなかったら、俺は獣道だと思うかもしれない」


 案内人が頷いた。


「村でも、山菜採りか古い道を知ってる者くらいしか入りません」


 エリオは記録する。


 冬季木材道入口、視認困難。土地勘または略図なしでは見落としやすい。


 灰色布片様のものは、入口から少し進んだ場所にあった。


 枝に掛かっている。


 高さは大人の胸ほど。

 木の種類は若い灰松。

 布は枝の折れた箇所に引っかかっているように見える。


 だが、近づくと少し印象が変わった。


 ヨハンが眉を寄せる。


「これ、引っかかっただけじゃないかもしれません」


 ディルクが低く問う。


「どういうことだ」


「布の端が、枝に巻きつくようになってます。風で絡んだ可能性もありますけど……」


 エリオがすぐに言った。


「触れる前に、位置記録を」


 警備兵が紐で周囲を示す。


 エリオは見たままを書き取った。


 灰色布片様のもの。冬季木材道入口より徒歩約百二十歩地点。灰松の枝、高さ大人胸程度。枝折れ箇所付近に掛かる。布端が枝に巻きつくように見える。自然付着か意図的結着か未確認。


 ヨハンは布を見つめた。


「これ、外套の裂け方とは違う気がします」


 案内人が驚いたように聞く。


「わかるんですか」


「外套が枝に引っかかって裂けたなら、もっと繊維が不規則に伸びるはずです。これは片側がまっすぐすぎる」


 ディルクが目を細める。


「切った布か」


「可能性です」


 エリオが書く。


 ヨハン所見:片側端部が直線的。衣服が自然に裂けたものではなく、切断布の可能性。ただし未回収・初見所見。


 それから、布は慎重に回収された。


 枝ごと切らない。


 布に触れる箇所を最小限にして、布の巻き方を保ったまま外す。


 警備兵が布を持ち、エリオがすぐに保全袋へ入れる。


 その途中で、ヨハンが「あ」と声を漏らした。


「結び跡があります」


 布の中央寄りに、薄く折れた跡があった。


 完全な結び目ではない。


 だが、一度何かに巻いていたような癖がある。


 ディルクはそれを見て、低く言った。


「道しるべか」


 エリオがすぐに首を振りかけ、止まった。


 断定してはいけない。


 彼は慎重に記録した。


 灰色布片様のものに折れ癖あり。何かに巻かれていた可能性。道しるべ、荷包み紐、衣服端部等は未確認。


 ヨハンが周囲を見た。


「もし道しるべなら、他にもあるかもしれません」


 ディルクはすぐに指示した。


「周囲十歩。触らず見るだけ」


 案内人と警備兵が慎重に周囲を見た。


 すると、さらに少し先の枝に、同じような灰色の細い糸が引っかかっていた。


 布片ではない。


 糸。


 エリオは記録する。


 灰色布片様のものより先、徒歩約十五歩地点。枝に灰色糸様のものを視認。未回収。


 ヨハンは息を吐いた。


「これは外套が破れて残ったってより、何かを目印にした可能性が高くなりますね」


 ディルクが言う。


「高くなる、までだ」


「はい。断定しません」


 ヨハンは即答した。


 その返事が自然だったので、エリオは少しだけ感心した。


 北方旧所領の者たちは、この数日で本当に変わっている。


 見つけたものへ飛びつかない。


 言葉に札をつける。


 その面倒さが、少しずつ身体に染み始めていた。


 回収作業は昼前に終わった。


 無理に奥へは進まない。


 布片様のものと糸様のものを回収し、枝折れ箇所と道の状況を記録して戻る。


 帰路、ヨハンがぽつりと言った。


「これ、外套じゃないかもしれません」


 ディルクが答える。


「帳場で言え」


「はい」


「ここで言うと、森が聞く」


 ヨハンは一瞬きょとんとし、それから苦笑した。


「ディルクさんまで、噂を気にするようになりましたね」


「森に口はないが、人にはある」


「名言ですね」


「記録するな」


 エリオは、少し迷ってから内部控えには書かないことにした。


 帳場へ戻ると、待っていたガレスが一番に顔を上げた。


「どうでしたか」


 ヨハンはすぐに答えようとして、止まった。


 そして、ちゃんと言い直した。


「灰色布片様のものは回収しました。外套の切れ端とはまだ言えません。切った布、目印、荷包みの一部、いくつか可能性があります」


 ガレスは頷いた。


「はい」


 豆売りの女主人が横でにやりとする。


「よく訓練されてきたねえ」


 ヨハンは苦笑した。


「嬉しいような、怖いような」


 レティシアは回収物を長机に置かせた。


 まず、布片様のもの。


 灰色。

 幅は指三本ほど。

 長さは掌より少し長い。

 片側は直線的に切られている。

 もう片側はほつれている。

 中央に折れ癖。

 泥は少ない。

 樹皮の細かな屑がついている。


 マルタが少し顔を近づけた。


「衣服の匂いは薄いです」


 ルイスが書く。


 マルタ所見:衣服使用臭は薄い。樹皮、湿草、古布様の匂い。香油臭は現時点で明確ではない。


 ガレスが少し驚いた。


「香油はないんですか」


「明確ではありません」


 マルタは静かに答えた。


「もし香油をつけた外套から裂けた布なら、もう少し残る可能性があります。ただ、雨風で薄れた可能性もあります」


 ルイスが書く。


 香油臭なし、ではなく、明確ではない。雨風による消失可能性あり。


 ヨハンが布を見ながら言った。


「やっぱり、外套というより荷包み布に近いです。衣服ならもっと柔らかい。これは少し硬い」


 クラウスが手を上げた。


「商会の荷印布にも似ています。荷の口を縛った後、余りを切ることがあります」


 豆売りの女主人が言った。


「じゃあ、レオンの外套じゃない?」


 レティシアは答える。


「その可能性が弱まりました。ただし消えたわけではありません」


 ルイスが記録する。


 灰色布片様のもの、衣服片より荷包み布・目印布の可能性が相対的に強まる。ただし衣服由来可能性は排除せず。


 次に、灰色糸様のもの。


 これは布よりさらに弱い情報だった。


 短い糸。

 枝に絡んでいた。

 色は灰。

 布片様のものと似ているようにも見えるが、同じかはわからない。


 ルイスは慎重に書いた。


 灰色糸様のもの。布片様のものとの関連未確認。目印の残り、荷布のほつれ、自然付着の可能性。


 ガレスは、少し考え込んだ。


「もしこれが目印だとしたら、誰かが道を知っていたというより、誰かに道を示したってことですか」


 帳場が少し静まる。


 レティシアは頷いた。


「可能性はあります」


 クラウスも続けた。


「道を知る者が、道を知らない者を通すために布を付けた。あるいは、後から来る者へ場所を示した」


 ヨハンが言った。


「でも、目印にしては目立たないですね」


 豆売りの女主人が返す。


「目立たせすぎたら、他人にも見える」


「なるほど」


 ディルクが低く言う。


「知っている者だけが見つけられる程度の目印」


 ルイスが書く。


 目印仮説:道を知る者が道を知らない者、または後続者へ示した可能性。目立ちにくい位置・色。未確認。


 その言葉で、旧白蔦流通路の意味がまた少し変わった。


 通称レオンが自分で道を知っていたのか。

 誰かに道を示されたのか。

 誰かが後から追うために目印を残したのか。

 あるいは、まったく別の荷運びが残したのか。


 レティシアは地図の前に立った。


「布片様のものの位置を入れます」


 ルイスが仮照合図に新しい札を貼る。


 灰色布片様のもの回収地点。


 その十五歩先に、


 灰色糸様のもの回収地点。


 線はまだ点線。


 そこへ、ヨハンが言った。


「これ、一定間隔なら目印かもしれません。十五歩って微妙ですけど」


 ディルクがすぐに言う。


「明日、さらに奥を確認する」


 レティシアは頷いた。


「ただし、今日はここまで。回収物の比較が先です」


 比較対象は三つあった。


 一つは、南の村小箱を包んでいた保存布。

 二つ目は、未申告荷車にかかっていた古布。

 三つ目は、旧記録庫の保存布。


 布片様のものは、この三つのどれに近いのか。


 マルタとヨハン、クラウスが慎重に見比べる。


 結論は、すぐには出なかった。


 だが、初見では、小箱の保存布や旧記録庫の保存布とは違う。


 未申告荷車の古布に少し近い。


 ただし、それも織りの粗さが似ている程度。


 クラウスが言った。


「安価な荷包み布としては、よくある織りです」


 ヨハンも頷く。


「荷車屋や商会なら、どこでも使います」


 ガレスが肩を落とす。


「また、広がるやつですね」


 豆売りの女主人が言った。


「広がった時は、広がったって書くんだよ」


 ルイスが記録する。


 灰色布片様のもの、未申告荷車古布と織り粗さに一部類似。ただし安価な荷包み布として一般的。旧記録庫保存布・南の村小箱保存布とは初見で異なる可能性。断定不可。


 レティシアは、その記録を見て頷いた。


「重要なのは、外套線が弱まり、荷包み布または目印布線が出たことです」


 ガレスが復唱する。


「外套線が弱まった。でも、道を通った線は残る」


「ええ」


「布がレオンの服じゃなくても、誰かが道で使った可能性はある」


「そうです」


 ヨハンが頭をかいた。


「見つけた時は、完全に外套だと思いかけました」


 豆売りの女主人が笑う。


「思いかけで止まったなら上出来だよ」


 夕方、町向けの説明も作られた。


 内容は短い。


 北方古道の通行可能性確認を行い、道中で灰色布片様のものを保全しました。衣服片・商会物・事件関係物とは現時点で断定していません。白蔦会の活動を示すものではありません。


 ヨハンが読んで言った。


「ここまで書かないと駄目なんですね」


「書かないと、白蔦会の布って話になります」


 ルイスが答える。


 ガレスが真顔で言った。


「なりますね」


 豆売りの女主人も頷いた。


「なるね。絶対なる」


 レティシアは、王太子府向け報告にも同じ線を入れた。


 ロイエンが所見を書く。


 冬季木材道分岐先で灰色布片様のものおよび灰色糸様のものを保全。外套片とは断定不可。初見では衣服使用臭は薄く、荷包み布または目印布の可能性あり。未申告荷車古布との織り粗さ類似はあるが、一般的安価布の範囲を出ない。通称レオン外套との接続は現時点で弱い。旧白蔦流通路の通行可能性確認は継続するが、白蔦会活動証拠とはしない。


 クラウスはそれを見て言った。


「商会側にも送ります。灰鷹でも銀狐でもなく、一般荷布の可能性が高いと」


 レティシアは頷いた。


「一般荷布の可能性が高い、ではなく、一般荷布の範囲を出ない、がよいです」


 クラウスは少し驚いた顔をして、それから小さく笑った。


「確かに。商会に戻ると、私も言葉が雑になりますね」


 豆売りの女主人がすかさず言った。


「商人の病だよ」


「気をつけます」


 夜、帳場の追記には、灰色布片様のもののことが残された。


 レティシアは、地図の上に置かれた小さな回収物札を見ながら口述した。


 灰色の布は、外套ではなかったかもしれない。少なくとも、外套と決めるには早すぎた。枝に掛かった布は、衣服の切れ端にも、荷包みの端にも、目印にも見える。見え方は、こちらの欲しい答えで変わる。レオンを追いたい者には外套に見える。荷の道を追う者には荷布に見える。白蔦会を恐れる者には、何かの合図に見える。だから、まず布として置く。布は布である。そこから先は、比較と位置と時間が決める。


 ルイスは筆を置いた。


 灰色布片様のものは、答えではなかった。


 けれど、問いを変えた。


 レオンの外套を追うのではない。


 道に残された目印かもしれないものを追う。


 旧白蔦流通路は、少しずつ「噂の道」から「今も誰かが使える道」へ変わり始めていた。

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