第159話 鍵のない扉
鍵がない扉は、鍵がある扉より軽く見られる。
閉めてある。
掛け金がある。
普段は使わない。
だから大丈夫。
その「大丈夫」の下に、どれだけの隙間があるのか。
旧代官所西廊下の物置口を前にして、ガレスはそれを初めて実感していた。
扉は古かった。
木は乾き、端は少し反っている。金具には錆があり、掛け金はあるが、鍵穴はない。内側から掛ければ閉まる。外側からは、少し手を伸ばせば開けられそうにも見える。
そこに、鍵はない。
だから、鍵の台帳にも載っていなかった。
ルイスは扉の前で記録板を抱えたまま、苦い顔をしていた。
「鍵がないから、鍵管理に入っていなかったんですね」
ディルクが扉を見たまま答える。
「鍵がない扉ほど、管理が曖昧になる」
ヨハンが横から言った。
「荷車でもありますよ。丈夫な荷台より、ちょっとした紐で留めてるところの方が見落とされる」
豆売りの女主人が頷く。
「家もそうだね。立派な戸締まりより、勝手口の小さい掛け金が危ない」
ガレスは物置口の掛け金を見つめた。
勝手口。
その言葉がしっくり来た。
ここは、旧代官所の勝手口なのだ。
正面ではない。
正式な通路ではない。
でも、昔の誰かが便利だから作り、今の誰かが「ほとんど使わない」と思い込んでいた場所。
レティシアはその扉の前に立ち、ルイスへ言った。
「今日の表題は」
ルイスはすでに用意していた紙を開いた。
旧代官所西廊下物置口・出入管理確認
豆売りの女主人が目を細める。
「いいね。“侵入経路”とか書いてない」
「まだ経路とは決まっていませんから」
ルイスは答えた。
「ただの古い出入口かもしれません」
ロイエンが頷く。
「王都向けにも、その表題でよいと思います」
ディルクは、物置口の周囲を確認した。
「まず、扉の状態」
兵が一歩前へ出る。
ただし、触らない。
見える範囲で読み上げる。
「扉外側、古い擦れ多数。下部に新しい削れの可能性あり。掛け金、錆あり。ただし可動部分に一部光沢あり」
「光沢?」
ガレスが思わず聞いた。
ヨハンが近づき、目を細める。
「ここ、最近動いたかもしれませんね。錆が全部固まってる扉なら、掛け金の触れるところも赤茶けます。でも、ここだけ少し銀色が見えてる」
ルイスが書く。
物置口掛け金、全体に錆あり。ただし可動接触部に光沢あり。最近使用の可能性。ただし断定せず。
レティシアは扉を指差した。
「扉は誰が開けますか」
ディルクが兵を見る。
「私が」
「触れた箇所を記録します」
ルイスが言うと、兵は頷いた。
布を巻いた手で掛け金を上げる。
ぎ、と小さな音がした。
扉は、思ったより簡単に開いた。
重くはない。
固着もしていない。
ガレスはその音に、妙な寒気を覚えた。
「……開くんですね」
ヨハンが低く言う。
「普段使わないって聞くと、開かない気がするけどな」
「開かない扉と、使わない扉は違うわ」
レティシアが言った。
ルイスはその言葉を内部控えに入れようとして、少し迷った。
レティシアが横目で見て、静かに頷く。
「内部控えに」
「はい」
物置口の向こうは、小さな中庭だった。
中庭と呼ぶには狭い。
石畳がところどころ沈み、壁際には古い草が生えている。雨水を逃がす溝はあるが、一部は落ち葉で詰まっていた。
そこから、さらに細い道が二つに分かれている。
一つは旧代官所の裏手へ。
もう一つは、南側草地へ。
南側草地。
旧搬入口へ向かう方角だった。
ディルクの目が険しくなる。
「ここから草地へ出られるな」
ラウルが申し訳なさそうに言った。
「昔は、掃除道具を運ぶ時に使っていました。あと、雨の日に表を通りたくない時に」
「今は?」
「ほとんど使っていません」
その言葉に、帳場組の何人かが同時に反応した。
ほとんど。
このところ、もっとも信用しづらくなっている言葉だった。
ルイスは冷静に書く。
西廊下物置口より中庭へ接続。中庭から南側草地へ出る細道あり。ラウル証言、昔は掃除道具運搬等に使用。現在は“ほとんど使っていない”。使用記録なし。
豆売りの女主人が言う。
「ほとんど使ってない場所って、町にいくつあるんだろうね」
ヨハンが肩をすくめた。
「考えたくないです」
「考えなきゃ、また増えるよ」
「ですよねえ」
中庭の確認は慎重に行われた。
石畳の沈み。
壁際の草。
雨水溝の詰まり。
細道の幅。
物を運べるかどうか。
未申告荷車を通せるほど広くはない。
少なくとも、車輪付きの荷車は難しい。
しかし、小木箱や鍵、紙片、木札程度なら十分運べる。
ヨハンは通路の幅を見て言った。
「荷車は無理ですね。小型でも引っかかる。人ひとりなら通れます」
ディルクが頷く。
「つまり、未申告荷車そのものの経路ではなく、鍵や紙の移動に関わる可能性がある」
レティシアはすぐに言った。
「可能性です」
「わかっている」
ディルクは少し苦笑した。
「最近、言われる前に頭に浮かぶ」
「よいことです」
ロイエンが横から言った。
「王都の兵にも覚えさせたいですね」
中庭の壁際に、小さな白い粉の筋があった。
漆喰の剥がれた西廊下と似ている。
ラウルが見て、少し首を傾げた。
「ここも壁が弱っています」
マルタが少し匂いを確かめる。
「昨日の西廊下の粉と近いです」
ルイスが記録する。
中庭壁際、白色粉様堆積あり。西廊下漆喰埃と類似可能性。備品棚扉内側粉との比較対象追加。
ガレスが言った。
「備品棚の粉が、石材置き場じゃなくて、この西廊下や中庭から来たなら……」
「石材置き場と備品棚を直接つなぐ線は弱くなる」
ルイスが続けた。
「でも、西廊下物置口を誰かが使った線は残る」
ガレスは頷いた。
線は消えない。
形が変わる。
それを最近、少しわかってきた。
中庭から南側草地へ出る細道には、古い落ち葉が溜まっていた。
ただ、その中央部分だけ少し踏み固められているように見える。
ディルクが膝をついた。
「最近通ったか」
兵が確認する。
「断定は難しいです。風で落ち葉が寄った可能性もあります」
ヨハンが足元を見て言う。
「人が一人、何度か通ったくらいなら、こんな感じになりますね。荷車ではないです」
ルイスが書く。
中庭から南側草地への細道、中央部に踏み固め様の箇所あり。ただし風雨・落ち葉移動の可能性あり。人の通行可能性。荷車通行は困難。
豆売りの女主人が低く言う。
「荷車は石材置き場。鍵や紙はこっち。そんな分け方もあるのかい」
その言葉に、場が少し静かになった。
物の移動が、二つに分かれる可能性。
未申告荷車そのものは、北門脇石材置き場から南側草地へ。
第三鍵や旧式貸出控えは、旧代官所の西廊下物置口から動いたかもしれない。
同じ事件に見えて、物ごとに別の道がある。
レティシアは地図を見つめた。
「その可能性はあります。ただし、まだ分けた線として保留です」
ルイスが書く。
物別経路候補。
未申告荷車:北門脇石材置き場経由の可能性。
第三鍵・旧式貸出控え等:旧代官所西廊下物置口経由の可能性。
ただし未確認。物別経路として保留。
ロイエンが静かに言った。
「物ごとに道が違う。王都の調査でも忘れがちです」
ディルクも頷いた。
「全部同じ犯行経路と見たくなる」
「でも、違うかもしれない」
ガレスが言った。
「はい」
ルイスが答える。
「一つの荷車に載って見つかったからといって、全部が同じ場所から来たとは限りません」
そう言った瞬間、ルイス自身も少し驚いた。
以前なら、彼はそう考えただろうか。
未申告荷車に載っていた物は、全部一緒に動いた。
そう思っていたかもしれない。
だが、今は違う。
木札は別の場所で作られたかもしれない。
古い紙片は別の場所で取られたかもしれない。
荷車は別の場所から運ばれたかもしれない。
鍵はさらに別の時期に抜かれたかもしれない。
同じ荷車に載った時点で一つの事件になっただけで、その前の道はひとつとは限らない。
午後、帳場に戻ると、物の移動図はさらに複雑になった。
レティシアは、図を二段に分けるよう指示した。
上段は「荷車の移動」。
下段は「荷車に載った物の移動」。
ヨハンがそれを見て呻いた。
「頭が痛くなる図ですね」
豆売りの女主人が言う。
「でも、こうしないと全部ごちゃ混ぜになるんだろ」
「そうです」
ルイスが答える。
「荷車の道と、中身の道を分けます」
ガレスは図を見ながら言った。
「正式荷と未申告荷車を分けた時と同じですね」
レティシアは頷いた。
「ええ。今度は、未申告荷車の中でも分ける」
「どんどん細かくなりますね」
「細かくしないと、誰かの置いた形をそのまま信じることになります」
その言葉に、帳場が静かになった。
誰かの置いた形。
白蔦状類似印。
焼損帳簿断片。
古い紙片。
荷車。
それらは、ひとまとめに見えるよう置かれていた。
だから、ひとまとめにしない。
それが、北方旧所領の反撃だった。
ルイスは図の下に新しい注記を書いた。
発見時に同じ荷車内にあったことは、同じ経路・同じ時期・同じ人物により集められたことを意味しない。
ロイエンが、その一文を見て深く頷いた。
「これは王都へ必ず送ります」
豆売りの女主人が笑った。
「また王都が嫌な顔をするよ」
「するでしょうね」
ロイエンは苦笑した。
「ですが、必要です」
その日のうちに、西廊下物置口の使用者確認も始まった。
といっても、記録はほとんどなかった。
掃除係。
ラウル。
昔の修繕係。
たまに庭の落ち葉を片づける少年たち。
そして、帳場の誰かが古い備品を探す時。
「誰でも少しだけ使っていた」場所。
それが、また出てきた。
ルイスは、少しうんざりしたように言った。
「こういう場所、多すぎませんか」
豆売りの女主人が答える。
「町ってのは、そういう“ちょっとだけ”でできてるんだよ」
「ちょっとだけ、が記録に残らない」
「そう。便利だからね」
レティシアは頷いた。
「便利さと記録の間を決める必要があります」
ディルクが問う。
「全部記録するか」
「無理です」
レティシアは即答した。
「だから、危険度で分けます。鍵や備品がある場所。外へ抜けられる場所。正式荷の動線に近い場所。そういう場所は簡易記録をつける」
ルイスが書く。
鍵なし出入口管理案。
一、外部へ抜けられる扉。
二、備品・鍵・旧記録へ近い扉。
三、正式荷動線に近い扉。
以上は簡易使用記録対象。
日常出入口は対象外。ただし異常時は追加確認。
ガレスが少し安心したように言った。
「全部じゃないんですね」
「全部にすると、誰も書けなくなります」
レティシアは答えた。
「書けない手順は、ないのと同じです」
ロイエンが小さく笑った。
「これも王都へ送りたい」
「送ってください」
ルイスが珍しく即答したので、ロイエンは少し驚いた顔をした。
「最近、王都へ送ることに積極的ですね」
「必要なところへ行くなら、送った方がいいと思うようになりました」
ルイスは少し照れながら言った。
「ただし、表題は慎重にお願いします」
「もちろんです」
夕方、旧代官所内の出入口一覧が作られた。
正面玄関。
帳場横通用口。
西廊下物置口。
中庭口。
旧記録庫裏扉。
壊れて使っていない北側小扉。
そして、旧搬入口方面へつながる外庭通路。
使っている扉。
ほとんど使っていない扉。
使えないと思われている扉。
開けようと思えば開く扉。
それらが一覧になった時、ガレスはぽつりと言った。
「旧代官所って、穴だらけですね」
ディルクが苦い顔をした。
「建物が古いというのは、こういうことだ」
ラウルは責任を感じているようだったが、レティシアは彼に言った。
「これは修繕だけの話ではありません。運用の話です」
「はい」
「建物をすぐ新しくはできない。でも、どこが開くかは見えるようにできる」
ラウルは、その言葉に救われたように頷いた。
「一覧を作ります」
「お願いします」
夜、王太子府へ送る報告には、かなり長い要旨がついた。
ロイエンは最後まで書いてから、ため息をついた。
「長い」
ルイスが答える。
「短くすると危険です」
「私の台詞を取られました」
「すみません」
「いいえ。正しいです」
報告の表題はこうなった。
旧代官所西廊下物置口および鍵なし出入口に関する追加確認
白蔦も、未申告荷車も、鍵盗難も表題にはない。
中身にはすべて出てくる。
だが、表題では走らせない。
ロイエンの所見には、こうある。
旧代官所西廊下物置口の確認により、備品棚白色粉様付着物は石材置き場由来と断定できず、西廊下または中庭の漆喰埃由来の可能性が出た。また、未申告荷車そのものの経路と、荷車内発見物の経路を分ける必要がある。発見時に同じ荷車内にあったことは、同一経路・同一時期・同一人物を意味しない。北方旧所領側は、物別経路図を作成し、疑惑の一括化を避けている。
レティシアはそれを読んで頷いた。
「よいと思います」
ロイエンは、少しだけ笑った。
「今日は記録しておきます」
「不要です」
「わかっています」
夜の追記は、物別経路図の下で行われた。
レティシアは、実線と点線と保留線の混じった図を見ながら口述した。
同じ荷車に載っていたからといって、同じ道を来たとは限らない。同じ日に見つかったからといって、同じ日に集められたとは限らない。同じ者がすべてを動かしたとも限らない。人は、発見された形をそのまま物語にしたがる。だが、置かれた形は、置いた者の都合で作られていることがある。荷車の道と、中身の道を分ける。鍵の道と、紙の道を分ける。分けるたびに図は複雑になるが、複雑さを嫌って一つにまとめれば、罠の形をそのまま飲み込むことになる。
ルイスは、最後の一文を書き終え、壁の図を見た。
複雑だ。
面倒だ。
けれど、昨日より少しだけ正直な図になっている。
鍵のない扉は、まだそこにある。
だが、もう「ほとんど使わない扉」ではない。
名前を得た扉になった。
それだけで、誰かが次にそこを使う時、少しだけ足音が大きくなる。




