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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第158話 物の移動図

 人の名前を書かない地図は、思ったよりも不気味だった。


 帳場の壁に貼られた大きな紙には、誰の名もない。


 あるのは、物の名だけだった。


 第三鍵。

 小木箱。

 旧式貸出控え。

 白色粉様付着物。

 木屑。

 未申告荷車。

 石材置き場奥倉庫。

 旧代官所備品棚。


 それぞれが細い線で結ばれている。


 ただし、線はすべて薄い。


 確定ではない。


 可能性の線。


 ルイスは、その薄い線を見るたびに、胸の奥が少しだけざわついた。


 人の名前がないのに、誰かの手だけが見える気がする。


 小木箱を動かした手。

 鍵を抜いたかもしれない手。

 旧式貸出控えに何かを書いた手。

 石材置き場で荷車を隠したかもしれない手。

 未申告荷車に白蔦状の印を描いた木札を載せた手。


 けれど、まだ名前はない。


 名前を急がないために、この地図は人ではなく物から始めている。


 ガレスは壁の前に立ち、首を傾げた。


「人の名前がないのに、なんか怖いですね」


 ヨハンが隣で腕を組む。


「物だけでも、動いた跡があるからな」


「動いた物って、誰かが動かしたってことですよね」


「そうとは限らないぞ。落ちた、ずれた、片づけられた、間違えて戻された。荷車だって勝手に転がることはある」


「でも、鍵は勝手に歩きませんよね」


「それはそう」


 ヨハンは少し顔をしかめた。


「鍵が歩いたら、俺は荷車屋を辞めます」


「なぜ荷車屋を」


「怖いだろ、鍵が歩く世界」


 豆売りの女主人が露店の準備をしながら口を挟んだ。


「鍵が歩かなくても、人が鍵を歩かせるんだよ」


 その一言で、軽い笑いが止まった。


 女主人は悪びれずに豆袋を結んだ。


「だから、誰が歩かせたかを急がずに、どこを歩いたかを見るんだろ」


 ルイスは、思わずその言葉を書きそうになった。


 レティシアが横から言う。


「内部控えに」


「はい」


 いつものやり取りだった。


 だが、今日の内部控えは、どこか重かった。


 最初に行うのは、白色粉様付着物の比較だった。


 昨日、旧代官所備品棚の扉内側から採取された白い粉。


 石材置き場にあった石灰袋の粉。


 未申告荷車の車輪泥に混ざっていた白っぽい粉。


 それらを並べる。


 小袋にはそれぞれ札がついている。


 備品棚扉内側。

 石材置き場石灰袋付近。

 未申告荷車車輪泥内白色粉。


 ガレスがそれを見て、少しだけ笑った。


「粉にも名前がある……」


「名前というより、場所です」


 ルイスが答えた。


「場所を間違えると、意味が変わります」


「はい」


 ガレスは素直に頷いた。


 彼は最近、こういう説明に反発しなくなった。


 むしろ、わからない時は聞くようになった。


 それだけでも、帳場の空気は少し変わったと思う。


 マルタが、白い粉の小袋を順に見た。


 彼女は料理人であって、粉の専門家ではない。


 だが、粉を見る目は誰よりも慣れていた。


 小麦粉、豆粉、灰、塩、砂糖、石粉。


 粉は粉でも、手触りも匂いも違う。


「まず申し上げますが、私の所見は確定ではございません」


 マルタは最初にそう言った。


 ルイスが書く。


 マルタ所見:感覚所見。確定ではない。


 マルタはわずかに頷き、石材置き場の粉へ顔を近づけた。


「こちらは乾いております。匂いは強くありませんが、石灰袋の粉として自然です」


 次に、未申告荷車の車輪泥。


「こちらは土と混ざっておりますが、石材置き場の粉に近い匂いがあります。ただ、少し湿った泥の匂いが強いです」


 最後に、備品棚扉内側の粉。


 マルタは、そこで少しだけ眉を寄せた。


「これは……少し違います」


 場が静まった。


 ディルクが問う。


「違う?」


「石材置き場の粉に似たものはあります。ですが、それだけではありません。古い壁土か、乾いた漆喰のような匂いが混じっています」


「漆喰」


 ルイスが書く手を止めた。


 ロイエンも顔を上げる。


 マルタは続けた。


「石材置き場の石灰袋から直接ついた粉なら、もっと単純な匂いになると思います。備品棚の扉の粉は、古い壁や天井の埃が混じったように感じます」


 ヨハンが腕を組んだ。


「じゃあ、石材置き場から来たとは言い切れない?」


「言い切れません」


 マルタは即答した。


 ガレスが言う。


「でも、似てはいる?」


「似てはおります」


 豆売りの女主人が低く笑った。


「また、似ているけど同じじゃないやつだね」


 ルイスは慎重に書いた。


 白色粉様付着物比較。

 石材置き場石灰袋付近粉と未申告荷車車輪泥内白色粉には類似あり。

 備品棚扉内側粉は石灰様成分に加え、古い壁土または漆喰埃に類似する匂いあり。

 石材置き場由来とは断定不可。別由来または混合の可能性。


 ディルクは腕を組んだまま、壁の物の移動図を見た。


「備品棚の白い粉は、石材置き場から来た線を弱めるのか」


「弱めるというより、別の線が出ました」


 レティシアは答えた。


「古い壁土か漆喰埃が多い場所」


 ルイスは言いながら、旧代官所の見取り図を引き寄せた。


 旧代官所には、そういう場所が多い。


 古い建物だ。


 壁も天井も、白い埃を出す場所はある。


 しかし、備品棚の扉内側の低い位置に付いた粉。


 ただ歩いただけではつきにくい。


 何かが扉の内側に当たったか、粉のついた手や物が触れたか。


 ラウルが、控えめに手を上げた。


「旧代官所の西廊下の壁、最近少し剥がれています」


 全員が彼を見る。


 ラウルは少し緊張した顔で続けた。


「備品棚へ行く途中ではありません。ですが、裏から回れば通れます。古い測量棒や板を運ぶ時に、あの廊下を通ることがあります」


 ルイスが見取り図を見る。


 旧代官所西廊下。


 備品棚のある部屋から少し離れている。


 通常の帳場動線では使わない。


 だが、裏手から入るなら使える。


 ガレスが小さく言った。


「また、普段使わない道……」


「そうね」


 レティシアは頷いた。


「見る場所に加えましょう」


 ヨハンが呻いた。


「どんどん増えるな」


 豆売りの女主人が言う。


「増やしっぱなしにしないで、あとで減らすんだよ」


「未確認札の解除条件ですね」


 ガレスが即座に答えると、女主人は満足そうに頷いた。


「覚えてるじゃないか」


 調査は西廊下へ移った。


 旧代官所の西側は、普段あまり使われていない。


 窓が小さく、昼でも薄暗い。壁の漆喰はところどころ剥がれ、柱の根元には古い埃が溜まっている。


 荷を運ぶには向いていない。


 ただ、誰かに見られずに通るには向いている。


 ディルクは壁を見た。


「ここか」


 ラウルが頷く。


「はい。このあたりです」


 壁の下部が少し剥がれていた。


 触れれば白い粉がつく。


 ルイスは採取前に記録する。


 旧代官所西廊下壁下部、漆喰剥離あり。白色粉発生。備品棚扉内側粉との比較対象として採取。


 マルタが少し匂いを確認する。


「備品棚の粉に近いです」


 ロイエンが低く言った。


「つまり、備品棚の粉は石材置き場ではなく、西廊下由来の可能性がある」


 レティシアはすぐに言った。


「可能性です」


「はい。可能性」


 ロイエンは訂正するように頷いた。


 西廊下の床を調べると、薄い擦れ跡がいくつかあった。


 古いものが多い。


 だが、その中に一つだけ、比較的新しい線があった。


 幅は狭い。


 荷車の車輪跡ではない。


 木箱か、棒の束を壁際に擦ったような跡。


 ヨハンがしゃがみ込む。


「小木箱を持って通ったくらいでは、こんな跡はつかないですね」


「では、何だ」


 ディルクが問う。


「少し長いもの。板か、棒か、箱を斜めに抱えたか」


 ラウルが眉を寄せた。


「古い測量棒かもしれません。備品棚に入っていた長い棒を、前に西廊下へ運んだことがあります」


「いつ?」


「……去年です」


 ルイスは記録する。


 西廊下擦れ跡。新旧不明。ラウル所見、古い測量棒等の運搬跡の可能性あり。去年運搬記憶あり。今回件との関連未確認。


 ガレスが少し悔しそうに言った。


「また弱くなりましたね」


「弱くなるのも仕事」


 ヨハンが言う。


 ガレスは頷いた。


 西廊下から備品棚へ直接入れる裏口はなかった。


 しかし、西廊下の奥には小さな物置があり、そこから中庭へ出られる扉があった。


 扉の掛け金は古い。


 普段は閉めているはずだが、鍵はかかっていない。


 ディルクの表情が険しくなる。


「ここも出入り可能なのか」


 ラウルが申し訳なさそうに答える。


「昔は、掃除の時に使っていました。今はほとんど」


「ほとんど」


 ディルクはその言葉を反芻した。


 ほとんど使わない。


 だから記録がない。


 だから誰かが使ってもわかりにくい。


 レティシアはルイスへ言った。


「旧代官所西廊下物置口も、確認対象へ」


「はい」


 ルイスは書く。


 旧代官所西廊下物置口。普段使用少。掛け金あり、鍵なし。中庭へ接続。出入記録なし。確認対象追加。


 ロイエンがため息まじりに言った。


「古い建物は、抜け道の束ですね」


 豆売りの女主人が返す。


「古い町も同じだよ。便利だった頃の道が、そのまま残ってる」


「便利な道は、時に危険な道になる」


 レティシアが言うと、女主人は頷いた。


「それも内部控えだね」


「ええ」


 帳場に戻る頃には、物の移動図はまた少し変わっていた。


 石材置き場の粉。

 備品棚の粉。

 西廊下の漆喰。

 西廊下物置口。

 中庭。

 備品棚。


 線が増える。


 ただし、線の太さは変わる。


 備品棚の粉が石材置き場から直接来た線は弱まった。

 西廊下由来の線が加わった。

 石材置き場と未申告荷車の泥の線は残った。

 第三鍵と備品棚の線も残った。


 ルイスは、頭を抱えたくなった。


「増えたり弱くなったりで、もう……」


 豆売りの女主人が笑う。


「もやもや札の出番だね」


「正式には未確定整理中です」


 ガレスが言った。


 ヨハンが吹き出す。


「定着してる」


 レティシアは壁の図を見ていた。


「今日は、線の整理をしましょう」


 彼女は、薄い線のいくつかを点線に変えさせた。


 備品棚粉=石材置き場由来。


 これは点線へ。


 備品棚粉=西廊下漆喰由来。


 これも点線。


 未申告荷車車輪泥=石材置き場由来。


 これはまだ薄い実線。


 第三鍵=備品棚所在不明。


 これは実線。


 旧式貸出控え=古い様式に新しい筆跡。


 これも実線。


 ガレスはそれを見ながら言った。


「線にも種類があるんですね」


「ええ」


 ルイスが答える。


「実線、点線、保留線」


「保留線?」


「今考えました」


 ヨハンが笑った。


「また新しい帳場語が生まれた」


 レティシアは少しだけ考えてから言った。


「正式名称は、確度別接続線にしましょう」


 豆売りの女主人が即座に顔をしかめた。


「町向けには絶対通じないね」


「町向けには、太い線、薄い線、まだわからない線でいいでしょう」


「それでいいよ」


 ロイエンは、王都向け所見を作りながら言った。


「王都向けには、確度別接続線でよいと思います」


「王都も大変だねえ」


 豆売りの女主人が本気で同情したように言った。


 午後、鍵管理新手順案の見直しも行われた。


 第三鍵の所在不明だけでなく、西廊下物置口のような鍵なし出入口が見つかったためだ。


 ルイスは新手順案に項目を追加した。


 鍵管理に加え、鍵なし出入口の管理を行う。

 普段使用しない扉・物置口・裏口を一覧化。

 使用頻度、掛け金、鍵の有無、出入記録の有無を確認。

 “ほとんど使わない”場所ほど、年二回の確認対象とする。


 ディルクはそれを見て、低く言った。


「警備の仕事が増えるな」


「はい」


 レティシアは認めた。


「ただ、すべてを常時見張るわけではありません。確認周期を決めます」


「周期があれば、見ていないことを見ていないと認められる」


 ルイスが言う。


 レティシアは頷いた。


「ええ。見ていない場所を、見たふりしないために」


 ガレスはその言葉を覚えておこうと思った。


 見ていない場所を、見たふりしない。


 それは、自分にとってとても大事な言葉だった。


 夕方、王太子府へ送る追加報告が整えられた。


 ロイエンは所見にこう書いた。


 備品棚扉内側の白色粉様付着物は、石材置き場由来と断定できず、旧代官所西廊下の漆喰埃との類似可能性が出た。これにより、備品棚と石材置き場を直接つなぐ線は弱まった一方、旧代官所内の鍵なし出入口および普段使用しない通路の管理不備が確認された。北方旧所領側は、人名疑惑へ進む前に、物と場所の接続線を確度別に整理中。


 彼は書き終えた後、少しだけ笑った。


「確度別接続線。王都の補佐官室が嫌な顔をしそうです」


 ルイスが聞く。


「使わない方がいいですか」


「いえ。嫌な顔をしながら、きっと使います」


 その言葉に、帳場に小さな笑いが起きた。


 夜、レティシアは物の移動図を見ながら追記を口述した。


 線は、増えるだけではない。強くなる線もあれば、弱くなる線もある。備品棚の白い粉は、石材置き場へ向かう線を弱め、西廊下の古い壁へ別の線を伸ばした。弱まることは失敗ではない。間違った道を太くしないための前進である。物は語るが、ひとつの物だけで話を終わらせてはならない。土、粉、箱、鍵、扉。それぞれの小さな声を重ね、強い声に見えるものほど、いったん細く描く。


 ルイスは、最後の一文を書き終えた。


 壁の物の移動図には、実線と点線と保留線が混じっている。


 見れば見るほど、まだわからないことだらけだった。


 だが、昨日より少しだけ、わからなさの形が見えている。


 それは、答えではない。


 けれど、答えに飛びつかないための足場だった。

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