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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第156話 ミケルへ送る紙

ミケルの名が出た翌朝、帳場は妙に静かだった。


 誰も大声を出さない。

 誰も「怪しい」とは言わない。


 だが、紙の上に人の名が載ったことを、全員が意識していた。


 旧帳場補助員ミケル。


 半年前、石材置き場奥倉庫の第三鍵を棚卸し確認した者。

 その後、家の事情で南の村へ帰った者。


 それだけだ。


 それだけなのに、名前には重さがある。


 ガレスは長机の端で、昨日の記録を見つめていた。


 ミケル名は棚卸し確認者としての記録であり、関与を意味しない。


 何度読んでも、その一文に少し安心する。


 けれど同時に、こうも思ってしまう。


 では、なぜその名がここにあるのか。


 ヨハンが隣で小声を出した。


「顔が重いぞ」


「重くもなりますよ。人の名前ですから」


「まあな」


 ヨハンも茶化さなかった。


 豆売りの女主人は、腕を組んで長机を見ていた。


「こういう時、町は早いよ」


「何がですか」


 ガレスが聞く。


「“いなくなったやつが怪しい”って言い出すのがさ」


 帳場の空気が、少し硬くなった。


 ロイエンが静かに頷く。


「王都でも同じです」


「でしょうね」


「不在の者は、便利な疑い先になります」


 レティシアは、机の中央に新しい紙を置いた。


 表題は、すでに決めてある。


 旧帳場補助員ミケルへの照会文案


 ガレスが思わず言った。


「呼び出すんじゃないんですか」


「まだ呼び出しません」


 レティシアは答えた。


「まず照会です」


「照会……」


「記憶の範囲で答えてもらう。責める文ではなく、確認する文です」


 ルイスが筆を取った。


「文面、読みます」


 彼は少し緊張した声で読み上げた。


 ミケル殿

 北方旧所領帳場より確認をお願いいたします。

 半年前の備品棚卸し記録に、石材置き場奥倉庫第三鍵の確認者として貴殿の名が残っています。現在、当該第三鍵の所在確認を行っております。これは、貴殿の関与を問うものではなく、当時の確認状況を把握するための照会です。

 覚えている範囲で、以下をご回答ください。

 一、棚卸し時、第三鍵をどこで確認したか。

 二、確認時に立ち会った者。

 三、鍵の保管箱・備品棚の状態。

 四、旧式貸出控えを使用した記憶の有無。

 五、退任時の引き継ぎで、鍵について申し送ったことの有無。

 不明、記憶なし、も回答として扱います。


 読み終えると、帳場に短い沈黙が落ちた。


 豆売りの女主人が言った。


「悪くないね」


 ヨハンも頷く。


「“関与を問うものではなく”って最初の方にあるのがいい」


 ガレスは、まだ少し不安そうだった。


「でも、本人がこれを読んだら怖くないですか」


「怖いと思うわ」


 レティシアは正直に言った。


「だから、怖くない文にはできません。でも、責めていないことは明確にします」


 ロイエンが文面を見ながら言う。


「王都なら、この一文を最後に置くかもしれません。“関与を問うものではない”と」


「最後では遅いですね」


 ルイスが言った。


「読み始めた時点で、人は身構えますから」


 ロイエンは、少しだけ笑った。


「その通りです」


 ディルクが腕を組んだ。


「使者は?」


「通常使者ではなく、帳場照会として送ります」


 レティシアは答えた。


「兵をつけすぎると、呼び出しに見えます」


「一人で行かせるのは危険だ」


「では、文書使い一名、護衛一名。ただし村では武装を見せすぎない」


 ルイスが書く。


 ミケル照会使者:文書使い一名、護衛一名。村内では照会文として扱い、連行・召喚と見える行動を避ける。


 豆売りの女主人が大きく頷いた。


「そこ大事だよ。村で“兵が来た”なんて話になったら、それだけで疑われる」


「ええ」


 レティシアは頷いた。


「だから、照会です」


 ミケルへの文書を整える一方で、帳場では過去の退任記録も確認された。


 ミケルの退任理由。


 母親の病気。

 南の村の家業手伝い。

 退任前に二週間の引き継ぎ。

 未処理書類なし。

 貸出備品の返却確認あり。


 ルイスは記録を読み上げながら、少し眉を寄せた。


「退任時の評は、悪くありません。遅筆だが丁寧。数字の転記ミス少。備品管理は慎重……」


 ガレスが小さく言った。


「いい人そうですね」


 豆売りの女主人がすぐに言う。


「いい人そう、も危ないよ」


「え?」


「いい人そうだから違う、も、悪そうだから怪しい、も、どっちも雑だ」


 ガレスは、はっとして頷いた。


「はい」


 ルイスは記録へ加える。


 人物評は参考情報。関与有無の判断材料として単独使用しない。


 ヨハンが苦笑する。


「人柄にも札か」


「人柄ほど札がいるのよ」


 レティシアは静かに言った。


「よい評判も、悪い評判も、人を見誤らせます」


 ロイエンは、その言葉を重く受け止めたようだった。


「王都では、評判が証拠のふりをします」


「ここでもします」


 豆売りの女主人が返す。


「田舎だからって油断しちゃいけない。狭い町ほど、評判は足が速いよ」


 その通りだった。


 だから、ミケルの名を町へ出さないことも決まった。


 町代表者会議で共有する内容は、こうする。


 石材置き場第三鍵の所在確認を継続中。

 過去の棚卸し記録を照会中。

 個人名は現段階で共有しない。

 噂として個人名が出た場合、噂由来情報として扱う。


 ガレスは少し迷ってから聞いた。


「名前を隠すことになりませんか」


 レティシアはすぐには答えなかった。


 大事な問いだった。


「隠すのではなく、まだ共有する段階ではないと整理します」


「どう違うんですか」


「正式に関係が確認された情報を出さないなら隠蔽になる。でも、関与を意味しない棚卸し確認者の名前を町へ出せば、その人を守れない」


 ロイエンが補足した。


「王都では、その境目を間違えると、すぐ“隠している”と言われます」


 豆売りの女主人が言った。


「でも出したら出したで、“あいつが怪しい”ってなる」


「だから、共有範囲を書く」


 ルイスが筆を走らせた。


 個人名共有方針:関与を示す情報ではないため、町向け共有では個人名を出さない。王太子府・王立書庫・必要な関係者へは照会対象として共有。隠蔽ではなく、噂化防止のための範囲設定。


 ガレスはその文を見て、ゆっくり頷いた。


「範囲設定……」


 ヨハンが肩をすくめる。


「また新しい言葉だな」


 豆売りの女主人が笑った。


「でも、これは覚えた方がいいね。話す範囲を決めないと、話が勝手に荷車へ乗って出ていく」


 午前の終わり頃、旧式貸出控えの束がもう一度確認された。


 ルイスは古い紙を一枚ずつめくりながら、様式の違いを見比べていた。


 古い控えは、かなり雑だった。


 日付。

 品名。

 借用者。

 返却欄。

 確認者。


 それだけ。


 今の台帳と比べると、あまりに軽い。


「昔はこれで済んでいたんですね」


 ルイスが言うと、ラウルが苦い顔で答えた。


「昔は、使う人間も少なかったからな」


「でも、今は増えている」


「町も大きくなった。荷も増えた。人も増えた。なのに、古い場所は古いままだった」


 その言葉に、レティシアは少しだけ目を伏せた。


 今回の問題は、白蔦状類似印だけではない。


 未申告荷車だけでもない。


 町が変わったのに、古い管理が残っていた場所。


 そこを誰かが使った。


 ルイスは、古い貸出控えの束の端を見て、首を傾げた。


「これ……枚数が合いません」


 空気が変わった。


 ディルクが問う。


「どういうことだ」


「備品棚目録では、旧式貸出控え残数は三十枚とあります。でも、ここにあるのは二十七枚です」


 ガレスが息を呑む。


「三枚足りない」


 ルイスはすぐに首を振った。


「いえ、目録自体が古いので、途中で使われた可能性もあります。足りないとはまだ言えません」


 豆売りの女主人が感心したように頷いた。


「よく踏みとどまったね」


 ルイスは少し赤くなった。


「危なかったです」


 レティシアは静かに言った。


「残数差異として記録しましょう」


 旧式貸出控え束、目録残数三十枚、現物二十七枚。三枚差異。ただし目録更新時期不明。過去使用・紛失・持ち出し等は未確認。残数差異として扱う。


 ロイエンは、その文を見て低く言った。


「もし誰かが古い様式を使って偽装したなら、紙片は一枚とは限らない」


「ええ」


 レティシアは頷いた。


「残りの二枚があるかもしれません」


 帳場の中が静まり返った。


 白蔦状類似印を描いた木札。

 古く見せた紙片。

 貸出控えらしき断片。

 旧式控えの残数差異。


 誰かが古いものに見せる材料を集めていた可能性。


 ただし、まだ可能性。


 飛びつかない。


 しかし、軽くも見ない。


 ディルクは言った。


「旧式控え束も仮保全か」


 レティシアは少し考えた。


「全束を仮保全します。ただし、業務影響はありません。現在使っていない様式です」


 ルイスが書く。


 旧式貸出控え束、残数差異あり。現行業務では使用なし。全束仮保全。今後の比較対象とする。


 ラウルは、ぼそりと呟いた。


「古い紙なんて、誰も気にしてなかった」


 豆売りの女主人が言った。


「気にしてないものほど、使われるんだよ」


 その言葉は、帳場の全員に重く落ちた。


 午後、町代表者向けの共有が行われた。


 レティシアは個人名を出さず、こう説明した。


「石材置き場の第三鍵について、所在確認を続けています。鍵は三本あるはずで、そのうち一本が所定の箱にありませんでした。現時点で、盗難、紛失、持ち出しとは断定しません」


 町人たちはざわついた。


 鍵がない。


 その言葉だけで十分だった。


 豆売りの女主人が、すぐに声を上げた。


「盗まれたって決まったわけじゃないよ。今そういう顔した人、札をつけな」


 何人かが気まずそうに顔をそらした。


 ヨハンが続ける。


「石材置き場に出入りできた人の確認をしてます。でも、出入りできたってだけでやったって意味じゃないです」


 ガレスも、少し震えながら言った。


「あと、個人名が噂で出たら、帳場へ知らせてください。噂として扱います。広げないでください」


 彼がそう言うと、場が少しだけ静かになった。


 ガレスが町人へ説明している。


 その事実に、ルイスは少し胸が熱くなった。


 呼び鈴係長などと茶化されていた彼が、今は噂を止める側に立っている。


 人は、紙へ戻るうちに変わるのかもしれない。


 夕方、ミケルへの照会文が封じられた。


 封筒には大きく、


 確認照会。召喚ではありません。


 と添え紙がつけられた。


 ヨハンがそれを見て言った。


「ここまで書くんですね」


 レティシアは頷いた。


「村で封筒を見た人が、誤解しないように」


 ロイエンが感心したように言う。


「封筒にも札ですね」


「ええ」


 豆売りの女主人が笑った。


「ついに封筒まで喋るようになったか」


 ルイスは、少しだけ笑いながら記録した。


 ミケル照会文、召喚ではない旨を封筒添え紙にも明記。村内噂化防止。


 文書使いは、護衛一名とともに南の村へ向かった。


 その背を見送る時、ガレスは小さく言った。


「返事、来ますかね」


「来るわ」


 レティシアは答えた。


「ただし、望む答えとは限らない」


「はい」


「記憶なし、でも答えです」


「……はい」


 夜、帳場には少し冷えた空気が流れていた。


 第三鍵は見つかっていない。

 貸出控えの筆跡も特定できない。

 旧式控えの残数差異が出た。

 ミケルへ照会文を送った。


 進んだようで、また謎が増えた。


 ルイスは疲れた顔で筆を持った。


 レティシアは、仮保全された旧式貸出控え束を見ながら口述した。


 古い紙は、忘れられていた。忘れられた紙は、誰かにとって使いやすい紙になる。今の台帳に残したくない者、古い貸出に見せたい者、ただそこにあった紙を使った者。理由はまだわからない。ミケルの名も、鍵の空箱も、返却という断片も、どれも答えではない。答えではないものを答えにしないために、照会文にも札をつける。召喚ではない。確認である。


 ルイスは、最後の一文字を書いて筆を置いた。


 南の村へ向かった文書使いは、今頃どのあたりだろう。


 ミケルは、封筒を受け取った時、何を思うだろう。


 責められていると思うか。

 怖がるか。

 覚えていることを答えてくれるか。

 それとも、本当に何も覚えていないか。


 まだ、わからない。


 だが、わからないまま責めることだけはしなかった。


 それが今日、帳場にできた最も大事なことだった。

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