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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第155話 返されたはずの鍵

 第三鍵が消えた。


 そう言ってしまえば、話は簡単だった。


 だが、帳場ではその言い方をしなかった。


 石材置き場第三鍵、所在不明。


 表題にも、本文にも、要旨にも、その言葉が繰り返されている。


 消えた。

 盗まれた。

 持ち出された。


 どれも言いやすい。


 言いやすい言葉ほど、よく走る。


 だから、朝の帳場で最初に行われたのは、鍵そのものの探索ではなく、言葉の確認だった。


 ルイスは長机の上に、昨日見つかった紙片を置いた。


 もちろん、直接ではない。薄い保護布の上に乗せ、四隅を小さな重しで押さえてある。


 古い貸出控えの様式。

 比較的新しい筆跡。

 判読できる文字は、ごく一部。


 石材……第三……一時……返却……


 署名欄は汚れて読めない。


 それだけの紙片が、帳場の全員を黙らせていた。


 ガレスが、少し離れた場所から覗き込む。


「これ、“返却”って書いてあるなら、返されたってことじゃないんですか」


 ルイスは筆を持ったまま、すぐには答えなかった。


 答える前に、レティシアを見る。


 レティシアは静かに言った。


「“返却”という字が見えることと、返却されたことは違うわ」


「……はい」


「“返却予定”かもしれない。“返却確認”かもしれない。“返却せず”の一部かもしれない。前後が読めない以上、決められません」


 ガレスは、少し恥ずかしそうに頷いた。


「すみません。飛びつきました」


 ヨハンが隣で笑う。


「俺も飛びつきかけた」


「ヨハンさんもですか」


「“返却”って見たら、返したと思うだろ。普通」


 豆売りの女主人が腕を組んだ。


「普通だから危ないんだよ。人は足りない字を、自分の知ってる形に埋めるからね」


 ルイスは、その言葉を内部控えに書いた。


 足りない字を、知っている形に埋めない。


 ロイエンはそれを見て、少しだけ目元を和らげた。


「今日の王都向け所見に入れたいくらいです」


「王都へ送るなら、もう少し堅くしてください」


 ルイスが言うと、ロイエンは真面目に頷いた。


「“断片文字から全文を推測しない”でしょうか」


「はい。それなら送れます」


 豆売りの女主人が小さく笑った。


「堅いねえ。まあ、王都向けならそのくらいがいいか」


 最初の作業は、紙片の状態確認だった。


 ルイスは読み上げる。


「紙片、旧式貸出控え様式。端部破損。折り目あり。インク……ではなく、墨。古い様式だが、筆跡部分は比較的新しい可能性。署名欄汚損。汚損は水濡れか摩擦か不明」


 マルタが紙片へ少しだけ顔を近づけた。


「湿った匂いは薄いです。水で濡れたというより、手垢と埃が重なった匂いに近いかと」


 ルイスが書く。


 マルタ所見:水濡れ臭は薄い。手垢・埃様の匂い。感覚所見。


 ヨハンが感心したように言った。


「マルタさん、もう紙の匂い係ですね」


「その係はお断りいたします」


 即答だった。


 ガレスが小さく笑う。


 笑った後で、すぐに顔を引き締めた。


 今日扱っているのは、人の名前に近づく紙だ。


 笑いすぎると、自分が何を見ているか忘れそうになる。


 ディルクは壁際で腕を組み、低く言った。


「筆跡の確認はするのか」


 レティシアは頷いた。


「します。ただし、筆跡断定は禁止」


「似ている、までか」


「ええ。似ている、似ていない、判断困難。そこまでです。誰が書いたと決めるのは、まだ早い」


 ロイエンが補足する。


「王都では、筆跡が似ているというだけで人を追い詰めることがあります。筆跡は体調や急ぎ具合でも変わる。古い筆、悪い姿勢、暗い場所でも変わる」


 豆売りの女主人が言った。


「つまり、人間の字も荷車の音みたいなもんだね」


「かなり近いと思います」


 ヨハンが頷く。


「似た音の車輪はいくつもありますからね」


 ガレスが紙片を見る。


「似た字も、いくつもある……」


 ルイスは、新しい表題を書いた。


 貸出控え紙片・筆跡および様式確認


 その下に、大きく補足を入れる。


 筆跡類似は関与を意味しない。


 豆売りの女主人が頷く。


「大きくていい」


 比較用に集められたのは、石材置き場に関係する者の通常記録だった。


 ラウルの修繕記録。

 ベルノの荷置き場整理札。

 北門兵の出入記録。

 石材運搬係の受領書。

 石灰袋を納めた商人の納入控え。

 旧代官所備品棚の過去の貸出控え。


 ただし、本人の了承なく個人の私信は使わない。


 これもレティシアが決めたことだった。


「公的な記録で比較します」


 彼女は言った。


「私的な手紙まで持ち出すと、話が広がりすぎます」


 ロイエンは少し驚いた顔をした。


「王都では、そこまで出すことがあります」


「ここでは今は出しません」


「必要になれば?」


「その時は別途確認です。理由と範囲を紙にします」


 ロイエンは頷いた。


「妥当です」


 筆跡確認は、予想以上に面倒だった。


 紙片の文字は少ない。


 石材。

 第三。

 一時。

 返却。


 そのうち、はっきり読めるのは「第三」と「返」の一部くらいだった。


 ラウルの字は角ばっている。

 ベルノの字は勢いがありすぎて、時々線がはみ出す。

 北門兵の記録は、兵によってばらつきがある。

 石材運搬係の受領書は、字が雑すぎて比較に向かない。

 石灰商人の字は妙に整っている。


 ルイスは、ひとつずつ見比べながら眉間に皺を寄せた。


「……わかりません」


 ディルクが問う。


「誰にも似ていないのか」


「いえ、いくつか似ている部分はあります。でも、それを似ていると言うと、似ているように見えてしまいます」


 ロイエンが頷いた。


「よい判断です」


 ルイスは少し困った顔をした。


「よいんですか」


「わからないことを、わからないと言えるのは重要です」


 豆売りの女主人が言う。


「ルイスさん、最近“わからない”の値打ちが上がったね」


「嬉しいような、情けないような」


「情けなくないよ。わかったふりの方がよっぽど情けない」


 ルイスは小さく頭を下げた。


 結論はこうなった。


 筆跡比較。

 貸出控え紙片は文字数少なく、署名欄汚損のため筆者特定不可。

 ラウル、ベルノ、北門兵、石材運搬係、石灰商人の公的記録と部分比較したが、明確な一致なし。

 いくつかの字形に類似点はあるが、断定不可。

 筆跡による個人特定は現時点で行わない。


 ガレスはその記録を見て、少し拍子抜けした顔をした。


「何もわからなかったってことですか」


「いいえ」


 レティシアは答えた。


「筆跡だけでは人を絞れない、とわかりました」


「あ……そうか」


「それも前進です」


 ヨハンが小さく言った。


「強すぎた線を弱める」


 前回の言葉だった。


 ガレスは頷いた。


「疑いを薄めるのも調査」


 豆売りの女主人が満足そうに頷いた。


「覚えてきたねえ」


 次に確認されたのは、貸出控えの様式だった。


 旧代官所備品棚には、古い貸出控えの束が残っていた。


 現在は使われていない様式だ。


 数年前までは、備品を借りるたびに簡単な紙片へ書き、返却時に線を引いていたらしい。


 ルイスは束をめくりながら言った。


「この様式、今は使っていません」


 レティシアが問う。


「いつから?」


「正確には……新しい備品台帳に移ったのが、前領主代行時代の終わり頃です。少なくとも、現在の帳場運用では使っていません」


「では、今回の紙片は古い様式に新しい筆跡が載っている可能性がある」


「はい」


 ロイエンが目を細めた。


「古い様式を、誰かが最近使った」


「あるいは、古い控えに後から書き足した」


 ルイスが言う。


「どちらも可能性です」


 ディルクは腕を組んだまま低く言った。


「なぜ、今の台帳ではなく古い様式を使う」


 誰もすぐには答えなかった。


 レティシアが、ゆっくり言う。


「正式な台帳に残したくなかったから。あるいは、古い貸出のように見せたかったから。あるいは、単に近くにあった古い紙を使っただけ」


 ルイスが書く。


 古い様式使用の可能性。

 一、正式台帳に残したくなかった。

 二、古い貸出記録に見せたかった。

 三、近くにあった古紙を使用した。

 いずれも未確認。


 マルタが静かに言った。


「古い紙を使う者は、紙の意味を軽く見ているか、重く見ているかのどちらかでございますね」


 ヨハンが聞く。


「どういう意味です?」


「軽く見る者は、そこにあったから使います。重く見る者は、古い紙なら古い話に見えると考えます」


 帳場に沈黙が落ちた。


 豆売りの女主人が腕を組んだ。


「どっちにしろ嫌だね」


「はい」


 ルイスは、そのマルタ所見も記録した。


 内部控えではなく、本記録に。


 紙の扱いに関わる重要な視点だった。


 午後、第三鍵の管理範囲確認が始まった。


 ラウルは、自分の鍵を提示した。

 北門詰所の鍵も提示された。

 旧代官所備品棚の小木箱は空。


 ここまでは確認済み。


 問題は、三本目の鍵がいつまで存在していたかだった。


 古い備品台帳をめくると、最後に第三鍵の棚卸し確認があったのは、半年以上前だった。


 ルイスが読み上げる。


「石材置き場奥倉庫第三鍵、棚卸し確認。確認者、旧帳場補助員ミケル。立会人、ラウル」


 ラウルが顔を上げる。


「ミケルか……」


 ディルクが問う。


「誰だ」


「以前、帳場を手伝っていた若い男です。今は南の村へ戻っています。半年ほど前に辞めました」


 ルイスは記録を確認した。


「退任記録があります。急な退任ではありません。家の事情による帰郷」


 ガレスが不安そうに聞く。


「その人が怪しいんですか」


 レティシアはすぐに答えた。


「いいえ。最後に鍵を確認した記録に名前があるだけです」


 ルイスが大きく書く。


 ミケル名は棚卸し確認者としての記録であり、関与を意味しない。


 豆売りの女主人が言う。


「名前が出るたびに、それをつけないと駄目だね」


「はい」


 ルイスは頷いた。


「今は特に」


 ロイエンは、王都向けの所見を作りながら言った。


「この段階で、退任者の名が出ると王都は飛びつきます」


「なぜですか」


 ガレスが問う。


「もうその場にいない者は、疑いやすいからです」


 ロイエンは静かに答えた。


「反論しにくい。呼び出すのに時間がかかる。現在の組織の責任を少し外へ置ける」


 豆売りの女主人が嫌そうな顔をした。


「卑怯な便利さだね」


「はい」


 ロイエンは否定しなかった。


「だから、そうならないように書きます」


 棚卸し記録から見ると、第三鍵は半年前にはあった。


 だが、その後の確認記録はない。


 つまり、所在不明になった時期は、半年前から現在までのどこか。


 範囲が広すぎる。


 しかし、少なくとも取引当日だけの問題とは限らなくなった。


 ルイスはまとめる。


 第三鍵所在確認。半年前棚卸し時点では存在記録あり。以後、定期確認なし。所在不明発生時期は半年前以降、現在までの間。取引当日のみとは断定不可。鍵管理体制の不備あり。


 その最後の一文で、ラウルが深くうなだれた。


「管理不備……」


 レティシアは彼を見た。


「これは個人ではなく、体制の話です」


「でも、俺がもっと見ていれば」


「ラウル。奥倉庫の鍵が三本あり、そのうち一本が旧代官所備品棚にあると“思われていた”。その状態が半年以上続いていた。これは、あなただけの問題ではありません」


 ディルクも言った。


「警備側も見ていなかった」


 ルイスが続けた。


「帳場も棚卸し周期を決めていませんでした」


 ガレスも、少し迷ってから言った。


「俺も、石材置き場を確認対象だと思ってませんでした」


 豆売りの女主人が腕をほどいた。


「町も、あそこをちょっとした物置みたいに使ってた。誰か一人に押しつける話じゃないね」


 ラウルは、ゆっくり顔を上げた。


 それでも顔色は悪い。


 だが、少なくとも一人で吊るされる場ではないとわかったようだった。


 レティシアはルイスへ言った。


「鍵管理の新手順案を作りましょう」


「はい」


 ルイスは書く。


 鍵管理新手順案。

 一、鍵は用途別に台帳管理。

 二、保管場所、所持者、予備鍵を明記。

 三、月一回の棚卸し。

 四、使用時は現行台帳へ記入。旧式控え使用禁止。

 五、所在不明時は即時確認。

 六、出入可能者確認と疑い欄を分ける。


 ヨハンが呟いた。


「また増えた」


 ガレスが言う。


「でも、これは必要だと思います」


「わかる。わかるけど、増えたなあって」


 マルタが静かに言った。


「鍵は、小さい割に扉を開けますから」


 豆売りの女主人が頷く。


「うまいこと言うね」


 ルイスは、それも内部控えに書いた。


 夕方、王太子府へ送る報告が整えられた。


 表題は、


 石材置き場第三鍵所在不明および貸出控え紙片確認報告


 本文には、何度も繰り返されている。


 紛失とは断定しない。

 盗難とは断定しない。

 持ち出しとは断定しない。

 所在不明。

 筆跡特定不可。

 ミケル名は棚卸し確認者であり関与を意味しない。

 鍵管理体制の不備あり。


 ロイエンは所見にこう書いた。


 本件は、未申告荷車の経路候補と関係する可能性がある一方、現時点で個人関与を示すものではない。むしろ、普段使用頻度の低い場所および予備鍵管理の緩さが、誰かに利用された可能性を示す。王太子府でも同様の予備鍵・旧式控え管理の確認が必要と考える。


 それを見たレティシアは頷いた。


「よいと思います」


 ロイエンは少しだけ笑った。


「また褒められました」


「事実です」


「記録しておきたいですね」


「不要です」


 いつものやり取りに、ルイスが少し笑った。


 夜、帳場の追記には、鍵のことが残された。


 レティシアは、空の小木箱と貸出控えの紙片の写しを見ながら口述した。


 返却、と読める字がある。だが、返されたとは限らない。鍵がない。だが、盗まれたとは限らない。誰かの字に似ている。だが、その人が書いたとは限らない。今日わかったことは、第三鍵が半年前にはあり、今は所定の箱にないこと。古い様式に新しい筆跡が残っていること。そして、鍵管理の隙間があったこと。人の名に飛ぶ前に、隙間を見る。隙間を見ずに人を責めれば、同じ隙間から次の手が入る。


 ルイスは、筆を置いた。


 第三鍵はまだ見つからない。


 だが、少なくとも問題は「誰が盗んだか」だけではないと見え始めている。


 鍵の数。

 棚卸しの間隔。

 古い控え。

 誰でも少しだけ使っていた石材置き場。


 小さな隙間が、いくつも重なっている。


 そして誰かは、その隙間を知っていたのかもしれない。

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