第132話 鳴りすぎる呼び鈴
便利な言葉は、広がるのが早い。
そして、広がるのが早い言葉ほど、少しずつ別の使われ方を始める。
王太子府で「追加確認あり」の欄が試行されてから、まだ数日しか経っていなかった。
最初は、うまく働いた。
エミリアが茶会の席次案で小さな違和感を拾った。
女官長補佐が確認し、席を一つ離した。
赤札にするほどではなかった問題が、青札の中で静かに処理された。
アルベルトもそれを評価した。
王妃宮も、良い例として受け取った。
だからこそ、王太子府の中では「追加確認あり」という言葉が急に信用を持った。
信用を持った言葉には、人が集まる。
良い意味でも、悪い意味でも。
最初に異変に気づいたのは、レムスだった。
補佐官室の端に置かれた小さな箱に、「追加確認あり」と記された紙が増えていた。
昨日は五枚。
今朝は十七枚。
昼前には二十六枚。
増える速度が、おかしい。
レムスは一枚ずつ確認した。
席次案の相手関係確認。
返礼文の本人趣旨確認。
添付資料の欠落確認。
ここまではいい。
だが、その先に妙な紙が混ざっていた。
追加確認あり。
儀典用花器の色について。
追加確認あり。
控え室の菓子皿の配置について。
追加確認あり。
侍従控え室の椅子数について。
どれも確認が不要とは言わない。
しかし、担当部署で判断できるはずのものまで、呼び鈴として鳴らされている。
レムスは、紙束を持ってエドガルの執務机へ向かった。
「補佐官」
「何だ」
「“追加確認あり”が増えすぎています」
エドガル・ヴァイスナーは、顔を上げた。
「どれくらい」
「昼前で二十六枚です」
「多いな」
「内容も、軽重が混ざっています」
レムスは数枚を差し出した。
エドガルは読み、すぐに目を細めた。
「花器の色。菓子皿の配置。椅子数」
「確認事項ではありますが、担当者判断で済むものも含まれています」
「責任を持ちたくないのだろう」
エドガルは即座に言った。
レムスは黙った。
その通りだった。
追加確認あり、と書けば、とりあえず自分一人の判断ではなくなる。
後で誰かに叱られた時、「確認に回しました」と言える。
つまり、呼び鈴が責任逃れの札になり始めていた。
エドガルは紙を机に置いた。
「早かったな」
「はい」
「便利な手順は、こうなる」
「どうしますか」
エドガルは少し考えた。
「分類する」
「また分類ですか」
「また分類だ」
少し疲れた声だった。
だが、やるしかない。
「追加確認を三つに分ける。即時確認、部署内確認、次回確認」
レムスは筆を構えた。
「即時確認は?」
「その場で止めなければ支障が出るもの。人数違い、添付欠落、相手関係に明確な懸念、日程ずれ、安全・警備・署名に関わるもの」
「部署内確認は」
「担当部署で処理できるが、判断理由を残すもの。花器、菓子皿、椅子数などはここだ」
「次回確認は」
「今すぐ止める必要はないが、今後の手順改善に回すもの」
「はい」
「それから、“追加確認あり”を書いた者は、確認したい内容を一行で書く。ただ鳴らすだけは禁止」
レムスは顔を上げた。
「呼び鈴だけ鳴らして逃げるな、ということですね」
「その表現は通達には書くな」
「もちろんです」
エドガルは、少しだけ苦笑した。
「だが、意味はそれだ」
同じ頃、アルベルトの机にも、増えすぎた追加確認の報告が届いていた。
彼は最初の数枚を読み、露骨に不機嫌そうな顔になった。
「花器の色まで俺に来るのか」
エドガルは一礼した。
「運用が広がりすぎています」
「広がりすぎるほど便利だったということか」
「はい。ただし、使い方を分ける必要があります」
「呼び鈴を鳴らしすぎると、誰も聞かなくなる」
アルベルトがそう言ったので、エドガルは一瞬だけ黙った。
王太子が、思ったより的確なことを言ったからだ。
「仰る通りです」
「何だ、その顔は」
「いえ」
「今、意外そうにしたな」
「失礼いたしました」
アルベルトは不満そうに鼻を鳴らしたが、紙へ視線を戻した。
「分類しろ」
「即時確認、部署内確認、次回確認に分ける案を考えております」
「よい」
「また、追加確認には内容の一行記載を必須とします」
「そうしろ。ただ“確認したい”ではなく、“何を確認したいか”を書かせろ」
「はい」
アルベルトは、紙束の中から一枚を取り出した。
エミリアの席次案に関する追加確認だった。
これは、明らかに役に立った例だ。
その横に、菓子皿の配置の確認。
同じ「追加確認あり」でも、重さが違う。
それを同じ箱に放り込めば、良い確認まで埋もれてしまう。
「エミリアの例は、即時確認か?」
エドガルが答える。
「青札内の即時確認です。茶会準備の席次確定前に処理すべきものでした」
「では、そのように分類して残せ」
「承知しました」
アルベルトは、少し考えてから続けた。
「それと、エミリアにも伝えろ。追加確認が増えているが、あの確認は良い使い方だったと」
「殿下から直接?」
アルベルトは、少しだけ言葉に詰まった。
「……いや、女官長補佐からでよい」
エドガルは深く頭を下げた。
「承知しました」
アルベルトは窓の外へ目を向けた。
自分で言えばいい。
そう思わないわけではなかった。
だが、どう言えばよいかわからない。
褒めるという行為が、まだ彼には不慣れだった。
王太子として命じることには慣れている。
不機嫌を示すことにも慣れている。
だが、相手の小さな気づきを受け取り、素直に礼を言うことには慣れていない。
それもまた、追加確認が必要なことなのかもしれない。
彼は、そんなことを考えてしまった自分に少し苛立った。
その日の午後、王太子府に新しい運用紙が配られた。
追加確認あり・分類試行。
一、即時確認。
確定前に止めなければ支障が出るもの。人数違い、日程ずれ、添付欠落、相手関係の明確な懸念、安全、警備、署名、本人趣旨消失など。
二、部署内確認。
担当部署で判断可能だが、判断理由を残すもの。備品配置、控え室準備、花器、菓子皿、椅子数など。
三、次回確認。
今回の処理は止めないが、次回以降の手順改善に回すもの。
追加確認を書く者は、確認したい内容を一行で記す。
分類不明の場合は、部署長へ回す。
追加確認を記したこと自体を処分対象としない。
ただし、判断放棄または意図的遅延と判断される場合は、別途確認する。
書記官たちは、それを見てそれぞれ違う顔をした。
「やっぱり増えた」
「いや、整理されたんだろ」
「判断放棄って書かれてる」
「まあ、花器の色を王太子殿下まで上げたら、そう言われても仕方ない」
「俺じゃないからな」
「誰も聞いてない」
軽口が出るのは、悪いことではなかった。
少なくとも、紙を前にして誰も何も言えなかった頃よりはいい。
その日の夕方、エミリアの部屋にも、女官長補佐が分類表を持ってきた。
「追加確認ありの使い方が整理されました」
エミリアは少し不安そうに紙を受け取った。
「私が使ったから、増えてしまったの?」
リーナがすぐに首を横に振る。
「いいえ。エミリア様の使い方は、良い例として残っています」
女官長補佐も頷いた。
「殿下からも、そのように」
「殿下が?」
「はい。エミリア様の席次確認は、青札内の即時確認として適切だったと」
エミリアは、しばらく言葉を失った。
アルベルトが、そこまで見てくれた。
直接ではない。
だが、それでも十分だった。
「……よかった」
小さく呟く。
女官長補佐は、分類表を机に置いた。
「これからは、エミリア様の気づきも三つに分けるとよろしいかと」
「三つに」
「すぐ確認しないと席次や返礼に影響するものは即時確認。茶器や花のように部屋付きの女官で判断できるものは部署内確認。今後の茶会に活かせばよいものは次回確認です」
エミリアは、ゆっくり頷いた。
「全部を止めなくていいのね」
「はい」
「でも、流していいわけでもない」
「その通りです」
エミリアは、少しだけ笑った。
「難しいわ」
「難しいです」
女官長補佐は、正直に言った。
「ですが、エミリア様はもう難しいとわかった上で紙に置けています」
その言葉が、エミリアには少し嬉しかった。
以前の自分なら、難しいとわかった時点で目を逸らした。
今は、難しいと書ける。
それだけでも、少し進んでいるのかもしれない。
王妃宮にも、追加確認分類の通達写しが届いていた。
エレオノーラは読み終えると、静かに頷いた。
「早く気づきましたね」
セラフィナが言う。
「乱用が出るのも早かったようです」
「良い手順は、必ず乱用されます」
「必ず、でございますか」
「ええ。なぜなら、役に立つからです。役に立たない手順は乱用されません」
セラフィナは少し笑った。
「皮肉ですね」
「実務とは、そういうものです」
王妃は紙を置いた。
「大事なのは、乱用された時に手順を捨てないこと。分類し、直し、使える形にすることです」
「北方旧所領でも、同じようなことが起きるでしょうか」
「もう起きているかもしれません」
エレオノーラは窓の外を見た。
「便利な言葉は、辺境でも王都でも、人の弱さを拾います」
その言葉通り、北方旧所領でも同じ頃、小さな問題が起きていた。
中継小屋で、ガレスがほとほと困った顔をして帳場へ来たのだ。
「レティシア様、ルイスさん……」
「どうしました」
ルイスが顔を上げる。
「ヨハンさんが、何でも“追加確認”って言うんです」
ちょうど帳場にいたヨハンが、慌てて抗議した。
「人聞き悪いな。俺は正しく使ってるだけだよ」
豆売りの女主人が隣で呆れた顔をしている。
「荷車の車輪が泥を踏んだ、追加確認。豆袋の置き場が近い、追加確認。昼飯の鍋が一つ少ない気がする、追加確認。あんた、呼び鈴を遊び道具にしてるだろ」
「いや、遊びでは」
ヨハンは視線を逸らした。
ガレスが訴える。
「本当に必要な追加確認と、ヨハンさんが面白がってるだけの追加確認が混ざって、俺、わからなくなります」
ルイスは、王都から届いた分類通達の写しを見た。
ちょうど同じ問題だ。
レティシアも、それに気づいていた。
「王都から、よい紙が届いています」
ヨハンが嫌な予感のする顔をした。
「え、俺のせいでまた紙ですか」
「今回は王都の紙を使います」
ルイスが、追加確認分類表を広げる。
即時確認。
部署内確認。
次回確認。
豆売りの女主人が覗き込み、にやりと笑った。
「いいじゃないか。ヨハンの呼び鈴乱打対策だね」
「乱打って」
「乱打だよ」
レティシアは笑わずに言った。
「北方旧所領でも、追加確認を分類しましょう」
ガレスがほっとした顔をした。
「分類されるなら助かります」
ヨハンは肩をすくめた。
「まあ、確かに俺も少し鳴らしすぎました」
「少し?」
豆売りの女主人が睨む。
「だいぶです」
「はい、だいぶ」
場に笑いが起きた。
だが、これは大事な笑いだった。
責めて終わるのではなく、仕組みに直す。
追加確認の乱用もまた、改善の材料になった。
ルイスは、北方旧所領版の分類表を書き始めた。
追加確認の使い分け。
一、すぐ止める。
人数が違う、荷が増えた、危ない場所に入る、物が壊れた、雨で予定が変わった、火や油や警備に関わる。
二、担当で見てから帳場へ。
置き場の細かい変更、食器や道具の不足、荷車の軽い汚れ、豆袋の並べ方。
三、次に直す。
今すぐ困らないが、次回から変えたいこと。
ヨハンが感心したように言った。
「王都よりわかりやすい」
ルイスは少しだけ誇らしそうにした。
「町向けですので」
ロイエンは、ちょうど帳場に入ってきたところでその紙を見た。
「王都の分類が、辺境で翻訳されましたか」
「ええ」
レティシアは頷いた。
「呼び鈴は必要です。でも、鳴りすぎれば本当に必要な音が聞こえなくなります」
ロイエンは静かに頷いた。
「それを王都でも学びました」
「こちらもです」
しばらく、帳場には不思議な沈黙が落ちた。
王都で生まれた分類が、辺境に戻ってくる。
辺境で生まれた呼び鈴が、王都で乱用され、分類され、その分類がまた辺境で使われる。
紙は行き来するたびに、少し形を変える。
だが、役に立つ部分は残る。
夜、帳場の追記に、レティシアはこう口述した。
呼び鈴は、鳴らせばよいというものではない。鳴りすぎれば、人は音に慣れ、本当の危険にも振り向かなくなる。けれど、鳴りすぎたからといって呼び鈴を外してはならない。音を分ける。今すぐ止める音、担当が見る音、次に直す音。弱い人が声を上げる道を残しながら、その道を責任逃れの抜け道にしないこと。手順は、使われて初めて壊れ方が見える。
ルイスは書き終え、少し笑った。
「王都の紙が、こちらの役にも立ちましたね」
ロイエンが言う。
「珍しいことですか」
豆売りの女主人が答えた。
「珍しいね。でも、悪くない」
ヨハンが肩をすくめる。
「俺のせいで王都の紙が役に立ったなら、まあいいか」
ガレスがすぐに言った。
「ヨハンさんは、次から鳴らしすぎないでください」
「はいはい」
「はいは一回です」
「それ、誰の真似?」
ガレスは少し考えた。
「……豆売りのおかみさん?」
「よし、よく学んでる」
笑いが起きた。
呼び鈴は、今日少し鳴りすぎた。
だから、音を分けることになった。
それもまた、この町が前へ進むために必要な一日だった。




