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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第125話 一・五倍の重さ

 銀狐商会からの返事は、思ったより早く届いた。


 もっとも、届いたのは返事というより、悲鳴に近い紙だった。


 北方旧所領の帳場で封を切ったルイスは、最初の数行を読んだところで、眉間に深い皺を作った。


「……銀狐商会本部より、三者確認表への一次回答です」


 レティシアは、机の向かいで顔を上げた。


 長机の上には、まだ前回の三者確認表の控えが残っている。


 青脈鉱石の一・五倍増量案。


 それを現地影響欄へ落とし込んだ結果、荷車、臨時荷運び、炊事場、警備、帳場補助書記、雨天延期、保管場所、油壺と薪置き場の動線まで、ありとあらゆる負担が姿を現した。


 一・五倍。


 数字だけなら軽い。


 だが、現地ではその数字が人の背中に乗る。


 それを紙にした途端、銀狐商会の返答はずいぶん苦しくなった。


 ルイスは続きを読み上げた。


「銀狐商会本部は、北方旧所領側の現地影響欄について、詳細すぎるとの見解です」


 豆売りの女主人が、今日も町側立会人として椅子に座っていた。


「出たよ。詳しく書けって言うと、詳しすぎるって言うやつ」


 ヨハンが隣で頷く。


「荷車代を曖昧にされたら困るって言ったのに、曖昧じゃなくしたら困るんですね」


 ガレスが真面目に言った。


「つまり、困ることが見えたから困ってるんですか?」


「そういうことだね」


 豆売りの女主人は、満足げに腕を組んだ。


 ロイエン連絡官は、帳場の端に座ってそのやり取りを聞いていた。


 王太子府連絡官としての立場上、彼は銀狐商会の代弁者ではない。


 だが、商会の紙を読む目は王都のものだった。


 利益がどこで薄くなるか。

 誰が何を押し戻そうとしているか。

 それを静かに見ている。


 ルイスは、さらに読む。


「商会本部は、現地荷車追加分、臨時荷運び、炊事場負担、警備負担、補助書記費用をすべて商会側取引費用に含めることについて、前回単価維持の前提と矛盾するとしています」


 ヨハンが即座に言った。


「でしょうね。こっちに払わせるつもりだった分が、向こうの費用になったんだから」


 豆売りの女主人も言う。


「前回単価維持って言葉、やけに優しそうだったけど、こっちの負担を入れてないなら優しくもなんともないね」


「それを三者確認表が見えるようにしたわけです」


 ルイスは少し誇らしそうに言った。


 レティシアは文面へ目を通しながら、静かに言った。


「クラウス殿の文も添えられている?」


「はい。別紙です」


「そちらを」


 ルイスは別紙を取り、読み上げた。


「クラウス・ベルガー殿より。――本部内では、現地影響欄の扱いをめぐり意見が割れております。王都派は、現地側が費用項目を広げすぎていると主張。一方、私見としては、費用項目が見えた以上、前回単価維持をそのまま掲げることは難しいと判断します」


 ロイエンが小さく笑った。


「クラウス殿らしい。商会の味方をしながら、逃げ道も残している」


 レティシアは頷く。


「続けて」


「――提案。増量を一・二倍上限とする北方旧所領側案については、商会として受け入れ可能性あり。ただし、追加負担費用をすべて商会側に上乗せする場合、前回単価維持ではなく、単価据置に対する別建て費用補填とする形が望ましい」


 ルイスはそこで一度止まった。


「単価は据え置き、別建て費用補填……」


 ヨハンが首を傾げる。


「どう違うんですか?」


 ロイエンが答えた。


「鉱石そのものの単価は変えない。だが、荷車や炊事場や警備の追加分を別費用として支払う、ということです」


「商会的には何が嬉しいんです?」


「単価が上がった、という記録を残さずに済む」


 レティシアが補足した。


「今後の取引で、“前回単価が上がったのだから次も上げろ”と言われるのを避けたいのでしょう」


 豆売りの女主人が鼻を鳴らした。


「なるほどね。豆一袋の値段は変えずに、袋を運ぶ手間賃だけ別に払うってことか」


「そうです」


「だったら、手間賃の額をごまかされないようにしなきゃね」


 ルイスは、もう書いていた。


 確認事項:別建て費用補填とする場合、対象項目、金額、支払い日、支払い責任者を明記。鉱石単価と混同しない。


 レティシアは静かに頷く。


「それで進めましょう」


 ガレスが手を上げた。


「あの、油壺とか薪置き場の動線変更も費用に入りますか」


 ロイエンが見る。


「良い質問です」


 ガレスは褒められると思っていなかったのか、少し身構えた。


「え、そうですか」


「ええ。増量によって中継小屋の配置を変える必要があるなら、それも現地影響です」


 レティシアは言った。


「費用が発生するなら入れます。費用がなくても、作業時間が増えるなら負担欄に」


「じゃあ、荷の一時置き場に板を敷くなら?」


「木材費、作業人員、設置日」


「……結構ありますね」


「あるわ」


 レティシアは、きっぱりと言った。


「あるものを、ないことにしないための三者確認表です」


 帳場の空気が、少し引き締まった。


 あるものを、ないことにしない。


 その言葉は、この土地で何度も形を変えてきた。


 不満をないことにしない。

 負担をないことにしない。

 差異をないことにしない。

 保留を逃げにしない。


 今度は、費用だった。


 ルイスは、銀狐商会への返答案を書き始めた。


 北方旧所領側回答。


 一、増量上限は初回一・二倍を維持。

 二、鉱石単価据置は協議可。ただし増量に伴う現地追加負担は別建て費用補填とする。

 三、補填対象は、荷車追加、臨時荷運び、炊事場追加、警備増員、補助書記、中継小屋一時置き場整備、雨天延期時の再手配費。

 四、各費用は見積欄を設け、商会側確認後、取引条件別紙に署名。

 五、費用補填は支払い繰越対象外。鉱石代とは別に処理日を定める。

 六、雨天延期時の責任範囲は別紙で事前合意。


 ヨハンが、五の項目で身を乗り出した。


「支払い繰越対象外。これ大事ですね」


「ええ」


 レティシアは答えた。


「荷車代や炊事場の追加分を後回しにされると、町の負担になります」


 豆売りの女主人が頷く。


「そういう細かい銭ほど、後回しにされると痛いんだよ」


 ロイエンは、そのやり取りを記録させていた。


 町人の声が、取引条件に直接入っていく。


 王都では考えにくい光景だ。


 しかし、この取引では、それが機能している。


 少なくとも今は。


 午後、その三者確認表の修正版は王太子府へも写しとして送られることになった。


 ロイエンは、自分の所見を添えた。


 王太子府連絡官所見:銀狐商会の一・五倍増量案は、王都需要の根拠確認が必要。北方旧所領側が一・二倍上限および別建て費用補填を求めることは、現地負担の可視化に基づくものであり、過度な拒否とは見なしがたい。商会側が単価据置を望む場合、別費用処理の明文化が妥当。


 ルイスは、その文を聞いて目を丸くした。


「ロイエン副使……かなりこちら寄りに見えます」


 ロイエンは涼しい顔で言った。


「現地で見たことを書いているだけです」


「王太子府で問題になりませんか」


「なるかもしれませんね」


 あまりにも平然としていた。


 ルイスは困った顔になる。


 ロイエンは少し笑った。


「ご心配なく。王太子府にも利益があります。現地負担を無視して取引を進め、後で事故が起きれば、王太子府の調整責任が問われます」


 ディルクが低く言った。


「王太子府を守るための所見でもある、ということですか」


「そうです」


 ロイエンは頷いた。


「私は連絡官ですから」


 その言葉を、どこまで信じてよいのかはわからない。


 だが、今この場では筋が通っていた。


 夕刻、銀狐商会王都本部でも、クラウスが北方旧所領からの修正版を受け取っていた。


 彼は読み進めながら、思わず笑った。


「やはり、そう来ますか」


 向かいのロレンツが顔をしかめる。


「何がです」


「単価据置は協議可。ただし現地追加負担は別建て費用補填。支払い繰越対象外」


「厳しい」


「当然です」


「あなたは、もう少し商会の側に立って話せませんか」


 クラウスは紙を置き、穏やかに答えた。


「商会の側に立っているから言っています。ここで現地負担を値切りすぎると、次回以降、北方旧所領は増量そのものを嫌がる」


「そこを王太子府に」


「王太子府連絡官所見も添付されています」


「ロイエン副使の?」


「はい」


 クラウスはその写しを渡した。


 ロレンツは読み、顔を苦くした。


「現地負担の可視化に基づくものであり、過度な拒否とは見なしがたい……」


「王太子府側の所見です」


「この連絡官、現地に丸め込まれたのでは?」


「そう見ることもできます」


 クラウスは、少しだけ意地悪く笑った。


「ですが、王太子府を守る所見でもあります」


 ロレンツは黙った。


 クラウスは続ける。


「商会が現地負担を無視して増量を進めた。事故が起きた。王太子府連絡官は現地にいたのに見逃した。そうなれば、王太子府も困る」


「……」


「ロイエン副使は、それを避けています」


「つまり、こちらは支払うしかないと?」


「値切る余地はあります。ただし、項目を消すのではなく、金額を詰める形です」


 ロレンツは長く息を吐いた。


「面倒な商売になりましたね」


「利益の大きい商売は、だいたい面倒です」


「あなた、楽しんでいませんか」


「少し」


 クラウスは正直に答えた。


 ロレンツは呆れたように首を振った。


「商会本部としては、一・二倍上限、別建て費用補填、支払い繰越対象外。この三つをすべて飲むのは重い」


「ならば、一・一五倍から始める案もあります」


「さらに減るではありませんか」


「事故が起きるよりよい」


「王都需要に間に合わない」


「なら、王都需要の根拠を出すべきです」


 クラウスは紙を指で叩いた。


「北方旧所領側も、王太子府も、そこを求めています。王都魔導灯補修需要が本当に急ぐなら、根拠を出せば増量の理由になります」


「根拠が弱ければ?」


「増量理由も弱い」


 ロレンツは、しばらく黙った。


 商人の勘で動かせた話が、根拠を求められている。


 これもまた、北方旧所領流だった。


 いや、今や王太子府もその流れに乗り始めている。


「王都需要の資料を集めます」


 ロレンツは、渋々言った。


「補修組合、魔導灯管理局、商務係あたりから」


「お願いします」


「あなたは?」


「私は、費用補填の金額案を詰めます」


「現地へ行くのですか」


「必要なら」


「本当に楽しそうですね」


「商売が形になる時は、楽しいものです」


 クラウスは笑った。


 同じ頃、王太子府では、アルベルトがロイエン所見つきの三者確認表を読んでいた。


 机の上には、赤札ではなく青札が置かれている。


 検討中。


 エドガルが説明する。


「銀狐商会増量案について、北方旧所領側は一・二倍上限および別建て費用補填を求めています。ロイエン副使は、過度な拒否とは見なしがたいと所見を出しています」


 アルベルトは紙を読みながら言った。


「現地荷車追加、炊事場、警備、補助書記……細かいな」


「はい」


「だが、確かに増える」


 エドガルは黙った。


 アルベルトは続ける。


「王都では、鉱石を一・五倍としか見ていない。だが現地では、それを運ぶ者がいる」


 その言葉は、誰かに聞かせるためではなく、紙を読みながら漏れたものだった。


 エドガルは、少しだけ目を伏せた。


 アルベルトが、現地負担を自分の言葉で言った。


 これは変化だ。


「王都魔導灯補修需要の根拠を確認しろ」


 アルベルトは言った。


「根拠があるなら、一・二倍は認める方向でよい。だが一・五倍は急ぎすぎだ」


「承知しました」


「銀狐商会が王都需要を盾にするなら、王都側の資料も出させろ」


「はい」


「それと」


 アルベルトは、少し嫌そうに紙を指で叩いた。


「現地負担費用の別建て処理。これは王太子府も確認する。商会と現地だけで決めさせるな」


 エドガルが顔を上げる。


「王太子府確認欄を設けますか」


「そうだ」


「承知しました」


 また欄が増える。


 だが、今度はアルベルト自身が求めた欄だった。


 夜、北方旧所領の帳場に、王太子府からの短い確認文が届いた。


 王都魔導灯補修需要の根拠を確認中。

 一・二倍上限案を検討。

 現地追加負担費用の別建て処理について、王太子府確認欄を設けたい。

 銀狐商会から需要根拠資料を提出させる。


 ルイスは読み上げながら、少しだけ目を丸くした。


「王太子府確認欄を、王太子府側から求めています」


 ロイエンが静かに言った。


「殿下が読まれたのでしょう」


 レティシアは紙を受け取り、しばらく見ていた。


 アルベルトが、現地負担を確認する。


 それは、かつての彼からは考えにくいことだった。


 もちろん、全面的に信じるには早い。


 王太子府の確認欄は、新たな介入の入口にもなり得る。


 だが同時に、銀狐商会が現地負担を軽く扱うことへの牽制にもなる。


「受け入れます」


 レティシアは言った。


「ただし、王太子府確認欄にも根拠記載を求めます」


 ルイスは微笑みそうになった。


「やはり、必要ですので?」


「ええ」


 レティシアも少しだけ笑った。


 夜の帳場では、三者確認表に新しい欄が加えられた。


 王太子府確認欄。


 原文要旨。

 銀狐商会評価。

 王太子府評価。

 現地影響。

 王太子府確認。

 差異。

 対応案。


 長机は、また少し狭くなった。


 ルイスは紙を置きながら呟いた。


「机、もう一本必要になるかもしれません」


 豆売りの女主人がいれば、きっと笑っただろう。


 レティシアは、追記を口述した。


 利益は軽い言葉で来る。増量、安定、需要、前回単価維持。だが利益の下には、誰かの手がある。荷車を押す手、鍋をかき回す手、夜番で槍を握る手、記録を書く手。その手にかかる重さを見ずに利益だけを語れば、取引は必ず歪む。だから、利益の横に負担を置く。負担の横に根拠を置く。根拠の横に署名を置く。


 ルイスは、静かに書き終えた。


 一・五倍の数字は、一・二倍になり、さらに費用欄と根拠欄を連れて戻ってきた。


 軽かった数字は、もう軽くない。


 それは町の手の重さを知った数字だった。

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