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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第123話 銀狐、二つの窓口を見る

 銀狐商会王都本部に、王太子府からの返書が届いたのは、昼の商談が一段落した頃だった。


 王都本部は、王城の西側商業区にある。


 石造りの三階建て。

 一階は表向きの商談所、二階は貴族向けの応接室、三階は本部役員たちの会議室になっている。


 窓には銀糸を織り込んだ薄布がかかり、室内には香油の匂いが漂っていた。壁際には北方産の毛皮、南方から運んだ硝子細工、東方の細工箱が飾られている。


 そこにあるものすべてが、銀狐商会の顔だった。


 豊かで、上品で、よく整えられている。


 だが、クラウス・ベルガーは、その整い方をあまり信用していなかった。


 整った場所ほど、隠れているものが多い。


 利益。

 借り。

 契約の抜け道。

 誰がどちらにつくかという派閥。


 商会も王都も、そこはよく似ている。


 クラウスは二階の応接室で、王太子府からの返書を読んでいた。


 向かいには、銀狐商会本部の王都派を代表する役員、ロレンツ・バイアーが座っている。


 ロレンツは細身の男だった。


 指にはめた指輪は派手ではないが、石は良い。声は柔らかく、目は常に利益の温度を測っている。


「どうでしたかな、王太子府は」


 ロレンツが問う。


 クラウスは返書から目を離さずに答えた。


「思ったより、現地帳場寄りです」


 ロレンツの眉がわずかに上がった。


「王太子府が?」


「ええ」


「王太子府連絡官を入れたばかりでしょう。ならば、王都側窓口を正式に置き、現地帳場を実務窓口に落とす流れでは?」


「そのつもりで照会したのですがね」


 クラウスは返書を机の上に置いた。


「王都側窓口は置く。ただし、北方旧所領鉱石取引については、現地帳場記録を前提とする。王都と現地の条件差異を認めない。数量、品質、輸送責任、価格、支払い条件について、現地帳場の記録なしに確定しない」


 読み上げるほどに、ロレンツの表情が険しくなっていった。


「王太子府が、そのように?」


「はい」


「誰の返答です」


「王太子府補佐官室。王太子殿下確認済みの印があります」


「……殿下確認済み」


 ロレンツは、椅子の背に身を預けた。


「これは困りましたな」


「困りましたか」


「困るでしょう。王都で大枠を取り、現地で実務調整する。商売としては、それが最も早い」


「早いでしょうね」


 クラウスは静かに返した。


「ただし、早すぎる商売は事故も早い」


 ロレンツの目が少し細くなる。


「あなたは相変わらず、あの辺境帳場を買っているようだ」


「買っているというより、計算しています」


「同じことでは?」


「違います。好意ではありません」


「利益ですか」


「もちろん」


 クラウスは、窓の外を見た。


 王都の通りには荷馬車が行き交っている。

 香油商、毛皮商、宝石商、穀物商。


 誰もが、少しでも有利な条件を求めている。


 商人として当然だ。


 だが、北方旧所領の鉱石は、普通の荷ではない。


 火災があった。

 証拠棚がある。

 白蔦会の影がある。

 王立書庫が照合している。

 王太子府連絡官が入った。

 そして、あの帳場にはレティシア・エーヴェルシュタインがいる。


 雑に触れば、利益どころか商会の名が傷つく。


「王都で大枠を取ること自体は可能でしょう」


 クラウスは言った。


「ただ、その大枠を現地が受けなければ動かない。無理に動かせば、数量差、品質差、輸送責任で必ず揉める」


「揉めた時は、王太子府の権威を使えばよい」


 ロレンツは当然のように言った。


 クラウスは、少しだけ笑った。


「以前なら、それも使えたかもしれません」


「今は違うと?」


「王太子府が、現地帳場記録を前提にすると書いてきた」


 ロレンツは黙った。


「つまり、こちらが王都とだけ話して条件を取っても、王太子府自身が“現地記録はどうなっている”と聞いてくる可能性がある」


「王太子府が、そこまで変わりますか」


「変わり始めているのでしょう」


 クラウスは、返書の下段にある補佐官室評価を指で示した。


 原文要旨。

 王太子府評価。

 対応方針。


 この三段の分け方も、以前の王太子府らしくなかった。


 王都の文書は、もっと色を塗ってくるものだ。

 誰が得をし、誰が損をし、何を強く見せたいか。


 それが要約の中に混ざる。


 だが、この返書は、少なくとも色を分けようとしている。


 原文と評価。


 商人として見れば、非常に厄介な進歩だった。


 ロレンツは、指輪を軽く撫でた。


「では、どうするつもりです」


「三者確認案を出します」


「三者?」


「銀狐商会、王太子府、北方旧所領帳場」


「そんな面倒な」


「面倒です」


 クラウスは認めた。


「ですが、一度そこで条件の置き場を決めれば、後が楽になる」


「後が楽、ですか」


「はい。王都で話した条件を現地で覆されるより、初めから同じ紙に並べた方がよい」


 ロレンツは苦い顔をした。


「あなたも紙の人になりましたな」


「北方旧所領へ行くと、皆そうなります」


「冗談になっていません」


「私もそう思います」


 クラウスは笑った。


 だが、目は笑っていなかった。


「王都派としては不満でしょうが、この件で急ぐと損をします」


「あなたは、現地帳場に肩入れしすぎている」


「では、別の交渉人を立てますか」


 ロレンツは黙った。


 それはできない。


 クラウスはすでに北方旧所領の帳場と何度も交渉している。

 レティシアの言葉の癖も、ルイス記録官の動きも、町人の空気も知っている。


 別の者を送れば、最初から足を取られる。


 それに、クラウスは現地寄りではあるが、商会の利益を捨てる男ではない。


 だから厄介で、だから使える。


「三者確認案の草案を見せてください」


 ロレンツは言った。


「もちろん」


 クラウスは、すでに用意していた紙を出した。


 ロレンツはそれを見て、眉をひそめる。


「用意していたのですか」


「王太子府が現地記録を前提にしてくる可能性はありましたので」


「あなた、本当に嫌な男ですね」


「商人ですから」


 草案には、こう書かれていた。


 北方旧所領鉱石取引に関する三者確認手順案。


 一、王都側大枠協議を行う場合、協議内容を原文要旨、商会評価、現地影響の三欄に分けて記録。

 二、数量、品質、輸送責任、価格、支払い条件は、北方旧所領帳場記録と照合するまで確定扱いとしない。

 三、王太子府連絡官が現地にいる場合、連絡官所見を添付可。ただし取引条件の決定権は持たない。

 四、銀狐商会本部と北方旧所領帳場の間で条件差異が生じた場合、差異表を作成し、三者で確認。

 五、支払い繰越は、既存合意通り別紙記録、理由、金額、処理日、双方署名を必須とする。


 ロレンツは、最後の項目で露骨に嫌そうな顔をした。


「支払い繰越の縛りまで残すのですか」


「残さなければ、レティシア様は受けません」


「王太子府から押せば」


「今の王太子府は、おそらく押しません」


「なぜ言い切れる」


「王太子府自身が、現地記録前提と返してきたからです」


 クラウスは、静かに言った。


「この件では、王太子府を利用しようとすると、こちらが使われる側になる可能性がある」


 ロレンツは目を細めた。


「王太子府に?」


「いえ」


 クラウスは、薄く笑った。


「王太子府の面子に、です」


 王太子府は今、自分たちが現地を無視して商会と条件を決めたと見られることを嫌う。

 王妃も見ている。

 監査局も見ている。

 王立書庫も見ている。


 そこで銀狐商会が王都だけに条件を通そうとすれば、むしろ王太子府は商会に対して強く出る可能性がある。


 銀狐商会に王都と現地を使い分けられた。


 そう見えるのを、王太子府は嫌うだろう。


 ロレンツは、しばらく考え込んだ。


 やがて、小さく息を吐く。


「……草案を本部会議に出しましょう」


「ありがとうございます」


「ただし、私はまだ納得していません」


「納得は不要です。利益が見えれば十分です」


「あなたらしい」


 ロレンツは立ち上がった。


「三者確認案、通るとは限りませんよ」


「通る形にします」


 クラウスは答えた。


 その声は穏やかだったが、確信があった。


 同じ頃、王太子府にも銀狐商会からの受領返答が届いていた。


 エドガルは、それを読んで目を細めた。


「三者確認案……」


 レムスが横で問う。


「受けますか」


「受けざるを得ないだろう」


「かなり北方旧所領側の形に寄っています」


「同時に、銀狐商会側にも逃げ道がある」


「逃げ道?」


「商会評価、現地影響の欄だ。評価欄で商会側の都合をきちんと残せる」


 エドガルは草案を机に置いた。


「クラウス・ベルガーは、やはりうまい」


「現地帳場寄りでは?」


「寄っているように見せて、商会の席を確保している」


 レムスは紙を見直した。


 たしかに、三者確認になれば銀狐商会は王太子府と北方旧所領の双方に同じ条件を見せる必要がある。


 だが同時に、銀狐商会の評価欄も正式に残る。


 つまり、商会側の利益や懸念を、ただの商人のわがままではなく、協議資料として置ける。


「では、悪くない案ですか」


「悪くない。面倒だがな」


 エドガルは、最近その言葉を何度も使っている気がした。


 面倒。


 だが、面倒な手順ほど後で使えることがある。


 それを、王太子府は学ばされている。


「殿下へ三段で」


「はい」


「いや、今回は四段だ」


「原文要旨、補佐官室評価、協議余地、対応案ですね」


「そうだ」


 レムスはすぐに紙を用意する。


 エドガルは窓の外を見た。


 王都の空は晴れている。


 だが、彼の気分はあまり晴れなかった。


 銀狐商会も、北方旧所領も、王太子府も、少しずつ同じ机に乗り始めている。


 それは安定へ向かう流れだ。


 同時に、誰かが曖昧な余白で動く場所が減っていく流れでもある。


 その夜、北方旧所領にもクラウスからの文が届いた。


 ルイスは封を切る前から、嫌な予感がしていた。


「銀狐商会からです」


「開けましょう」


 レティシアが言う。


 文面を読んだルイスは、少し困った顔になった。


「三者確認手順案です」


「来ましたか」


 レティシアは驚かなかった。


 ロイエンは帳場の端に座り、王太子府連絡官として同席している。


「クラウス殿らしいですね」


 彼が言った。


 レティシアは紙を読み進める。


 王都側大枠協議。

 原文要旨、商会評価、現地影響。

 現地帳場記録と照合するまで確定扱いとしない。

 連絡官所見添付可。

 条件差異表。

 支払い繰越の既存条件維持。


 ルイスが言った。


「悪くない……のでしょうか」


「悪くないわ」


 レティシアは答えた。


「ただし、商会評価欄に何を書かせるかが重要です」


 ロイエンが頷く。


「商会側の利益主張が、正式な協議欄として残ります」


「ええ」


「つまり、銀狐商会の都合も紙の上で正当な席を持つ」


「その代わり、隠れて王都と条件を変える余地は減ります」


 ロイエンは微笑んだ。


「また、面倒だが使える紙ですね」


 ルイスが小さく言った。


「最近そればかりです」


 マルタが茶を置きながら答える。


「面倒な紙ほど、後で火除けになることもございます」


 レティシアは頷いた。


「三者確認案への返答を作ります。基本受け入れ。ただし、商会評価欄には根拠を必須。利益見込み、輸送負担、価格変動、支払い条件のいずれに関わる評価か分類すること」


 ルイスが書く。


「現地影響欄には、町負担、輸送責任、炊事場負担、警備負担、帳場記録負担を含める」


「はい」


「王太子府評価欄も必要です。王都側大枠協議なら、王太子府の意向だけでなく、その根拠も」


 ロイエンが、少しだけ眉を上げた。


「王太子府評価欄も、ですか」


「三者ですので」


「なるほど。商会だけでなく、王太子府にも根拠を求める」


「必要ですので」


 ロイエンは、もう笑うしかないというように息を吐いた。


「本当に、必要ですので、ですね」


 レティシアは静かに答えた。


「はい」


 夜、帳場では三者確認案への回答草案が作られた。


 王都、商会、辺境。


 三つの窓口。

 三つの評価。

 三つの責任。


 それぞれが都合を持っている。


 だからこそ、同じ紙に置く。


 ルイスは書き終えた後、肩を回した。


「また机が狭くなります」


「広い机を用意しましょう」


 レティシアが言うと、ルイスは少し笑った。


「物理的にですか」


「ええ。三者確認をするなら、本当に必要になるわ」


 ロイエンが言った。


「王都では、こういう時、まず部屋を整えます」


 豆売りの女主人がいたら、きっと「こっちは机を広げるところからだよ」と笑っただろう。


 ルイスは、それを思い浮かべて少しだけ笑った。


「追記をお願いします」


 レティシアは、しばらく考えた。


 王都の窓口。

 銀狐商会の窓口。

 辺境の帳場。


 窓口が増えれば、風も増える。

 風が増えれば、紙は飛びやすくなる。


 けれど、窓を閉じきれば、息が詰まる。


 必要なのは、窓をなくすことではない。


 風の向きを記録することだ。


 彼女は口述した。


 窓口が増えると、言葉は逃げやすくなる。王都ではこう言った、商会ではこう聞いた、現地では違うと言われた。そうして責任は風のように散る。ならば、三つの窓を同じ紙に描く。どこから風が入り、どこで荷が動き、誰が利益を得て、誰が負担を持つのか。窓を閉じるのではなく、風の通り道を残す。


 ルイスは、最後の一文を書き終えた。


 外では、中継小屋の火が揺れている。


 王都と銀狐と辺境。


 三つの場所で、同じ取引を違う角度から見る紙が動き始めた。


 これで争いが消えるわけではない。


 むしろ、争う場所がはっきりする。


 だが、はっきりした争いなら、少なくとも誰か一人にだけ荷を背負わせることは避けられる。


 そのための、また新しい紙だった。

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