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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第122話 赤札、王太子の前へ

 王太子府式進行確認会。


 そう名づけられた会議は、名前だけなら立派だった。


 だが、実際に会議室へ運び込まれたものは、立派というより、重かった。


 赤札のついた紙束。


 殿下確認待ち。

 補佐官確認待ち。

 王妃宮返答待ち。

 外務儀典照合待ち。

 商務資料不足。

 本人確認未了。


 机の上へ置かれるたび、紙束が小さな音を立てる。


 その音が、アルベルトにはやけに耳についた。


 これまで、自分の府は整っていると思っていた。


 王太子府には補佐官がいる。

 書記官がいる。

 侍従がいる。

 女官がいる。

 外務儀典や商務係との連絡もある。


 すべてが、自分の言葉を中心に動いているはずだった。


 だが、机の上に積まれた赤札は、違うことを告げていた。


 動いているのではない。


 止まっている。


 そして止まっている場所には、名前がついている。


「始めろ」


 アルベルトは、低く言った。


 エドガル・ヴァイスナーが一礼する。


「では、第一回王太子府式進行確認会を始めます。目的は、赤札文書の滞留状況を確認し、処理者、処理予定日、札の移行可否を定めることです」


 その言い方が、アルベルトには少し気に入らなかった。


 まるで辺境の帳場のようだ。


 そう思った。


 だが口には出さなかった。


 出せば、この会議そのものを否定することになる。


 王妃の付箋。

 ロイエンの所見。

 赤札の山。

 それらが、彼をこの椅子へ座らせていた。


 最初の紙束は、殿下確認待ちだった。


 レムスが読み上げる。


「地方貴族謁見順、十二件中四件が殿下確認待ちです」


「なぜ俺が見る必要がある」


「侯爵家以上、または外交関係を含む家であるためです」


「それは前にも聞いた。では、残りは?」


「残り八件は補佐官確認へ移行済みです」


「四件の中で、本当に俺が見るべきものはどれだ」


 レムスが一瞬だけ詰まった。


 エドガルが助け舟を出すより早く、中堅書記官が恐る恐る口を開いた。


「恐れながら、殿下。四件のうち、実際に殿下のご判断が必要なのは二件かと存じます」


 会議室の空気が揺れた。


 補佐官室の者が、王太子の前で「不要」を言った。


 以前なら、誰かが顔色を変えて止めていたかもしれない。


 アルベルトは、その書記官を見た。


「理由は」


 中堅書記官は喉を鳴らし、それでも答えた。


「二件は、過去の謁見順を踏襲すれば処理可能です。殿下の新たなご判断が必要なのは、隣国大使と関わりのある家、および王妃宮慈善市の後援に関わる家の二件です」


 アルベルトは紙を見た。


 言われてみれば、その通りだった。


 自分の確認待ちとして積まれていたが、自分でなくても処理できるものが混ざっている。


「では二件は補佐官確認へ移せ」


「はい」


 レムスが赤札を書き換える。


 殿下確認待ちから、補佐官確認へ。


 たったそれだけで、アルベルトの前の束が薄くなる。


 薄くなると、少し息がしやすい。


 だが同時に、苛立ちも湧いた。


「なぜ最初から分けていない」


 誰もすぐには答えなかった。


 エドガルが静かに言う。


「これまで、殿下確認の範囲が広く扱われていたためです」


「広く扱われていた?」


「はい。念のため殿下へ、という運用が多くございました」


「念のためで俺の机に積むな」


 言ってから、アルベルトは自分で少し驚いた。


 自分の口から、そんな実務的な文句が出るとは思わなかった。


 エドガルは頭を下げた。


「今後、殿下確認基準を明文化します」


「作れ」


「承知しました」


 また紙が増える。


 だが、今度の紙は必要に思えた。


 次の束は、補佐官確認待ちだった。


 これが一番多い。


 エドガルの目が、ほんの少しだけ冷えた。


 レムスが読み上げる。


「補佐官確認待ち、二十一件。うち、王太子妃候補関連六件、銀狐商会関連四件、連絡官派遣関連三件、儀典返礼五件、その他三件です」


 アルベルトはすぐに言った。


「多い」


「はい」


 エドガルは認めた。


「処理中のものが多くございます」


「何日止まっている」


 レムスが紙を見る。


「最長で五日です」


「五日?」


 アルベルトの声が少し低くなった。


「何が五日止まっている」


 レムスは、一瞬だけエドガルを見た。


 エドガルは小さく頷く。


「王太子妃候補関連、茶会返礼文の一部です」


「エミリアのか」


「はい」


 アルベルトの眉が動く。


「なぜ止まっている」


 エドガルが答えた。


「返礼文に添える一文について、補佐官室内で判断が分かれました。エミリア様ご自身の言葉をどの程度入れるか、という点です」


「本人の言葉なら入れればいい」


 アルベルトは即答した。


 エドガルは、少しだけ間を置いた。


「以前は、王太子妃候補としての文面は整った定型を優先しておりました」


「それで遅れたのか」


「はい」


 アルベルトは、明らかに不満そうな顔をした。


「エミリアは最近、自分で検討意見を書いている」


「はい」


「なら、本人の言葉を完全に消す必要はない」


 会議室の端に控えていた女官長補佐が、少しだけ顔を上げた。


 アルベルトは続ける。


「ただし、乱れた文では困る。本人の趣旨を残し、文を整える。そういう扱いにしろ」


 レムスがすぐ記録する。


 王太子妃候補返礼文:本人趣旨を残し、文面整備。定型のみへの置換は不要。


 女官長補佐が小さく息を吐いた。


 安堵の息だった。


 アルベルトはそれに気づいた。


「何かあるのか」


 女官長補佐は少し迷ったが、答えた。


「失礼ながら、殿下。エミリア様は、ご自身の気づきを紙に残し始めておられます。それをすべて定型に戻しますと、エミリア様ご本人も、自分の言葉が不要なのだと感じられるかもしれません」


 その言葉は、静かだった。


 だが、アルベルトには刺さった。


 自分の言葉が不要。


 エミリアは、そう感じていたのか。


 いや、感じていたかもしれない。


 自分は彼女に笑っていてほしかった。

 だが、笑うだけでは王太子妃候補の席には座れない。


 そして実務をさせようとすれば、今度は彼女の言葉を整えすぎて消す。


 それでは、彼女は何をすればよいのかわからなくなる。


「……消すな」


 アルベルトは短く言った。


「整えろ。だが、消すな」


「承知いたしました」


 女官長補佐が深く頭を下げた。


 エドガルは、その様子を見ていた。


 アルベルトがエミリアの言葉を残せと言った。


 これは悪くない。


 むしろ、エミリアを王太子府の中で役に立つ存在として置くには必要な流れだ。


 ただし、注意がいる。


 彼女の言葉が増えれば、彼女の未熟さも見える。

 見えるものは、守らなければならない。


 次の紙は、銀狐商会関連だった。


 王太子府宛てに届いた銀狐商会本部からの照会。


 北方旧所領での取引窓口について。

 王太子府連絡官が現地に入ったことに伴い、王都側との調整窓口を確認したいという内容だった。


 アルベルトは、文面を読んで眉を寄せた。


「銀狐商会も早いな」


 エドガルは答える。


「商会は王都の動きに敏感です」


「こちらへ直接来るつもりか」


「その可能性があります」


「北方旧所領は何と言っていた」


 レムスが北方旧所領側の条件を読み上げる。


「北方旧所領の鉱石を扱う限り、現地帳場記録を通らない取引は認めない。王都との大枠協議がある場合も、現地帳場の事前確認なしに数量、品質、輸送責任、価格、支払い条件を確定しない」


 アルベルトは、少し前ならこの文で怒っただろう。


 王太子府を軽んじるのか、と。


 だが今は、別のことを考えた。


 もし王都で大枠だけ決め、現地が実務だけ負う形になればどうなるか。


 破損した時、誰が責任を取る。

 数量差が出た時、誰が説明する。

 支払いが繰り越された時、誰が損をかぶる。


 ロイエンの所見にあった。


 重いが、現場改善へ接続される仕組み。


 その現場を飛ばして大枠を決めれば、仕組みは崩れる。


「銀狐商会には、王都側窓口を置く。ただし、取引条件の確定は現地帳場記録を前提にする、と返せ」


 エドガルの目がわずかに動く。


「よろしいのですか」


「王太子府が現地記録を無視して取引を決めたと言われる方が面倒だ」


 アルベルトは不機嫌そうに言った。


「それに、銀狐商会が都合よく王都と辺境を使い分けるのも気に入らん」


「承知しました」


 レムスが記録する。


 銀狐商会王都側照会:王太子府窓口設置。ただし取引条件確定は北方旧所領現地帳場記録を前提。王都・現地間の条件差異を禁止。


 エドガルは内心でまた一つ計算を組み直した。


 アルベルトが、銀狐商会に対して現地帳場記録を前提にすると言った。


 これはレティシア側にかなり有利な判断だ。


 だが、王太子府の権威を守る判断でもある。


 銀狐商会に王都と現地を使い分けられれば、王太子府の方が商会に利用される。


 アルベルトは、それを嫌った。


 悪い兆候ではない。


 ただ、エドガルにとっては、使える余白がまた一つ減った。


 会議は続いた。


 王妃宮返答待ちの紙は、照会先を明確にして再送。

 外務儀典照合待ちは、最新版を一本化。

 商務資料不足は、提出期限を明記。

 本人確認未了のうち、エミリアに関わるものは青札へ移し、本人検討意見を待つ形に変更。


 赤札の山は、目に見えて低くなった。


 会議の最後、アルベルトは机の上を見た。


 赤札はまだ残っている。


 だが、山ではなくなっていた。


 彼は小さく息を吐いた。


「……動くものだな」


 誰に言ったのでもない声だった。


 エドガルが答える。


「見える形にしたことで、処理しやすくなりました」


「面倒だがな」


「はい。面倒です」


 アルベルトは、わずかに笑った。


「お前が認めるなら、よほど面倒なのだろう」


「否定できません」


 会議室に、ほんの少しだけ空気の緩みが生まれた。


 それは大きな変化ではない。


 だが、王太子府にとっては珍しい変化だった。


 その日の夕方、エミリアの部屋へ、青札のついた紙が届いた。


 茶会返礼文。


 そこには、彼女が書いた短い理由が残されていた。


 ローゼン侯爵夫人とミュラー伯爵夫人は、前回茶会で会話が弾まず、互いに遠慮が見えたため、席を一つ離す案を検討。対立ではなく、場の温度を保つため。


 その下に、補佐官室が整えた文がある。


 前回の茶会における会話の流れを踏まえ、双方が自然に歓談できるよう席次を調整する案。


 エミリアはそれを見て、しばらく黙っていた。


 自分の言葉が、消えていない。


 整えられている。


 でも、消えていない。


 リーナがそっと言う。


「エミリア様の趣旨が残っておりますね」


「ええ」


 エミリアは、紙を指でなぞった。


「私の言葉、変じゃなかったのね」


「変ではございませんでした」


「でも、整えてもらうと、ちゃんと王太子府の文になる」


「はい」


 エミリアは、小さく笑った。


 その笑みは、安堵に近かった。


「お姉様は、こういうのをずっとしていたのかしら」


 リーナは答えに迷った。


 だが、エミリアは続けた。


「でも、私はお姉様と同じじゃなくていいのよね」


 それは、誰かに確認するような声だった。


 リーナは、深く頷いた。


「はい。エミリア様には、エミリア様のお役目がございます」


 エミリアは、青札の紙を大切そうに封筒へ入れた。


「これも、検討控えに残して」


「はい」


 夜、王妃宮では、第一回進行確認会の報告がエレオノーラへ届いた。


 赤札の山が減ったこと。

 殿下確認基準が作られること。

 エミリアの本人趣旨を残す方針が決まったこと。

 銀狐商会に対し、現地帳場記録を前提とする返答を出すこと。


 セラフィナが読み終えると、王妃は静かに頷いた。


「よく動きましたね」


「はい」


「アルベルトが、自分の机で止まっているものを見たのが大きかったのでしょう」


「王太子府式進行確認会、とのことです」


 セラフィナの声に、少しだけ笑いが混じった。


 エレオノーラも、薄く微笑んだ。


「名前はどうでもよいのです。動くなら」


「辺境の真似ではない、と殿下はおっしゃるでしょうね」


「言わせておきなさい」


 王妃は茶器を置いた。


「人は、真似だと認める前に、形だけ借りることがあります。形を借りているうちに、自分のものになることもある」


「王太子府も、そうなるでしょうか」


「なるかどうかは、次の赤札次第です」


 王妃の声は静かだった。


 進んだ。


 だが、終わってはいない。


 赤札は減ったが、なくなったわけではない。

 エドガルの計算も残っている。

 ロイエンは北方旧所領で測り続けている。

 銀狐商会は王都と辺境の両方を見ている。

 白蔦会の影は、まだ深い。


 それでも、王都の机で一つの山が低くなった。


 それは、確かに意味のあることだった。


 同じ夜、フェルナー監査官も報告を読んでいた。


 ハンスが少し明るい声で言う。


「殿下確認基準が作られるそうです」


「ようやくか」


「銀狐商会についても、現地帳場記録を前提にすると」


「妥当だ」


「エミリア様の本人趣旨を残す方針も決まりました」


 フェルナーは少しだけ目を上げた。


「それはよい」


「監査官が、そういうことを気にされるとは思いませんでした」


「人の言葉を全部消せば、後で誰の判断かわからなくなる」


「それも記録ですか」


「そうだ」


 フェルナーは紙を閉じた。


「ただし、喜ぶのは早い」


「はい」


「赤札は減った時より、増えた時に本性が出る」


 ハンスはすぐに記録した。


 赤札増加時の対応に注意。


 フェルナーは、それを見て小さく頷いた。


 王都も辺境も、少しずつ変わっている。


 だが、変わる時ほど、戻そうとする力も働く。


 紙は動いた。


 次は、人がどう動くかだ。

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