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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第118話 視察という名の測定

 ロイエン連絡官の滞在初日は、何事もなく終わった――と記録するには、少し早かった。


 たしかに、騒ぎは起きなかった。


 怒声もない。

 証拠棚へ近づこうとする者もない。

 町人が泣き出すこともない。

 ガレスが余計なことを言って帳場へ走り込んでくることも、ひとまずなかった。


 けれど、何事もなかったわけではない。


 王都から来た人間が町の中を歩くだけで、空気は変わる。


 市場の声が少し細くなる。

 井戸場の手が少し遅れる。

 荷車の男たちが、いつもより背筋を伸ばす。

 豆売りの女主人でさえ、露店の前に並べた豆袋の口を、いつもよりきっちり結んでいた。


 レティシア・エーヴェルシュタインは、その変化を帳場の窓から見ていた。


 ロイエンはまだ客舎にいる。


 朝の行動予定を提出する前だ。


 にもかかわらず、町はもう彼の存在を意識している。


 王都という名は、それだけで重い。


 ルイスが机の上で行動記録板の写しを整えながら言った。


「本日の予定申請は、まだ届いていません」


「到着日の翌朝ですもの。遅くはないわ」


「でも、朝一番に来ると思っていました」


「こちらに待たせる感覚を測っているのかもしれない」


 ディルクが低く言った。


 ルイスは顔を上げる。


「待たせる感覚、ですか」


「相手が焦って催促すれば、こちらが余裕を失っているとわかる」


「……なるほど」


 ルイスは少し嫌そうな顔をした。


「では、待ちます」


「ええ。予定申請が来るまでは、こちらの仕事を進めましょう」


 レティシアは銀狐商会の支払い記録へ目を落とした。


 王都連絡官が来たからといって、豆は数えられるのを待ってはくれない。

 油壺は勝手に記録されない。

 銀狐商会との繰越条件も、目を離せばすぐ曖昧になる。


 帳場は、王都だけを見ているわけにはいかなかった。


 朝二刻を少し過ぎた頃、ロイエン付きの書記官が客舎から帳場へ来た。


 手には予定申請書。


 ルイスが受け取り、読み上げる。


「本日の行動予定。午前、帳場にて監査改善事項進捗確認。昼前、中継小屋視察。午後、市場および井戸場視察。夕刻、行動記録提出。同行者、ロイエン連絡官、王太子府書記官、随行兵一名。北方旧所領側立会人、指定願う……」


 ルイスは顔を上げた。


「市場と井戸場が入っています」


「初日から町を見るつもりね」


 ディルクが言った。


「こちら側立会人はどうしますか」


「帳場は私とルイス。中継小屋はディルク、ガレス、ヨハン。市場は豆売りの女主人にも立ち会ってもらいましょう。井戸場は井戸番の兵を」


「承知しました」


 ルイスは立会人欄を書き入れる。


 その横でマルタが静かに言った。


「お茶はお出ししますか」


「帳場での確認時だけ」


「市場では?」


「出さなくていいわ」


「では、炊事場にも伝えておきます。王都の方が突然“少し水を”と言われた時のために」


 ルイスが筆を止めた。


「それも記録対象ですか」


 マルタは平然と答える。


「水だけなら、おそらく不要でございます。ただし、水をきっかけに世間話が始まることはございます」


 ディルクが低く笑った。


「マルタ殿は戦場を知っている」


「台所も戦場でございます」


 レティシアは小さく頷いた。


「炊事場にも、保留の文を貼っておいて」


「すでに貼っております」


「早いわね」


「必要ですので」


 その言葉に、ルイスが少し笑った。


 帳場の合言葉は、ずいぶん広がったものだ。


 午前の進捗確認は、思ったより穏やかに始まった。


 ロイエンは客舎から帳場へ時間通りに現れた。


 行動記録板には、自筆で記入してある。


 朝二刻半、北門側客舎出発。目的、帳場における監査改善事項進捗確認。同行者、書記官一名、随行兵一名。


 ルイスはそれを確認し、帳場側記録へ写した。


 ロイエンは、その様子を眺めながら言う。


「こちらの記録を、さらにそちらで写すのですね」


「はい。双方記録です」


「信用されていないようで、少し寂しいものです」


 柔らかい声だった。


 だが、ルイスはもう慌てなかった。


「後で食い違いが出た時、確認できるようにするためです」


「食い違う前提ですか」


「食い違わないようにするためです」


 ロイエンは、少しだけ笑った。


「記録官殿は、答えが上手くなられましたね」


 ルイスは耳を赤くしたが、視線は紙から離さなかった。


「必要ですので」


「なるほど」


 レティシアは、改善事項進捗表を机に置いた。


「本日は、監査所見に基づく改善事項のうち、王太子府への仮報告手順、重要荷受け渡し記録、証人保護手順、銀狐商会取引記録について説明します」


「お願いします」


 ロイエンはきちんと聞いた。


 少なくとも、聞いているように見えた。


 質問も、最初は妥当だった。


「王太子府への仮報告は、どの時点で送りますか」


「銀狐商会との取引条件が草案段階で固まった時点。数量、品質、支払い条件、輸送責任範囲が記載可能になった段階です」


「草案段階で?」


「確定後では、王都側の確認が遅れます。確定前なら修正余地があります」


「では、王都側が修正意見を出した場合、現地帳場は従うのですか」


「意見の内容によります」


「従わないこともある?」


「あります」


 ロイエンの目が少し細くなった。


 ルイスの筆が走る。


 レティシアは続けた。


「ただし、従わない場合は理由を記録します。逆に、王都側の意見を採用する場合も、採用理由を記録します」


「王太子府の意見にも、理由を求める?」


「取引条件に影響するためです」


「なるほど。王太子府の助言も、銀狐商会の条件と同じく秤にかけるわけですね」


 少し毒のある言い方だった。


 ルイスの筆が止まりかける。


 レティシアは静かに返した。


「秤にかけるのは、助言そのものではなく、取引への影響です」


 ロイエンは、今度は本当に感心したように頷いた。


「言葉の置き方がお上手だ」


「必要ですので」


 帳場に、一瞬だけ奇妙な間が生まれた。


 ロイエンがその言葉を聞くたび、何かを測っているのがわかる。


 必要ですので。


 便利な盾だ。

 同時に、逃げ道でもある。

 どこまでが本当の必要で、どこからが帳場の都合か。


 ロイエンはおそらく、それを探している。


 進捗確認が一刻ほど続いた後、予定通り中継小屋へ移動した。


 中継小屋では、ガレスが朝から落ち着かなかった。


 油壺の札を確認し、薪置き場を確認し、荷受け板を拭き、また油壺の札へ戻る。


 ヨハンが呆れた顔で言った。


「お前、板を拭きすぎて字まで消すなよ」


「消しませんよ」


「緊張しすぎだ」


「緊張しますよ。あの人、にこにこしてるのに怖いんです」


「それはわかる」


 豆売りの女主人が露店から顔を出した。


「怖いと思ってるうちは大丈夫だよ」


「どういう意味ですか」


「怖くないと思った時の方が、口が滑る」


「……気をつけます」


 中継小屋へロイエンが来ると、ガレスは背筋を伸ばした。


 ロイエンは、まず薪置き場を見た。


 三つに分けられた薪。

 それぞれに札。

 補充日。

 担当者名。

 湿り具合の簡単な印。


「火災後に分散したと聞いています」


 ロイエンが言う。


 ガレスは、ちらりとディルクを見た。


 ディルクが頷く。


 答えてよい質問だ。


「はい。まとめて燃えると困るので」


「効率は落ちませんか」


「落ちます」


 ガレスは正直に答えた。


 ルイスが、少し離れた立会記録板へ書く。


 ロイエンは続ける。


「効率が落ちても続ける理由は?」


「全部燃えるよりましだからです」


 ヨハンが横で笑いをこらえた。


 ロイエンも微笑む。


「わかりやすい」


 ガレスは少し顔を赤くした。


「すみません。うまく言えなくて」


「いえ。とてもよい答えです」


 ロイエンは、次に油壺の札を見た。


「油壺の移動記録は、現場の負担になっていませんか」


 来た。


 ディルクの視線がわずかに動く。


 ガレスは口を開きかけ、閉じた。


 負担にはなっている。


 それは事実だ。


 面倒だ。

 字を書くのも慣れない。

 荷が詰まることもある。


 だが、それをどう言えばいいのか。


 ロイエンは、優しく待っている。


 待たれると、余計に答えなければならない気がしてくる。


 ガレスは、掲示の言葉を思い出した。


 今は答えられません。

 帳場で記録してください。


 でも、この質問は答えられないわけではない。


 負担です、と言えばいいのか。

 でも、それが帳場への不満として使われたらどうする。


 ガレスが迷っていると、ヨハンが横から言った。


「それ、追加質問ですか?」


 ロイエンの視線がヨハンへ移る。


「現場視察における確認です」


 ヨハンはにこりと笑った。


「じゃあ、記録してください。油壺記録の負担についての質問、って」


 ルイスがすぐに書いた。


 ロイエンは、その様子を見てから頷いた。


「よろしいでしょう。質問内容、油壺移動記録は現場負担になっているか。質問理由、現地運用状況確認。元発言……いえ、これは視察事項ですね」


 ロイエン自身が書記官へ言う。


 王太子府書記官も記録する。


 それを確認してから、ディルクがガレスを見る。


「答えるか、保留するか」


 ガレスは少し考えた。


 そして、ゆっくり言った。


「答えます」


「どうぞ」


 ロイエンは微笑む。


 ガレスは、手元の油壺札を見ながら言った。


「負担です。正直、面倒です。字を書くのも遅いし、忙しい時は邪魔です」


 ルイスの筆が走る。


 ロイエンの目に、わずかな光が差した。


 だがガレスは続けた。


「でも、ないと怖いです」


「怖い?」


「はい。誰が動かしたかわからない油壺がある方が、今は怖いです。火事の時、また誰のせいかわからなくなるのは嫌なので」


 中継小屋が静かになった。


 ヨハンが、軽く頷く。


 豆売りの女主人も、少し離れた露店からこちらを見ていた。


 ロイエンは、しばらくガレスを見た。


 その答えは、彼が欲しかったものとは少し違っていた。


 負担です。


 そこまではいい。


 だが、ないと怖い。


 帳場の重さは確かにある。

 しかし、その重さを現場がただ嫌っているわけではない。


 火災の記憶が、記録の必要を支えている。


 ロイエンは静かに言った。


「つまり、重いが必要だと」


 ガレスは頷いた。


「はい。重いけど、持った方がいい荷物です」


 ヨハンが小さく笑った。


「今日はうまいこと言ったな」


「茶化さないでくださいよ」


 ルイスは、その言葉も記録した。


 ガレス発言:油壺記録は負担だが、誰が動かしたかわからない方が怖い。重いが、持った方がいい荷物。


 ロイエンは、その記録を横目で見た。


 これは使いにくい。


 不満であり、同時に支持でもある。


 単純に「帳場が現場へ負担をかけている」とは書けない。


 少なくとも、今この場の記録では。


 昼前の中継小屋視察が終わる頃、ロイエンは一度だけ市場の方へ目を向けた。


 豆売りの女主人が、腕を組んで待っている。


 彼女は自分から近づいては来ない。


 だが、逃げもしない。


 ロイエンは近づき、軽く一礼した。


「以前の公開記録日では、率直なご意見を述べられたそうですね」


 女主人は眉を上げた。


「どの意見だい? だいたい率直だからね」


 ヨハンが吹き出しかけた。


 ルイスは咳払いをした。


 ロイエンは笑った。


「豆の配分についてです」


「それなら言ったよ。町内分ばかり増やされても、外売りが減ったら次の仕入れができないって」


「その後、改善されましたか」


「少しはね」


「完全ではない?」


「完全な豆なんてないよ」


「……と、言いますと?」


 女主人は豆袋の口を結び直しながら答えた。


「飢えない分は残す。売る分も残す。次の仕入れの銭もいる。全部ちょうどよくなんて、毎回できるわけないだろ。だから毎週見るんだよ」


 ロイエンは目を細めた。


「毎週、帳場で?」


「そうさ」


「手間では?」


「手間だよ」


「それでも?」


 女主人はロイエンをじっと見た。


「手間を惜しんで豆が消えたら、腹が減るのはこっちだ」


 短い言葉だった。


 だが、強かった。


 ロイエンは一礼した。


「勉強になります」


「本当にそう思ってるなら、記録しな」


「もちろん」


 王太子府書記官が慌てて筆を動かす。


 ルイスも記録する。


 豆売りの女主人は、その二人を見比べて、ふんと鼻を鳴らした。


「王都の紙と辺境の紙、同じこと書いてるかあとで見たいね」


 ロイエンは笑みを深めた。


「比較をご希望で?」


「必要ならね」


 その言葉に、ルイスが少しだけ笑った。


 必要なら。


 町にも、その言葉が根づき始めている。


 午後の井戸場視察でも、大きな問題は起きなかった。


 井戸番の兵は、夜番負担について問われると、事前に記録された改善表を示した。


「以前よりは改善しています。ただし証拠棚警備と重なる日は負担が重いです」


 ロイエンが問う。


「負担が重いと、帳場へ不満を?」


「はい」


「兵が不満を言うのですか」


 井戸番の兵は、少しだけ表情を変えた。


 これは危うい問いだ。


 兵が不満を言う。


 忠誠に関わるようにも聞こえる。


 彼はすぐに答えず、ルイスを見た。


 ルイスが頷く。


「回答保留しますか?」


 井戸番の兵は少し考え、首を横に振った。


「答えます」


 そして、ロイエンへ向き直った。


「不満ではなく、勤務上の支障として報告します。疲れて見張りが甘くなれば、守るべきものを守れません」


 ロイエンは、ほんの少しだけ眉を上げた。


「なるほど。王都風の言い方ですね」


「王都風かどうかは知りません。必要な言い方です」


 ディルクが、微かに口元を動かした。


 ルイスは、もちろん記録した。


 夕刻、ロイエンは客舎へ戻る前に帳場へ寄り、日次行動記録を提出した。


 王太子府側記録と、北方旧所領側記録を照合する。


 差異は三点。


 一、北門から帳場までの道中での掲示確認について、王太子府側は記載なし。

 二、中継小屋での油壺記録負担質問について、王太子府側は「現場負担確認」と記載。北方旧所領側は質問文と回答を詳細記録。

 三、井戸番への「兵が不満を言うのですか」という問いについて、王太子府側は「夜番負担確認」と要約。北方旧所領側は問いの原文を記録。


 ルイスは、少し緊張しながら言った。


「差異があります」


 ロイエンは王太子府側の記録を読み、穏やかに頷いた。


「確かに、こちらは要約していますね」


「併記しますか」


「しましょう」


 あっさりした返答だった。


 ルイスは少し驚いた。


 ロイエンは、それを見て微笑む。


「驚かれましたか」


「……少し」


「私は連絡官です。決められた手順には従います」


 その言葉を、ルイスは記録した。


 ただし、心の中では思った。


 従っている。

 たしかに従っている。


 でも、従いながら見ている。


 どの問いが揺れるか。

 誰が保留するか。

 どの記録が詳しくなり、どの記録が要約されるか。


 ロイエンは、手順の中で動くことを覚え始めている。


 それが少し怖かった。


 夜、帳場では初日の視察記録がまとめられた。


 ガレスの発言。

 豆売りの女主人の発言。

 井戸番の兵の回答。

 王太子府側記録との差異。

 差異併記。


 ルイスは最後に顔を上げた。


「追記をお願いします」


 レティシアは、少し考えた。


 初日は守れた。


 だが、勝ったわけではない。


 ロイエンは崩れなかった。

 手順を破らなかった。

 むしろ、手順の中でこちらを測っていた。


 そのことを、残しておく必要がある。


 彼女は口述した。


 相手が手順を破らない時ほど、安心してはならない。手順を守る者もまた、手順の中でこちらを見る。どの問いで迷い、どの言葉で保留し、どの負担を必要と呼ぶのか。今日、町は守られた。だが同時に、町も測られた。守ることと測られることは、同じ場で起こる。


 ルイスは、ゆっくりと書いた。


 外では、北門側客舎の灯りがまだ消えていない。


 その窓の向こうで、ロイエンもまた今日の記録を読み返しているのだろう。


 王都の紙と辺境の紙。


 二つの記録は、同じ町を別の角度から見始めていた。

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