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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第117話 連絡官、北門に立つ

 ロイエン副使が北方旧所領へ入ったのは、予定より一日遅れた昼前だった。


 雨で南道の一部がぬかるみ、第二宿場で車輪の金具を締め直したらしい。

 その遅延連絡は、宿場の通過札として先に届いていた。


 王都連絡官一行、第二宿場到着。

 封筒および携行文書箱、封印異常なし。

 車輪補修のため半日遅延。

 同行者、書記官一名、随行兵二名。

 連絡官、バルド・ロイエン。


 ルイスはその札を受け取った時、思わず眉を寄せた。


「向こうも、ちゃんと通過札を送ってきていますね」


 レティシアは頷いた。


「フェルナー監査官の影響でしょうね」


「ありがたいですが……ロイエン副使が素直に従っていると思うと、少し不思議です」


「素直に従っているとは限らないわ」


 レティシアは窓の外を見た。


 中継小屋の火は、雨上がりの湿った空気の中で白く煙っている。


「ただ、従わない方が損になる形になっているだけ」


 それが手順というものだ。


 誰かの善意に頼らない。

 相手が誠実でなくても、誠実に振る舞った方が得になる形を作る。


 それは冷たい考え方かもしれない。


 けれど、今の北方旧所領には必要だった。


 ロイエンの馬車が見えたのは、昼の鐘が鳴る少し前だった。


 北門の前には、ディルクの兵が二名。

 帳場からはルイス。

 町側立会人としてヨハン。

 少し離れて、豆売りの女主人とガレスもいた。


「なんで俺まで」


 ガレスは小声でぼやいた。


 ヨハンが横から言う。


「顔を覚えられてるからだろ」


「嫌な理由ですね」


「いいじゃないか。今度は帳場側で立ってるんだから」


「それ、もっと嫌なんですけど」


 豆売りの女主人が鼻を鳴らす。


「嫌でも立つんだよ。前にこっそり声をかけられたのは、あんただろ」


「はい……」


「だったら、今度は堂々と帳場へ案内しな」


 ガレスは、掲示板に貼られた文をちらりと見た。


 今は答えられません。帳場で記録してください。

 答えを保留しても、怒られません。


 何度も読んだ。


 読んでも、やはり緊張は消えない。


 だが、言葉があるだけで、足元が少しだけ硬くなる気がした。


 馬車が北門へ止まった。


 王太子府の紋章が入った馬車。

 随行兵が降り、次に書記官が降りる。


 最後に、ロイエンが姿を見せた。


 以前と同じ、柔らかな笑み。


 旅の疲れを少しも見せない整った立ち姿。

 泥の跳ねた道を来たはずなのに、靴の汚れさえ計算されているように見える。


 彼は北門の内側を一度見渡した。


 掲示板。

 兵。

 ルイス。

 ヨハン。

 ガレス。

 豆売りの女主人。


 そして、門脇の小机に置かれた受領記録。


 ロイエンの目が、そこでほんの少しだけ止まった。


「出迎え、痛み入ります」


 声は穏やかだった。


 ルイスは深く一礼した。


「北方旧所領帳場記録官、ルイスです。王太子府連絡官バルド・ロイエン殿の到着を確認いたします」


 言い終えてから、彼は小さく息を吸った。


 声は震えていない。


 震えていないはずだ。


「到着時確認を行います。まず、携行文書、同行者、滞在予定の確認をお願いいたします」


 ロイエンは微笑んだ。


「門前で?」


「はい。到着時確認ですので」


「旅装を解く前に、ということですね」


「はい」


 ロイエンの書記官が少し不満そうに眉を寄せたが、ロイエンは片手で制した。


「よろしい。王太子府連絡官として、定められた手順に従います」


 その言葉を、ルイスは記録した。


 連絡官、到着時手順に従う旨発言。


 ロイエンはそれを見て、軽く笑った。


「それも記録されますか」


「はい」


「なるほど。相変わらずですね」


 ルイスは答えに迷った。


 相変わらずですね。


 それは褒め言葉ではない。

 かといって、明確な非難でもない。


 以前なら、ここで焦ったかもしれない。


 だが、横にいるヨハンが、さりげなく咳払いした。


 ルイスは助けられたように紙へ目を落とす。


「携行文書箱の封印確認をお願いします」


 ロイエンは少し目を細めた。


 だが、箱を出させた。


 王太子府連絡官任命書。

 職務範囲確認書。

 携行文書目録。

 王太子府印章。

 監査局確認写し。

 王立書庫送達確認用の空封筒。


 ルイスは一つずつ確認し、書いた。


 随行兵の名。

 書記官の名。

 到着時刻。

 封印状態。

 箱の外装。

 同行者数。


 ガレスはそれを見て、少しだけ目を丸くした。


 王都の偉い人が来ても、油壺と同じように確認されている。


 いや、油壺より細かい。


 その事実が、少しだけ可笑しくもあり、心強くもあった。


 ロイエンは、確認が終わるまで穏やかに立っていた。


 ただ一度だけ、ガレスの方へ視線を向けた。


「お久しぶりですね、ガレス殿」


 ガレスの背中がぴんと伸びた。


 ヨハンがすぐ横を見る。

 豆売りの女主人も腕を組む。


 ガレスは口を開きかけた。


 以前なら、何か返しただろう。


 覚えていてくださってどうも、とか。

 いや、俺なんかに殿なんて、とか。

 余計なことを言って、あとで青ざめたかもしれない。


 だが、掲示の言葉が頭に浮かんだ。


 今は答えられません。


 いや、これは挨拶だ。

 答えないのも変だ。


 ガレスは混乱しかけた。


 その時、豆売りの女主人が小さく言った。


「挨拶は挨拶。話は帳場」


 ガレスは、はっとした。


 そして、ぎこちなく頭を下げた。


「お久しぶりです。ご用件があれば、帳場で記録してください」


 ロイエンの笑みが、わずかに止まった。


 ヨハンが横で口元を押さえる。


 ルイスは筆を止めそうになったが、必死に記録を続けた。


 ロイエンはすぐに笑みを戻した。


「これは手厳しい。挨拶まで記録へ送られてしまうのですか」


 ガレスは困った顔で答えた。


「挨拶は、しました」


「では、世間話は?」


 その問いは柔らかかった。


 だが、周囲の空気は一瞬で張った。


 ガレスは今度こそ、掲示の言葉をそのまま使った。


「今は答えられません。帳場で記録してください」


 声は少し震えた。


 けれど、言い切った。


 ルイスは、その一文を記録した。


 連絡官よりガレスへ世間話可否の問い。ガレス、回答保留例に基づき帳場記録を求める。


 ロイエンは、少しだけ目を伏せた。


「なるほど。よく準備されていますね」


 レティシアがいれば、こう答えただろう。


 必要ですので、と。


 だがその場にレティシアはいない。


 代わりにルイスが、ゆっくり言った。


「必要ですので」


 自分で言ってから、ルイスは内心で驚いた。


 声が思ったより落ち着いていた。


 ロイエンはルイスを見た。


 以前の若い記録官なら、少し視線を向けるだけで揺れた。

 今も緊張はしている。


 だが、紙から目をそらさない。


「では、帳場へ参りましょう」


 ロイエンは言った。


「到着時読み合わせがあるのでしょう?」


「はい」


 北門から帳場までの道は、事前に決められていた。


 市場を通り、井戸場の横を抜け、中継小屋の手前で右へ曲がる。


 道の途中には、いくつか掲示が貼られている。


 王都連絡官滞在中。

 質問を受けて困った時は帳場へ。

 答えを保留しても怒られません。


 ロイエンは、その掲示を歩きながら読んだ。


「町全体に、ですか」


 ルイスが答える。


「はい」


「随分、警戒されていますね」


「混乱防止です」


「私が混乱を招くと?」


 ルイスは、そこで一瞬だけ言葉を選んだ。


 ロイエンの問いは、柔らかく見えて危ない。


 はい、と言えば敵意。

 いいえ、と言えば手順の必要性が薄れる。


 彼は紙を抱え直し、答えた。


「誰が来ても、同じ手順です」


 ロイエンは、今度は笑わなかった。


「よい答えです」


 それは、初めて少しだけ本音に近い声だった。


 帳場の前では、レティシアが待っていた。


 黒に近い紺の実務服。

 過度な飾りはない。

 髪は後ろでまとめられ、手元には職務範囲確認書の写しがある。


 その隣にディルク。

 後ろにマルタ。

 帳場の机には、読み合わせ用の紙、行動記録板、来訪者記録、滞在予定表が整えられていた。


 ロイエンは、深く一礼した。


「レティシア様。王太子府連絡官として参りました。滞在中、よろしくお願いいたします」


「北方旧所領領主代行として、受け入れます」


 レティシアは静かに答えた。


「到着時確認に続き、職務範囲読み合わせを行います」


「承知しています」


「読み合わせ後、署名をお願いします」


「もちろん」


 ロイエンは椅子に座った。


 レティシアも向かいに座る。


 ルイスは記録官席へ。

 ロイエンの書記官も別席に座る。

 双方記録が取られる。


 最初に、レティシアが職務範囲を読み上げた。


 連絡官の目的。

 王太子府との報告円滑化。

 改善事項進捗確認。

 銀狐商会取引に関する情報共有。

 王立書庫照合文の送達確認。


 次に制限事項。


 証人接触禁止。

 町人聞き取り手順。

 追加質問時の記録。

 回答保留。

 行動記録。

 定例確認会。

 証拠棚閲覧不可。

 王立書庫直接送達維持。


 ロイエンは最後まで黙って聞いた。


 途中、何度か小さく頷く。


 そして読み合わせが終わると、穏やかに言った。


「一点、確認を」


「どうぞ」


「町人との日常的な挨拶まで記録対象ですか」


「挨拶自体は対象外です。ただし、挨拶を越えて町内運営、帳場評価、証人関連、銀狐商会取引、王太子府への意見に触れる場合は記録対象です」


「世間話との境界が難しいですね」


「難しい場合は、記録します」


 レティシアは即答した。


「迷ったら記録、ということですか」


「はい」


 ロイエンは微笑む。


「では、私が今日の天気を話題にした場合は?」


「天気だけなら記録不要です」


「雨で道が悪かったと言えば?」


「移動記録に関わるため、到着遅延の補足として記録対象です」


「なるほど」


 ロイエンは楽しそうにすら見えた。


 だが、その楽しさは遊びではない。


 境界を探っている。


 レティシアは表情を変えなかった。


「境界を試す必要がないよう、迷う話題は帳場でお願いします」


「手厳しい」


「必要ですので」


 今度はレティシアがそう言った。


 ロイエンは一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。


「この土地では、その言葉が合言葉のようですね」


「ええ」


 ルイスが思わず顔を上げた。


 レティシアは静かに続けた。


「必要なことを必要だと言えるようにしたいと思っています」


 帳場に、少しだけ沈黙が落ちた。


 ロイエンは、その言葉を記憶した。


 必要なことを必要だと言えるように。


 美しい。


 そして危険だ。


 必要だと言える者が増えれば、誰かが勝手に不必要と決めていたものが見えてくる。


 王都にとって、これは厄介な考え方だった。


 読み合わせの最後に、署名が行われた。


 王太子府連絡官、バルド・ロイエン。

 北方旧所領領主代行、レティシア・エーヴェルシュタイン。

 北方旧所領記録官、ルイス。

 王太子府連絡官付き書記官。

 立会人、ディルク・ヴァルゼン。


 署名が終わると、マルタが茶を出した。


 ロイエンは茶器を受け取り、ふと微笑んだ。


「お茶の味まで記録されますか」


 マルタは、にこりともせずに答えた。


「毒見は済んでおりますので、ご安心くださいませ」


 ルイスが咳き込みかけた。


 ディルクは無表情を保った。


 レティシアはわずかに目を伏せた。


 ロイエンは一拍置いて、声を出して笑った。


「これは失礼しました。北方旧所領では、冗談にも足場がありますね」


「足元が悪い土地ですので」


 マルタは静かに返した。


 そのやり取りは記録されなかった。


 ただ、ルイスの記憶には残った。


 読み合わせ後、ロイエンは北門側客舎へ案内された。


 部屋には机、寝台、文書箱、行動記録板。


 ロイエンはその板を見て、少しだけ肩をすくめた。


「ここでも見守られている」


 案内役のディルクが答える。


「見守りではありません。記録です」


「違いは?」


「見守りは目を離せません。記録は後で見返せます」


 ロイエンは、少しだけ笑った。


「なるほど。あなた方は本当に言葉を選ぶ」


「必要ですので」


 ディルクまでそう言った。


 ロイエンは窓の外を見た。


 中継小屋の三つの火が見える。

 市場も見える。

 井戸場も見える。


 そして、あちこちに掲示がある。


 今は答えられません。

 帳場で記録してください。

 答えを保留しても、怒られません。


 ロイエンは低く呟いた。


「ずいぶん、町に言葉を持たせましたね」


 ディルクは答えなかった。


 その沈黙もまた、答えだった。


 夜、帳場では到着日の記録がまとめられた。


 王太子府連絡官バルド・ロイエン、北門到着。

 携行文書、同行者、封印確認。

 北門にてガレスへの挨拶および世間話可否の問いあり。

 ガレス、回答保留例に基づき帳場記録を求める。

 職務範囲読み合わせ実施。

 署名完了。

 北門側客舎へ案内。

 行動記録板設置確認。


 ルイスは最後に顔を上げた。


「追記をお願いします」


 レティシアは、少しだけ考えた。


 今日のことを、どう残すべきか。


 ロイエンは来た。


 笑顔で。

 柔らかく。

 王太子府の印を持って。


 そして町は、揺れながらも言葉を使った。


 ガレスが、答えを保留した。


 それは小さなことだった。


 けれど、最初の一歩として十分だった。


 レティシアは口述した。


 王都の名を持つ者が来ても、町の者が小さくならないわけではない。恐れは残る。声も震える。それでも、用意した言葉を使えたなら、その日は守られたと言ってよい。強さとは怯えないことではなく、怯えたまま決めた手順へ戻れることである。


 ルイスは、静かに書いた。


 外では、中継小屋の火が燃えている。


 その火の向こう、北門側客舎の窓にも小さな灯りがともっていた。


 王都の連絡官が、ついに辺境へ入った。


 紙の戦いは、今度は同じ町の空気の中で始まる。

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