第115話 保留という答え
北方旧所領から届いた再回答を読んだ時、アルベルトはしばらく黙っていた。
王太子府の執務室には、朝の光が斜めに差し込んでいる。
机の上には、三段書式で戻ってきた連絡官派遣案の続きが置かれていた。
原文要旨。
王太子府評価。
協議余地。
そして、その協議余地に対する北方旧所領側の再回答。
町人聞き取りにおける追加質問は、条件付きで認める。
ただし、質問内容、追加理由、元発言、帳場立会人の承認をその場で記録。
質問は町人本人へ読み上げる。
町人は回答保留を選べる。
回答保留を理由とした不利益は禁止。
アルベルトは、紙の上の一語を指で叩いた。
「回答保留?」
声には、露骨な不快感があった。
エドガル・ヴァイスナーは、いつものように斜め後ろに控えている。
表情は穏やかだが、目だけが紙面を冷たく見ていた。
「北方旧所領側は、町人がその場で答えを強いられないようにするための手順、と説明しております」
「王太子府の連絡官に質問されて、町人が答えを保留するのか」
「そのように求めています」
「随分と強い土地になったものだな」
アルベルトは吐き捨てるように言った。
だが、以前のように即座に「認めるな」とは言わなかった。
それをエドガルは見逃さない。
アルベルトは不快に思っている。
しかし、紙の理屈を読み飛ばさなくなっている。
それが厄介だった。
「フェルナーは何と言っている」
アルベルトが問う。
エドガルは、隣に控えるレムスへ視線を送った。
レムスが紙を一枚差し出す。
「監査局所見です。フェルナー監査官は、回答保留について“証人保護および町人聞き取りの任意性を担保する観点から妥当。ただし、保留後の再回答手順を明記する必要あり”としています」
「妥当、か」
アルベルトは苦々しく繰り返した。
「何でも妥当にするな、あの男は」
エドガルは静かに言った。
「完全に拒むのは難しいかと。王妃宮も、北方旧所領の町代表者意見記録を評価しております」
その一言で、アルベルトの眉間に皺が寄った。
王妃。
母の視線は、今やこの件の上に乗っている。
ただレティシアへ苛立つだけなら簡単だった。
だが、母が「民の不満を聞くこと」を統治の初歩として見た以上、町人へ即答を強いる手順は通しにくい。
「では、連絡官は質問しても保留される可能性がある」
「ございます」
「それで何が聞ける」
「保留された事実が記録されます」
レムスが思わず口を挟んだ。
言ってから、彼はすぐに頭を下げる。
「失礼いたしました」
アルベルトは、意外そうにレムスを見た。
「続けろ」
レムスは一瞬だけ戸惑ったが、すぐに答えた。
「町人が即答できないほどの質問だった、という記録になります。後日、帳場立会いで再回答できるなら、むしろ不用意な発言を防げます」
「王太子府が町人を脅しているように見えるのを避けるためか」
「はい」
アルベルトは黙った。
レムスの答えは、王太子府の権威を守る理屈にもなっていた。
町人がその場で混乱し、後から「王都の人にそう言わされた」と騒げば、連絡官側にも傷がつく。
回答保留の手順があれば、無理に言わせていないという記録にもなる。
アルベルトは紙を見下ろした。
「……王太子府側も守る手順、ということか」
エドガルの目が、わずかに細くなる。
まずい。
その読み方は、レティシア側に有利だ。
北方旧所領の条件が、王太子府を縛るためだけではなく、王太子府自身を守るためにもなると理解され始めている。
「その面はございます」
エドガルは認めるしかなかった。
「ただし、運用次第です。保留が濫用されれば、連絡官の聞き取りは形骸化します」
「なら、保留理由も記録させろ」
アルベルトは言った。
「答えたくない、だけでは困る」
フェルナーがいれば、すぐに「答えたくないも理由になり得る」と言ったかもしれない。
しかし、その場にフェルナーはいない。
エドガルは、慎重に落とし所を探った。
「では、“回答保留の理由は可能な範囲で記録。ただし詳細を述べられない場合は、回答準備不足、記憶確認要、帳場確認要、心理的負担などの区分で記録”としてはいかがでしょう」
アルベルトは少し考え、頷いた。
「それでよい」
レムスが記録する。
回答保留理由区分案:回答準備不足、記憶確認要、帳場確認要、心理的負担、その他。
書きながら、レムスは内心で思った。
また一つ、北方旧所領の紙が王太子府の紙を増やした。
だが、不思議と以前ほど嫌ではなかった。
面倒だ。
確かに面倒だ。
しかし、こうして区分を作れば、後で読み返せる。
後で読み返せる紙は、怒鳴り合いよりましだった。
同じ頃、王妃宮にも北方旧所領の再回答写しが届いていた。
エレオノーラは、回答保留の項目を読んで、静かに目を細めた。
「答えない時間に、名をつけましたか」
側近のセラフィナが問う。
「評価なさいますか」
「ええ」
王妃は紙を置いた。
「人は、すぐ答えなければならないと思い込むと、強い者の言葉に引っ張られます。特に、身分差がある時は」
「王太子府連絡官と町人では、差が大きいですね」
「だから保留がいる」
エレオノーラは、ふと遠い昔を思い出したように目を伏せた。
「宮でも同じです。上の者から急に問われると、下の者は本当のことではなく、相手が望む答えを探します」
「はい」
「それは忠誠ではありません。ただの防衛です」
セラフィナは深く頷いた。
「王太子府にも応用できますね」
「ええ。アルベルトにも、保留を覚えさせるべきかもしれません」
その言葉に、セラフィナは少し驚いた顔をした。
「殿下が、でございますか」
「ええ」
エレオノーラは薄く笑った。
「彼はすぐに答えを出したがる。正しいかどうかより、王太子として答えられる自分でいたがる。その焦りを、周囲に利用されることがあります」
セラフィナは、エドガルの名を口にしなかった。
王妃もまた、口にしなかった。
だが、二人の間では通じていた。
「保留は弱さではない」
エレオノーラは言った。
「王族にも必要な技術です」
午後、エミリアはその言葉を王妃から直接聞くことになった。
王妃宮の小さな書斎で、エミリアはいつものように緊張して座っていた。
手元には検討控え用の小さな紙束がある。
王妃は、北方旧所領から届いた「町人向け返答例」を彼女へ見せた。
今は答えられません。帳場で記録してください。
エミリアは、ゆっくり読み上げた。
「今は答えられません……」
「どう思いますか」
王妃に問われ、エミリアは少し考えた。
「最初は、少し失礼な言葉に見えました」
「ええ」
「でも……うらやましいです」
王妃は表情を変えずに続きを待った。
エミリアは、紙を見つめながら言った。
「私も、すぐ答えなければと思うことが多いので。殿下に聞かれた時も、夫人方に聞かれた時も、補佐官の方に聞かれた時も。わからないと言うと、何もできない人だと思われそうで」
「そうね」
「でも、すぐ答えると、後で間違っていることがあります」
「では、あなたにも必要ですね」
「保留、ですか」
「ええ」
エミリアは、自分の膝の上で指を重ねた。
「私が言ってもよいのでしょうか。今は答えられません、と」
「言い方は変えればいいわ」
王妃は紙を一枚取り、さらりと書いた。
確認してから、お返事いたします。
検討中として、お預かりしてもよろしいでしょうか。
確定前ですので、後ほど正式にお答えします。
「王都では、こちらの方が使いやすいでしょう」
エミリアは、その三つの文を見つめた。
とても簡単な言葉だ。
けれど、胸の奥に灯りがともるようだった。
答えられない。
わからない。
まだ決められない。
それを、そのまま無力として晒すのではなく、確認する時間として置く。
「これも、検討中の札と同じですね」
エミリアが言うと、王妃は微笑んだ。
「ええ。あなた自身にも、青札をつけるのです」
「私自身に」
「まだ確定していないことを、確定したふりで話さない。わからないことを、わかるふりで受けない。それは、とても大事です」
エミリアは、紙を胸元へ引き寄せた。
「覚えます」
「覚えるだけでなく、使いなさい」
「はい」
その日の夕方、さっそくその機会は来た。
王太子府の廊下で、ミュラー伯爵夫人がエミリアへ声をかけたのだ。
「エミリア様、来月の茶会では、若い令嬢たちの席を少し前へ出すと伺いましたけれど、本当ですの?」
以前なら、エミリアは曖昧に微笑んで「そうかもしれません」と答えていた。
そして後で、それが正式な話として広がってしまう。
だが今日は違った。
エミリアは少しだけ息を吸い、王妃からもらった言葉を思い出した。
「まだ検討中ですので、確認してからお返事いたします」
声は少し震えた。
けれど、言えた。
伯爵夫人は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに笑った。
「まあ、そうでしたの。では楽しみにしておりますわ」
それだけだった。
責められなかった。
馬鹿にされなかった。
場が壊れたわけでもない。
エミリアは、夫人が去った後、そっと胸を押さえた。
リーナが小声で言う。
「お見事でございました」
「心臓が跳ねました」
「でも、お答えできました」
「答えていないわ」
「保留できました」
その言葉に、エミリアは小さく笑った。
「保留できた、のね」
その夜、エミリアの検討控えに新しい一文が加わった。
ミュラー伯爵夫人より、来月茶会の若い令嬢席について質問あり。未確定のため、“確認してから返答”と回答。後日、席次確定後に正式返答予定。
小さな紙。
だが、エミリアにとっては大きな紙だった。
一方、王太子府補佐官室では、ロイエン副使が連絡官案の修正版を読んでいた。
回答保留。
追加質問記録。
保留理由区分。
日次行動記録。
三日に一度の定例確認会。
ロイエンは、読み終えてから静かに紙を置いた。
「これは連絡官ではなく、見張られる役ですね」
エドガルは向かいに座っている。
「それでも行く価値はある」
「もちろんです」
ロイエンは微笑んだ。
「ただ、町人が“今は答えられません”を覚えると、面倒ですね」
「そうさせないために行くのではなく、そう言わせた上で何を見るかだ」
「何を見る?」
「誰が保留するか。何を保留するか。誰が保留を促すか。保留の多い話題は、帳場が隠したい部分でもある」
ロイエンの笑みが深まる。
「なるほど。答えも情報。保留も情報」
「そうだ」
「それを記録されても?」
「記録されることを前提に動け」
エドガルは言った。
「こちらが記録を嫌がるほど、向こうは強くなる」
ロイエンは少し意外そうにエドガルを見た。
「ずいぶん、北方旧所領流に馴染まれましたね」
エドガルは笑わなかった。
「馴染んだのではない。相手の武器を知らなければ、折れないだけだ」
ロイエンは一礼した。
「承知しました」
だが彼の目は、まだ冷えていた。
彼は辺境へ行くつもりだ。
鎖があっても。
札があっても。
保留があっても。
人がいる限り、隙はある。
そう信じている目だった。
夜、フェルナー監査官は、王太子府から届いた保留理由区分案を読んでいた。
ハンスが横で記録を取る。
「回答準備不足、記憶確認要、帳場確認要、心理的負担、その他……」
フェルナーは頷いた。
「悪くない」
「王太子府側が出した案です」
「珍しいな」
「はい」
ハンスは少し嬉しそうだった。
「保留という考えが、王太子府にも広がっています」
「広がると、嫌がる者も増える」
「なぜですか」
「即答させれば、相手の弱さを突ける。保留されれば、突く前に記録が入る」
フェルナーは紙を机に置いた。
「記録は、言葉の速度を落とす」
「速度を」
「そうだ。速すぎる言葉は、人を傷つけることがある」
ハンスは、その言葉を書き留めた。
フェルナーは一瞬、それを止めようとしたが、やめた。
書いてもいい。
最近、そう思うことが増えた。
北方旧所領の追記の影響かもしれない。
彼は少しだけ眉を寄せた。
影響されている。
それは否定できなかった。
だが、悪い影響ではない。
王都の夜は静かだった。
辺境では、雨の中で生まれた「保留」という小さな盾が、王太子府へ戻り、王妃宮へ渡り、エミリアの言葉にもなった。
答えないことは、逃げではない。
答えるための場所を守ること。
その考えはまだ弱く、薄く、すぐ破れそうな紙のようだった。
けれど、その紙は確かに王都の机の上に置かれ始めていた。




