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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第114話 辺境へ戻る三段の紙

 王太子府からの返書が届いた時、北方旧所領では朝から雨が降っていた。


 強い雨ではない。

 山の方から細く長く流れてくる、灰色の糸のような雨だった。


 中継小屋の屋根板を叩く音が、帳場の中まで聞こえてくる。


 ガレスは朝から薪置き場の雨除けを見回り、ヨハンは荷車の車輪に布をかけ、豆売りの女主人は露店の前で豆袋に油紙をかぶせていた。


「雨の日は、紙も豆も機嫌が悪くなるね」


 豆売りの女主人がそう言ったと、あとでガレスが帳場で報告した。


 ルイスは、それを聞いて真顔で頷いた。


「紙は本当に湿気に弱いです」


「いや、そういう意味じゃなかったと思うぞ」


 ヨハンが横から言ったが、ルイスは真剣だった。


 湿った紙は破れやすい。

 インクもにじむ。

 封蝋の周りがふやけることもある。


 だから雨の日に届いた王都からの文書は、いつもより慎重に扱われた。


 受け取ったのは南門の兵。

 帳場へ運んだのはディルク配下の若い兵。

 開封前に確認したのは、レティシア、ルイス、ディルク、マルタ。


 封蝋、異常なし。

 外装、雨濡れ軽微。

 内紙、無事。

 受領時刻、朝二刻半。

 差出、王太子府補佐官室。

 監査局確認印あり。

 王立書庫照合印なし。


 ルイスがそこまで書いてから、顔を上げた。


「王立書庫の印はありませんね」


「連絡官案の王太子府側回答だからでしょう」


 レティシアは封筒を見つめた。


「ただ、監査局確認印はある」


 ディルクが低く言う。


「フェルナー監査官の目は通っている可能性が高い」


「ええ」


 レティシアは封を切った。


 中から出てきたのは、一枚ではなかった。


 まず、王太子府からの回答文。

 次に、連絡官派遣案の修正版。

 さらに、見慣れない形式の紙が添えられている。


 表題には、こうあった。


 原文要旨・王太子府評価・協議余地整理


 ルイスが、思わず瞬きをした。


「……三段になっています」


「ええ」


 レティシアは紙面に目を走らせた。


 そこには、北方旧所領側が出した受け入れ条件の要旨がまず書かれている。


 現地運営の混乱防止。

 証人保護。

 王立書庫照合中記録の保全。

 銀狐商会取引の責任範囲明確化。

 連絡官の行動記録。

 帳場閲覧時の署名。

 証人接触禁止。

 町人聞き取り手順。

 王立書庫直接送達維持。


 その横に、王太子府評価。


 連絡官の自由裁量は大きく制限される。

 しかし、監査所見および王立書庫意見と整合する部分が多く、全面拒否は困難。

 運用面で協議余地あり。


 さらに下段。


 協議余地。


 町人聞き取りにおける追加質問手順。

 偶然接触時の記録形式。

 行動記録の提出頻度。

 連絡官滞在中の定例確認会の頻度。


 ルイスは、しばらく紙を見つめていた。


「王都の文書が……少し読みやすくなっています」


 その言い方があまりにも正直で、マルタが小さく笑った。


「失礼ながら、その通りでございますね」


 レティシアも否定しなかった。


「原文と評価を分けています。以前の要約紙とは違う」


 ディルクが腕を組む。


「王太子府内で何かあったのでしょう」


「ええ」


 レティシアは、王都の机を思い浮かべた。


 アルベルト。

 エドガル。

 フェルナー。

 王妃。

 エミリア。


 誰がどこまで関わったのかはわからない。


 けれど、この紙は明らかに以前と違う。


 以前なら、北方旧所領の条件は「王太子府権限を制約」とだけ要約されただろう。

 今は、こちらの目的も書かれている。

 王太子府の評価も、評価として分けられている。

 協議すべき点も、協議余地として列挙されている。


 完全に信用できるわけではない。


 だが、話す場所ができた。


「ロイエン副使の派遣は?」


 ルイスが恐る恐る問う。


 レティシアは回答文へ目を落とした。


「候補のままです。ただし、正式派遣前に職務範囲合意が必要とされています」


「では、まだ決定ではない」


「ええ」


 ルイスは少しだけ息を吐いた。


 しかし、すぐにまた眉を寄せる。


「協議余地、ということは……ここで押し込まれる可能性がありますね」


「あるわ」


 レティシアは頷いた。


「特に、町人聞き取りの追加質問手順」


 ディルクが言った。


「現地で追加質問を認めれば、事前提出の意味が薄れる危険があります」


「だから、条件を足します」


 レティシアは新しい紙を取った。


 ルイスはもう筆を構えていた。


「追加質問を完全拒否しますか」


「いいえ」


「認めるのですか」


「認めないと、現場で不自然になる場合もあります。例えば、町人の発言に不明点があった時、まったく聞き返せないのは聞き取りにならない」


「確かに」


「ただし、追加質問は帳場立会人の承認だけでは足りないわ」


 レティシアは少し考え、口述した。


「追加質問が必要になった場合、質問内容、追加理由、誰の発言を受けたものかをその場で記録。町人本人が答える前に、質問を読み上げる。町人が回答拒否を選べることを明示する」


 ルイスの筆が止まった。


「回答拒否も、ですか」


「ええ」


「王太子府連絡官の質問を拒否できると?」


「拒否ではなく、回答保留でもいい」


 ディルクが頷く。


「その場で答えさせられる圧を減らすためですね」


「そう」


 レティシアは続けた。


「町人が回答保留を選んだ場合、後日帳場立会いで再回答可。回答しないことを理由に不利益を与えない」


 ルイスは書きながら、少し目を丸くした。


「これはかなり強いですね」


「町人を守るためよ」


 ディルクが低く言った。


「ロイエンは、沈黙を弱さとして扱うでしょうから」


「ええ。だから、沈黙にも手順をつける」


 沈黙にも手順をつける。


 ルイスは、その言葉を心の中で繰り返した。


 以前の北方旧所領では、沈黙はただの諦めだった。


 言えない。

 言っても無駄。

 言えば傷つく。

 だから黙る。


 けれど、今は違う。


 言わないことにも、答えを保留することにも、意味と場所を与える。


 それは、ただ不満を聞くよりも一段難しい。


 午前のうちに、町代表者を集めた。


 雨のせいで、皆の衣服は少し湿っていた。


 豆売りの女主人は、肩から雨避けの布を外しながら言った。


「また王都の紙かい」


「ええ」


 ルイスが答える。


「王太子府連絡官の件です」


「来る気満々だね」


 ヨハンが椅子に座りながら言う。


「雨の日に聞く話じゃないなあ」


 ガレスは、真面目な顔で手を上げた。


「追加質問って何ですか」


 レティシアは、できるだけわかりやすく説明した。


 事前に質問項目を出す。

 けれど、話している途中で聞き返したいことが出る場合がある。

 王太子府側は、それを認めたい。

 こちらは、認めるとしても手順をつけたい。


 ガレスはしばらく考えた。


「つまり、向こうがその場で“ついでにこれも”って聞いてくるかもしれないってことですか」


「そうね」


「それ、嫌ですね」


 正直な感想だった。


 豆売りの女主人が頷く。


「ついで、ってのが一番危ないんだよ。買い物でもそうだ。ついでに一袋まけろ、ついでに取り置きしろ、ついでに借りをつけといてくれ。だいたいろくなことにならない」


 ヨハンが笑う。


「豆屋の例えは強いですね」


「強くなきゃ豆なんて売れないよ」


 鍛冶屋の親父が腕を組む。


「追加質問を認めるなら、答えない権利もいるな」


「そう考えています」


 レティシアが言うと、親父は満足そうに頷いた。


「ならいい」


 ガレスはまだ少し不安そうだった。


「でも、王都の人に聞かれて、その場で“答えません”って言えるかな……」


「言えない場合は、こう言えばいい」


 ヨハンが、わざと改まった顔で言った。


「帳場へどうぞ」


 場に笑いが起きる。


 ガレスも少し笑った。


「結局それか」


「万能だぞ」


 豆売りの女主人が指を立てた。


「もう一つ足しな。“今は答えられません。帳場で記録してください”だ」


 ルイスがすぐ書き留める。


 町人向け返答例:今は答えられません。帳場で記録してください。


 ヨハンがそれを見て言った。


「本当に書くんだ」


「必要です」


 ルイスは真顔だった。


 レティシアは、皆を見回した。


「王都の人を敵だと思え、という話ではありません」


 雨音が少し強くなる。


「ただ、王都の人が聞いてくることは、雑談では済まない場合があります。答えていいかわからない時は、答えを保留していい。そのことを覚えておいてください」


 井戸番の兵が頷いた。


「兵にも共有します。特に夜番中は、気を抜きやすい」


「お願い」


 炊事長が言った。


「炊事場にも貼っとくかい? “今は答えられません。帳場で記録してください”って」


 マルタが静かに微笑む。


「台所の壁に貼るには、なかなか物々しい言葉でございますね」


「でも効くだろ」


「効きますね」


 こうして、雨の日の帳場で、また一つ新しい言葉が生まれた。


 今は答えられません。

 帳場で記録してください。


 それは小さな盾だった。


 午後、レティシアは王太子府への再回答を書き始めた。


 表題は、王太子府の三段書式に合わせた。


 連絡官派遣条件に関する北方旧所領側再回答


 ルイスが下書きを整える。


 まず、王太子府が原文要旨、評価、協議余地を分けて示したことへの謝意。


 その次に、協議余地への回答。


 一、町人聞き取りにおける追加質問手順。

 追加質問は可。ただし質問内容、追加理由、元発言、帳場立会人承認を記録し、町人本人へ読み上げてから回答を求める。町人は回答保留を選べる。


 二、偶然接触時の記録形式。

 日時、場所、接触相手、概要を双方で記録。保護対象者の場合は詳細記録。双方記録に差異がある場合は併記。


 三、行動記録の提出頻度。

 日次で帳場へ提出。週次で王太子府へ写し送付。北方旧所領側控え、王太子府控え、監査局控えを作成。


 四、定例確認会。

 連絡官滞在中、三日に一度、帳場、ディルク、連絡官、記録官同席で確認会を行う。


 ルイスは書きながら、思わず言った。


「さらに紙が増えます」


「増えるわ」


 レティシアは認めた。


「でも、ロイエン副使が来るなら必要です」


「来なければ?」


「それでも、この手順は今後の王都対応に使えます」


 ディルクが頷く。


「一度作った道は、次にも使える」


「ええ」


 マルタが茶を置きながら言った。


「道も紙も、使わなければ草が生えます」


 ルイスは少し笑った。


「紙に草が生えたら困りますね」


「湿気で黴なら生えます」


「それは本当に困ります」


 雨の日らしい会話だった。


 夕刻、王立書庫宛ての写しも作られた。


 王太子府へ送るものと同内容。

 ただし、添付として「町人向け返答例」も加えた。


 王立書庫がこれをどう扱うかはわからない。


 だが、王都側で後に「町人が王太子府連絡官の質問を拒んだ」と言われた時、この手順が先に送られていれば、拒否ではなく回答保留として説明できる。


 先に紙を置く。


 それが、最近の帳場の戦い方だった。


 夜、帳場では今日の記録がまとめられた。


 王太子府より三段書式の返書受領。

 原文要旨、王太子府評価、協議余地の分離を確認。

 連絡官派遣案、協議余地への再回答作成。

 町人聞き取り時の追加質問手順を整備。

 町人向け返答例、「今は答えられません。帳場で記録してください」を共有。

 王太子府、王立書庫へ同内容写し送付準備。


 ルイスは最後に顔を上げた。


「追記をお願いします」


 レティシアは、雨音を聞きながら少し考えた。


 それから、ゆっくり口述した。


 質問は、答えを奪う形で来ることがある。すぐ答えよ、今ここで言え、ついでに教えろ。その圧に弱い者ほど、後で自分の言葉ではないものを背負わされる。だから、答えない時間にも名をつける。保留は逃げではない。自分の言葉を守るための場所である。


 ルイスは、その一文を丁寧に書いた。


 外では雨が降り続いている。


 中継小屋の火は、雨の中でも消えていない。


 王都から戻ってきた三段の紙は、辺境でさらに別の紙になった。


 原文、評価、協議余地。


 そこへ、辺境はもう一つ加えた。


 保留。


 答えを急がせる相手に対して、答えを守るための小さな札を立てたのだった。

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