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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第112話 赤札の山

王太子府式進行札が導入されて三日目。


 王太子府の各部署では、白、青、赤の札が机の上を行き来するようになっていた。


 白札は、確定。

 青札は、検討中。

 赤札は、要確認。


 最初はただの小さな札にすぎなかった。

 だが、それが紙束の端に挟まれるだけで、今まで曖昧だったものが急に目立ち始めた。


 どの文書がもう出せるのか。

 どの文書はまだ検討中なのか。

 どの文書は誰かの確認を待っているのか。


 特に赤札は、よく目立った。


 赤いというだけで目立つ。

 さらに、その札には確認先を書く欄が加えられた。


 殿下確認。

 補佐官確認。

 王妃宮返答待ち。

 外務儀典照合待ち。

 商務資料不足。

 本人確認未了。


 こうなると、文書が止まっている理由が、嫌でも見えてくる。


 そして、見えてくると人は落ち着かなくなる。


 補佐官室の机の上には、その朝、赤札のついた紙束が三つ積まれていた。


 レムスは、それを一枚ずつ分類していた。


「殿下確認待ち、十二件。補佐官確認待ち、二十一件。王妃宮返答待ち、四件。外務儀典照合待ち、七件。商務資料不足、五件……」


 読み上げながら、彼はちらりとエドガル・ヴァイスナーを見た。


 エドガルは、窓際に立ったまま何も言わない。


 顔にはいつもの穏やかな表情がある。

 だが、机に視線を落とすたび、わずかに目が冷える。


「補佐官確認待ちが多いな」


「はい」


 レムスは答えた。


「内訳は、連絡官派遣案関連が五件。銀狐商会取引関連が四件。王太子妃候補関連が六件。残りは儀典と返礼です」


「連絡官派遣案」


 エドガルは、その束を手に取った。


 北方旧所領への王太子府連絡官派遣。


 候補者、バルド・ロイエン。

 職務範囲案。

 北方旧所領側受け入れ条件案。

 王立書庫の意見。

 フェルナー監査官の赤入れ。


 そして現在、補佐官確認待ち。


 つまり、自分の机で止まっている。


 エドガルは、その事実が非常に気に入らなかった。


 今までは、止まっている紙があっても、それは単なる処理中だった。

 誰の机にあるかまでは、口頭でしかわからない。

 催促されれば、「確認中です」と言える。


 だが今は違う。


 赤札に書いてある。


 補佐官確認。


 しかも、いつから止まっているかも記録されている。


 レムスが言いにくそうに続けた。


「この五件は、二日前から補佐官確認待ちです」


「わかっている」


「王妃宮から、進捗照会が来る可能性があります」


「それもわかっている」


 エドガルは紙束を机へ置いた。


 王妃宮。


 あの場所が、この札の運用を見ている。


 それが厄介だった。


 王妃エレオノーラは、急に大声を出す人ではない。

 静かに見る。

 読み比べる。

 そして、もっとも逃げにくい一文を置いてくる。


 民の不満を聞く者を、民を煽る者と呼ぶ前に、あなたは自分の府の不満を聞いていますか。


 あの一文で、王太子府は動かざるを得なくなった。


 今度は何を書かれるかわからない。


 エドガルは、連絡官派遣案の一枚をめくった。


 北方旧所領側が返してきた受け入れ条件は、想像以上に細かかった。


 到着時の携行文書申告。

 帳場記録閲覧時の署名。

 証人および保護対象者への接触禁止。

 偶然接触時の記録。

 町人聞き取りは事前質問項目提出。

 銀狐商会取引への助言は根拠記録必須。

 王立書庫照合文は直接送達維持。

 証拠棚原本への接触不可。

 滞在中の行動記録。


 読んでいるだけで息が詰まる。


 だが、断れない条件でもない。


 むしろ、正面から見れば筋が通っている。


 それが腹立たしい。


「ロイエンは何と言っている」


「条件が厳しすぎると。ただし、受け入れ拒否にはしにくいとも」


「だろうな」


「ロイエン副使は、町人聞き取りの事前質問提出だけは緩めたい意向です」


「そこを緩めれば、また記録外接触の余地ができる」


「はい」


「フェルナーが噛みつく」


「おそらく」


 エドガルは、短く息を吐いた。


「では、こうする。質問項目は事前提出。ただし、現地で追加確認が必要になった場合は、その場で帳場立会人の承認を得て追加質問可とする」


 レムスはすぐに書き留める。


「追加質問、帳場立会人承認。記録必須」


「そうだ」


「北方旧所領側は受け入れるでしょうか」


「完全には嫌がるだろう。だが、現場で追加質問が一切できないというのも不自然だ。落とし所としては悪くない」


 エドガルは次の紙へ移る。


「偶然接触時の記録は?」


「北方旧所領側は、連絡官本人と帳場側双方の記録を求めています」


「これは残す」


 レムスが少し意外そうな顔をした。


「よろしいのですか」


「消せば怪しい。残した上で、記録書式を簡略化する」


「内容は」


「日時、場所、接触相手、会話の概要。これでいい。長文の逐語記録までは不要とする」


「承知しました」


「ただし、証人および保護対象者の場合は詳細記録」


「はい」


 エドガルは、赤札の束を処理していく。


 不快でも、処理しなければ止まっていることが見える。


 見えるなら、動かすしかない。


 それは、ある意味で北方旧所領の帳場に負けたような気分だった。


 一方、エミリアの部屋では、札の運用が少しずつ日常になり始めていた。


 朝の机には、白札が三枚、青札が四枚、赤札が二枚置かれている。


 以前なら、それらはすべて同じ紙束だった。


 何から手をつけてよいかわからず、エミリアは机の前で固まることが多かった。

 そして、固まっているうちに侍女や補佐官が「こちらから」と選び、エミリアはただ頷く。


 自分が王太子妃候補なのに、紙の前では人形のようになる。


 その感覚が、彼女をずっと苦しめていた。


 けれど今は違う。


「まず白札から見るわ」


 エミリアが言うと、侍女リーナが頷いた。


「はい」


 白札は確定済みの礼状二通と、慈善市で使う挨拶文一通だった。


 清書してよい。

 署名してよい。

 その判断がついているだけで、気持ちはずいぶん楽になる。


 次に青札。


 検討中の席次案。

 贈答品目録。

 来月の茶会候補日。

 王妃宮へ提出する衣装色の案。


 エミリアは、衣装色の案で手を止めた。


「この薄紅は、ミュラー伯爵夫人の令嬢が前回着ていた色に近いわ」


「避けますか」


「そうね。私が同じ色を選ぶと、真似たように見えるかもしれないから」


 リーナが記録する。


 衣装色案、薄紅は前回ミュラー伯爵令嬢着用色と近いため再検討。エミリア確認。


 エミリアは、その一文を見て少しだけ笑った。


「私、細かいことばかり言っているみたい」


「細かいことが、茶会では大事でございます」


「お姉様なら、もっと理由まで考えるのでしょうね」


 リーナは少し迷い、正直に答えた。


「レティシア様なら、理由も記録されるかもしれません」


 エミリアは、少しだけ胸が痛んだ。


 でも、昨日ほどではない。


「では、理由も入れて」


「はい」


 リーナが追記する。


 相手令嬢への不要な対抗印象を避けるため。


 エミリアは、小さく頷いた。


「こう書くと、ただ色を変えるだけではないのね」


「はい。なぜ変えるかが残ります」


 なぜ。


 その言葉は、エミリアにとって新しかった。


 今までは、ただ正しいか間違っているかだった。


 姉なら正しい。

 自分は間違える。

 そう思っていた。


 だが、紙の上に理由を書くと、少し違って見える。


 これは正しい。

 これは間違い。

 ではなく。


 なぜそうするのか。

 何を避けるのか。

 誰にどう見えるのか。


 その途中を残せる。


「リーナ」


「はい」


「間違える前に、考えたことも残せるのね」


 リーナは微笑んだ。


「はい。検討中の紙なら」


 その言葉に、エミリアは少しだけ救われた。


 検討中。


 自分は、まだ検討中なのかもしれない。


 王太子妃として確定した人間ではなく、まだ学んでいる途中の人間。


 そう思うと、少し息がしやすかった。


 昼過ぎ、王太子府では赤札の山を減らすための臨時会議が開かれた。


 アルベルトも同席した。


 机の上には、赤札のついた文書だけが並べられている。


 白札と青札はない。


 赤だけ。


 それは、見た目にもなかなか圧があった。


 アルベルトは顔をしかめる。


「こんなにあるのか」


 レムスが答える。


「昨日よりは減っております」


「これで?」


「はい」


 アルベルトは不機嫌そうに紙を取った。


「殿下確認待ち……これは何だ」


「来月の地方貴族謁見順です」


「補佐官で決めればいい」


 エドガルが頷く。


「では、補佐官確認へ移します。ただし、侯爵家以上および外交関係がある家については殿下確認」


「それでいい」


 レムスが札を書き換える。


 赤札、殿下確認。

 から。

 赤札、補佐官確認。外交関係のみ殿下確認。


 次の紙。


「慈善市の挨拶文。これはエミリアが見るものではないのか」


「草案はエミリア様確認済みです。現在は殿下の一言を添えるかどうかで止まっています」


「必要ない。エミリアの文で出せ」


 レムスが札を白へ替える。


 確定。


 その瞬間、紙が一つ動いた。


 アルベルトは、その様子を見て少しだけ眉を動かした。


「札を替えると、妙に仕事をした気になるな」


 エドガルは穏やかに答える。


「実際に止まっていたものが動いております」


「……そうか」


 三枚目。


「王立書庫照合文。これは俺が見る必要があるのか」


 エドガルが少しだけ身構える。


「北方旧所領関連ですので」


 アルベルトは紙を読み、顔を曇らせた。


「白蔦会関連符丁表の写し照合……専門的すぎる。俺が見てもわからん」


 部屋が静かになる。


 アルベルトが、自分にはわからないと言った。


 それは珍しいことだった。


 エドガルはすぐに言う。


「では、王立書庫と監査局で確認し、殿下へは要約を」


「いや」


 アルベルトは少し考えた。


「要約だけだと、また母上に何か言われる」


 その言い方は不満げだったが、意味は大きかった。


「原文と要約を両方置け。俺は要約を読む。必要なら原文を見る」


 フェルナーがいれば、きっと頷いただろう。


 原文と要約を分ける。


 要約が本文を染めないようにする。


 補佐官室では、少し空気が変わった。


 エドガルは静かに頭を下げる。


「承知しました」


 内心では、危険を感じていた。


 原文と要約を並べる習慣が王太子府に根づけば、要約で印象を作る余地が減る。


 補佐官室の力が、少し削られる。


 だが、今ここで反対すれば不自然だ。


 アルベルトは、赤札の山を見ている。

 母の視線を感じている。

 そして、レティシアの影に苛立ちながらも、同じ失敗をしたくないと思い始めている。


 その流れには逆らえない。


 夕方までに、赤札の山は半分ほどになった。


 殿下確認待ちの一部は補佐官確認へ。

 補佐官確認待ちの一部は白札へ。

 王妃宮返答待ちは、使者を再送。

 外務儀典照合待ちは、最新版の保管場所を一本化。

 商務資料不足は、資料要求先を明記。


 完璧ではない。


 だが、止まっていた紙が動いた。


 その夜、フェルナー監査官のもとへ王太子府式進行札の第二報が届いた。


 ハンスが読み上げる。


「赤札に確認先欄追加。殿下確認待ち文書の一部を補佐官確認へ移管。原文と要約の併置を殿下が指示。エミリア様、衣装色案について検討理由を記録」


 フェルナーは、無表情で聞いていた。


 しかし、最後に小さく頷いた。


「進んだな」


 ハンスは少し嬉しそうだった。


「はい。王太子府も、少しずつ」


「油断するな」


「はい」


「見えるようになると、見せたくない者が必ず出る」


 ハンスは真顔に戻った。


「エドガル補佐官でしょうか」


「一人ではない」


 フェルナーは言った。


「王太子府全体だ。見えないことで守られていた者は多い」


 ハンスは、赤札の報告書を見下ろした。


「見えることは、よいことばかりではないのですね」


「よいことばかりなら、誰も隠さない」


 フェルナーは、さらりと言った。


 ハンスは返す言葉に詰まり、それから記録に一文を加えた。


 見えることへの反発に注意。


 フェルナーはそれを見て、少しだけ目を細めた。


「それでいい」


 王都の夜が深まる頃、エミリアはまた姉からの返書を開いていた。


 その隣には、今日の自分の検討意見の控えがある。


 衣装色案。

 席次案。

 贈答品誤記の指摘。


 どれも小さな紙だ。


 辺境で火災や商会や王太子府と向き合う姉の紙に比べれば、あまりに小さい。


 それでも、エミリアはそれを捨てなかった。


 リーナが静かに問う。


「保管なさいますか」


「ええ」


「どのように」


 エミリアは少し考えた。


「検討控えとして」


 言ってから、少し笑う。


「変かしら」


「いいえ。とてもよろしいかと」


 エミリアは、三枚の小さな控えを姉の返書とは別の封筒に入れた。


 姉の紙と同じ場所に入れるには、まだ違う気がした。


 でも、捨てるには大事だった。


「いつか」


 彼女は小さく言った。


「いつか、お姉様に見せられるくらいになったらいいわ」


 リーナは答えなかった。


 ただ、静かに頭を下げた。


 王太子府の赤札は、まだ山のように残っている。


 北方旧所領への連絡官派遣案も、完全には決まっていない。

 王都の噂も消えていない。

 白蔦会の影も、まだ王都のどこかにある。


 けれど、小さな札は今日、いくつかの紙を動かした。


 止まっている場所に名がつけば、動かすこともできる。


 それは、辺境で生まれた考えだった。


 そして今、王都の中心で、ゆっくりと赤札の山を照らし始めていた。

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