第111話 札が照らす場所
王太子府式進行札。
その名を聞いた時、アルベルトは少しだけ眉を寄せた。
「大げさではないか」
言ったのは彼自身だったが、命名を止めはしなかった。
確定。
検討中。
要確認。
ただ三種類の札である。
だが、王都では単純なものほど名が必要になる。名がなければ、誰かが「それは一時的な工夫にすぎない」と軽く扱う。名があれば、部署を越えて通る。
そういう意味では、フェルナー監査官の皮肉まじりの提案は、案外正しかった。
その朝、王太子府の各部署には、小さな木札と紙札が配られた。
白札は確定。
青札は検討中。
赤札は要確認。
最初に混乱したのは、書記官たちだった。
「これは、どの段階で白に?」
「最終確認済みのものだろう」
「誰の最終確認ですか」
「それを決めるための札では?」
「では、この席次表は?」
「外務儀典は確定と言っていた」
「王妃宮から返事がまだだ」
「では青では?」
「王太子殿下の確認待ちなら赤では?」
「いや、殿下確認待ちは上位確認であって、要確認とは違うのでは」
配られた札は単純なのに、使う側の混乱は単純ではなかった。
今まで曖昧に流れていたものを、急に三つに分けようとしているのだ。
どこまでが確定なのか。
誰の返事を待っているのか。
何を確認すべきなのか。
それまで「誰かがわかっているだろう」で済ませていた部分が、急に表へ出てきた。
書記官の一人が、ぽつりと言った。
「これ、札をつける前に、責任者を決めないと駄目では」
その場が静かになった。
誰もが同じことを思っていた。
だが、最初に言った者の名は記録される。
若い書記官は、しまった、という顔をした。
隣の中堅書記官が、小さく頷いた。
「書こう。業務改善聞き取りの追加意見として」
「いいんですか」
「言わなきゃ、また同じところで詰まる」
それは、王太子府ではまだ珍しい反応だった。
不満や支障を言った者が、すぐに叱られるわけではない。
むしろ、書かれる。
そのことに、下の者たちはまだ慣れていなかった。
午前の終わり頃、最初の小さな成果が出た。
エミリアの部屋へ届けられる予定だった返礼文の束の中に、白札のついたものが一つ混ざっていた。
白札。確定。
だから侍女リーナは、そのまま清書へ回そうとした。
だが、エミリアが紙面を見て首を傾げた。
「この贈答品の名、違うわ」
リーナが慌てて覗き込む。
「どちらでございますか」
「ローゼン侯爵夫人からいただいたのは、銀糸の扇ではなく、真珠飾りの扇だったはず」
「記録では、銀糸の扇となっておりますが……」
「でも、私、覚えています。あの時、真珠が一粒取れかけていて、夫人が笑っていらしたもの」
リーナはすぐに贈答品控えを確認した。
結果、エミリアが正しかった。
最初の受領記録は「真珠飾りの扇」。
途中の写しで、別件の「銀糸の扇」と取り違えられていた。
もしそのまま返礼文を出していれば、ローゼン侯爵夫人への礼状に別の品名を書いてしまうところだった。
大事件ではない。
けれど、社交では小さな傷になる。
リーナは、深く頭を下げた。
「エミリア様、ありがとうございます。白札のまま清書へ回すところでした」
エミリアは、少し戸惑った。
「私が気づいてよかったの?」
「もちろんでございます」
「でも、確定の札がついていたのに」
「確定の札が間違っていた、という記録になります」
「記録に……」
エミリアは、その言葉を聞いて少し不安そうな顔をした。
「私が疑ったみたいに見えないかしら」
リーナは首を横に振った。
「いいえ。確定札の誤りを発見、です。失敗ではなく、修正です」
その言い方に、エミリアは少しだけ息を吐いた。
「修正……」
「はい。これを赤札に戻して、贈答品控えと照合します」
「では、そうして」
リーナが紙に記録する。
白札返礼文、贈答品名に誤記疑い。エミリア様指摘。贈答品控え確認後、真珠飾りの扇と判明。赤札へ戻し、修正後再確認。
エミリアは、その一文を見つめた。
自分の名前がある。
以前なら、名前が載ることが怖かった。
失敗した時、責められるための名になると思っていた。
けれど、この紙では違う。
間違いを見つけた名として残っている。
エミリアは、ゆっくり言った。
「リーナ」
「はい」
「こういうのなら……私にも、できるかもしれないわ」
リーナの表情が、ほんの少し明るくなった。
「はい。ぜひ、お気づきの点を教えてくださいませ」
午後、王太子府内の改善会議で、その事例が報告された。
アルベルトは最初、興味なさそうに聞いていた。
しかし、エミリアが誤記を見つけたと知ると、わずかに顔を上げた。
「エミリアが?」
「はい」
エドガルが答える。
「白札が付いていた返礼文に、贈答品名の誤記がありました。エミリア様が記憶に基づき指摘され、控えと照合したところ誤記と判明しております」
「……そうか」
アルベルトの声は短かった。
だが、不機嫌ではなかった。
彼は少しだけ考えてから言った。
「それは、よい働きだ」
会議室の空気が微妙に変わった。
エミリアの働きが、王太子府の会議で肯定された。
小さなことだ。
返礼文の品名一つ。
けれど、今の王太子府には必要な小ささだった。
エドガルは頷く。
「このように、札によって文書状態を明示すれば、エミリア様も確認すべき箇所を把握しやすくなります」
「なら続けろ」
「はい」
「ただし」
アルベルトは紙束を見た。
「赤札が多すぎる」
机の横には、要確認の赤札がついた紙束が積まれていた。
王太子確認待ち。
補佐官室判断待ち。
王妃宮返答待ち。
外務儀典照合待ち。
そのうちかなりの数が、アルベルトの確認待ちだった。
アルベルトは、それに気づいている。
だから不機嫌になる。
「これでは、全部俺のところで止まっているように見える」
エドガルは慎重に答えた。
「実際、殿下のご確認が必要なものが多くございます」
「俺が遅らせていると?」
「そうではありません。殿下に確認が集中しすぎているということです」
言い換えた。
遅らせている、ではなく、集中している。
アルベルトは少しだけ黙った。
「では、分けろ」
「分ける、とは」
「俺が必ず見るものと、補佐官が先に見てよいものだ」
エドガルの目がわずかに動く。
「確認権限の分担でございますね」
「そうだ」
「承知しました」
これは重要だった。
アルベルトが、自分の机で止まっているものを分ける必要を認めた。
王太子府にとっては実務改善。
エドガルにとっては、危険でもある。
なぜなら、分担すれば、どの権限が本当に王太子に必要で、どれが惰性で集まっていたのか見えるからだ。
見えれば、補佐官室の役割も問われる。
アルベルトは続けた。
「ただし、最終責任が曖昧になるのは困る」
「では、決裁段階を分けましょう」
レムスが横から紙を差し出した。
彼はこの数日で、ずいぶん動きが早くなっている。
「下確認、補佐官確認、殿下確認、確定。この四段階にできます」
アルベルトが嫌そうに顔をしかめる。
「札が増えるのか」
レムスが固まった。
エドガルが助け舟を出す。
「札を増やすのではなく、赤札の中に確認先を書く形でよろしいかと」
「確認先?」
「赤札、殿下確認。赤札、補佐官確認。赤札、王妃宮返答待ち、というように」
アルベルトは少し考え、頷いた。
「それならよい」
王太子府式進行札は、早くも一段細かくなった。
それは便利になるということだ。
同時に、誰の確認待ちで止まっているかが、さらにはっきりするということでもあった。
会議の後、エドガルは補佐官室へ戻った。
レムスがついてくる。
「赤札の確認先欄、すぐに作ります」
「ああ」
「ただ、これを導入すると、補佐官室で止まっているものも見えるようになります」
「わかっている」
エドガルの声は低かった。
レムスは一瞬黙り、それから言った。
「止まっているものを隠すより、処理した方が早いかもしれません」
エドガルが彼を見た。
レムスは、しまったという顔をしなかった。
むしろ、まっすぐ立っていた。
「王妃宮から照合を求められた場合、確認待ちの長さは見えると思います」
「お前も、ずいぶん言うようになったな」
「申し訳ありません」
「謝るな」
エドガルは椅子に座った。
「正しい」
レムスの目が少しだけ見開かれる。
エドガルは、机の上の紙束を見た。
止まっているものを隠すより、処理した方が早い。
当たり前のことだ。
だが、王都の役所では、当たり前ほど難しい。
止めている理由が権限であり、面子であり、派閥であり、責任回避であることが多いからだ。
「補佐官室内の赤札を洗い出せ」
「はい」
「ただし、外へ出す前に私が見る」
「承知しました」
「それから、エミリア様の件は、殿下へよい形で報告を続けろ」
「よい形、ですか」
「小さくてもよい。彼女が実務に関わった記録を積む。殿下の安心材料になる」
「はい」
レムスが下がった後、エドガルはひとりになった。
窓の外では、王都の午後が明るく見える。
王太子府式進行札。
馬鹿馬鹿しいほど単純な仕組み。
しかし、単純だから効く。
未確定の紙に未確定と札をつける。
確認待ちの相手を書く。
止まっている場所を見る。
それだけで、人は動かざるを得なくなる。
エドガルは、机の端に置いた北方旧所領の議事録をちらりと見た。
豆が足りない。
紙が多い。
夜番がきつい。
役はない方が楽。
なんと泥臭い紙だろう。
だが、あの泥臭い紙が、王太子府に札を生ませた。
「気に入らないな」
エドガルは小さく呟いた。
気に入らない。
だが、役に立っている。
それがさらに気に入らなかった。
その夜、王妃宮には、王太子府式進行札の初日報告が届いた。
セラフィナが読み上げる。
「白札返礼文に贈答品名誤記あり。エミリア様が指摘し、赤札へ戻して修正。赤札について確認先欄追加を検討。殿下確認、補佐官確認、王妃宮返答待ち等」
エレオノーラは静かに聞いていた。
「エミリアが気づいたのね」
「はい」
「それはよかった」
王妃は少しだけ微笑んだ。
「彼女は、見る力がないわけではありません。ただ、何を見ればよいかを示されていなかった」
「札が助けになったと」
「ええ」
エレオノーラは茶器を置く。
「人は、全部を見ろと言われると何も見えなくなります。ここを見て、と示されれば、自分の目を使える」
「レティシア様も、そのように?」
「レティシアは、自分で見る場所を作ってきた子です。だから苦しかったでしょうね」
セラフィナは静かに目を伏せた。
「エミリア様は」
「誰かが見る場所を一緒に作る必要があります」
王妃は、窓の外を見た。
「姉妹は同じではありません。同じものを求めれば、片方は壊れます」
その声には、母としての痛みが少しだけ混じっていた。
彼女は王妃である前に、王宮の若い娘たちを見てきた女でもある。
有能な者は使われすぎる。
未熟な者は比べられすぎる。
どちらも、放っておけば傷になる。
「アルベルトには、まだそこが見えていないわね」
「殿下は、エミリア様の働きを評価されたそうです」
「それは一歩です」
エレオノーラは頷いた。
「ただし、評価とは便利に使うことではありません」
セラフィナは、その言葉を胸に留めるように頭を下げた。
一方、エミリアはその夜、自室で姉からの返書を開いていた。
何度も読んだ紙。
折り目はさらに柔らかくなっている。
――あなたが王都で無理をしていないことを願っています。
エミリアは、その下に小さな紙を置いた。
今日、自分が出した検討意見の控えだった。
ローゼン侯爵夫人とミュラー伯爵夫人の席を離す案。
たったそれだけ。
でも、自分で気づき、自分の名前で残した。
姉の返書の隣に置くには、小さすぎる紙かもしれない。
けれど、エミリアはその二枚をしばらく並べて見ていた。
「お姉様」
小さく呟く。
「私、少しだけ……見えた気がします」
返事はない。
でも、その夜のエミリアは、いつもより少しだけ深く眠れた。
王太子府の机には、まだ赤札の束が積まれている。
補佐官室の奥には、まだ見せたくない停滞がある。
エドガルの計算も、ロイエンの再派遣案も、王都の噂も消えていない。
それでも、未確定の紙に未確定と書くだけで、防げる混乱がある。
その小さな事実が、王都の一角で初めて形になった。
そしてその形は、遠い辺境の帳場から生まれたものだった。




