第100話 王太子、返書に苛立つ
エミリア宛ての返書が王都に届いたのは、曇り空の午後だった。
王太子府の窓硝子には、薄く冷たい光が差している。雨になるほどではないが、空気は重い。廊下を歩く侍女たちの足音まで、いつもより低く聞こえた。
返書は、淡い花模様の封筒で届いた。
エミリアが送ったものと同じような華やかさはない。
白い封筒。
きちんと折られた紙。
封蝋には、エーヴェルシュタイン家のものではなく、北方旧所領の帳場で使われ始めた簡素な確認印が添えられていた。
姉らしい、とエミリアは思った。
飾らない。
けれど、何も抜けていない。
侍女から封筒を受け取った時、エミリアの指は少し震えた。
「お一人で読まれますか」
侍女が控えめに問う。
エミリアは少し迷った。
本当は、一人で読みたかった。
けれど、この手紙は自分だけのものではない。
エドガルが文面を見た。アルベルトも、送ったことを知っている。王太子府から辺境へ送られた慰問書簡への返事なのだ。
「……まず、私が読みます」
エミリアはそう答え、封を切った。
姉の文字は、昔と変わらなかった。
整っている。
急いで書いても崩れない文字。
それを見るだけで、胸の奥が少し痛む。
――エミリアへ。
書簡を受け取りました。辺境の火災と監査について、心配してくれたことに礼を言います。
最初の一文は、静かだった。
責めていない。
皮肉でもない。
それが逆に、エミリアを不安にさせた。
読み進める。
中継小屋の火災後、薪置き場と油の保管方法を改めたこと。
町の者たちが受け渡し記録を始めたこと。
監査で多くの改善事項を指摘され、それを順に整えていること。
王太子府への仮報告手順を新設したこと。
銀狐商会との第二回試験取引についても報告を整えていること。
王立書庫との照合を継続していること。
どれも実務的だった。
お姉様らしい、とエミリアは思う。
そして、少しだけ寂しくなった。
自分は、心配しています、と書いた。
無理をしないで、と書いた。
王都との絆を、と書いた。
姉は、それに対して、火災後の対応と報告手順を書いてきた。
まるで、こちらの棘を見抜いた上で、それを感情ではなく書類の机へそっと置いたようだった。
そして最後の一文。
――あなたが王都で慣れない役目に向き合っていることも、想像しています。
人は、選ばれた場所でしか苦しまないわけではありません。望んだ場所に立っていても、苦しい時はあります。
あなたが王都で無理をしていないことを願っています。
身体を大切に。
レティシア。
エミリアは、その部分から目を離せなくなった。
何度も読んだ。
責められていない。
姉は、自分を責めていない。
それなのに、涙が出そうになった。
責められた方が、まだ楽だったのかもしれない。
あなたが私の場所を奪った。
あなたは王太子府の言葉を運んできた。
あなたは私を心配するふりをして、王都の圧を送った。
そう書かれていたなら、反発できた。
でも姉は、そこを書かなかった。
ただ、エミリアが王都で無理をしていないことを願っている、と書いた。
それは優しさだった。
そして、優しさだからこそ、苦しかった。
「エミリア様」
侍女の声で、エミリアは我に返った。
「お顔の色が……」
「大丈夫」
そう言った声は、大丈夫ではなかった。
エミリアは手紙を畳み直そうとして、指先がうまく動かないことに気づいた。
「殿下へ、お見せする必要がありますか」
侍女が問う。
エミリアはしばらく黙った。
本当は、見せたくなかった。
最後の一文だけは、自分のものにしたかった。
姉から妹へ戻ってきた、たぶん本物の言葉だったから。
けれど、この書簡は王太子府の影をまとって送ったものだ。
返書だけを自分の胸にしまうことはできない。
「……お見せします」
エミリアは言った。
王太子アルベルトは、返書を読んだ瞬間から機嫌が悪くなった。
執務室には、エミリア、アルベルト、エドガル、そして二人の補佐官がいた。
返書は机の中央に置かれている。
アルベルトは、一度目を通し、二度目はさらに不機嫌そうに読んだ。
「なんだ、これは」
最初の言葉が、それだった。
エミリアの肩がわずかに跳ねる。
「お姉様からの返書です」
「それはわかる」
アルベルトは紙を指で叩いた。
「なぜ、レティシアは手順の話ばかりする」
室内が静まり返る。
「お前が心配して手紙を送ったのだろう。なら、もう少し姉妹らしい返事があってもよいはずだ」
エミリアは何も言えなかった。
姉妹らしい返事。
最後にあった。
あったのだ。
でもアルベルトは、そこではなく、王太子府への仮報告手順や銀狐商会取引の報告に目を止めている。
「王太子府への仮報告手順を新設しました。銀狐商会との取引についても報告を整えています。王立書庫との照合も継続中です……」
アルベルトは低く読み上げる。
「俺は、こんな返事を求めていたわけではない」
エドガルが、静かに口を開いた。
「レティシア嬢は、あくまで実務として返されたのでしょう」
「それが気に入らない」
アルベルトは即座に言った。
「妹が心配して書いた手紙に、実務で返すのか」
エミリアの胸が、また痛んだ。
違う。
最後に、姉は自分を気遣ってくれた。
そう言いたかった。
けれど、言えなかった。
自分が言えば、最後の一文がこの部屋に晒される。
アルベルトやエドガルの目で読まれ、別の意味を与えられる。
それが怖かった。
エドガルは、返書の中ほどへ視線を落とした。
「ただ、殿下。注目すべき点はございます」
「何だ」
「レティシア嬢は、王太子府への仮報告手順を“新設した”と書いております。つまり、これまでそれがなかったことを認めています」
アルベルトの目が鋭くなる。
「ほう」
「また、王立書庫との照合継続を明記しています。王太子府への報告と王立書庫への照合を並列に扱っているとも読めます」
「並列?」
「王太子府を上位機関としてではなく、連絡先の一つとして扱っている印象です」
エミリアは、手紙を見つめた。
そうなのだろうか。
姉は、本当にそういう意味で書いたのだろうか。
違うような気がした。
けれど、エドガルが読むとそう見える。
アルベルトは、苦々しく笑った。
「つまり、辺境ではすでに、自分の帳場を王太子府と対等に置く意識があるということか」
「そう断定はできません」
エドガルは慎重に引いた。
「ですが、そのように見える危険はございます」
この言い方を、エミリアは最近聞き慣れてしまった。
断定しない。
けれど、疑いの形は置く。
そうすると、聞いた相手の心が勝手に残りを埋める。
アルベルトは机の上の返書を見下ろした。
「レティシアは、辺境で何を築くつもりだ」
誰も答えない。
アルベルトは続けた。
「俺が王都で苦労している間に、あいつは辺境で帳場だの商会だの書庫だのと……」
そこで言葉が止まった。
自分が何を言いかけたのか、彼自身もわからなかったのかもしれない。
苦労しているのは自分だ。
王太子府を背負っているのは自分だ。
レティシアは辺境へ送った。
そう思いたい。
だが、机の上の返書は、辺境の方がむしろ前へ進んでいることを示していた。
火災後の復旧。
受け渡し記録。
銀狐商会との取引。
王立書庫照合。
仮報告手順。
それらは、感情ではなく実務だ。
だからこそ、アルベルトには腹立たしかった。
「エドガル」
「はい」
「連絡官案はどうなっている」
「現在、職務範囲の明文化案を整理しております」
「急げ」
「御意」
「常駐監督官という名が強すぎるなら、連絡官でよい。だが、王太子府の目は置く」
エミリアは、思わず顔を上げた。
連絡官。
昨日、廊下で聞いた言葉だ。
姉の辺境へ、王太子府から人を送る。
それは支援なのか。
監視なのか。
エミリアにはわからなかった。
エドガルは、静かに頷いた。
「連絡官であれば、表向きは報告の円滑化、王都との調整という名目にできます。辺境側も、今回の返書で仮報告手順の新設を認めていますから、その支援として自然です」
「候補は」
アルベルトの問いに、エドガルは少しだけ間を置いた。
「ロイエン副使が適任かと」
エミリアは、返書から顔を上げた。
「ロイエン様が、また辺境へ?」
思わず声が出た。
アルベルトが彼女を見る。
「現地事情を知っているからな」
エミリアは、何とも言えない不安を覚えた。
ロイエンは、柔らかく話す人だ。
だが、あの人の言葉には、どこか冷たいものがある。
姉のもとへもう一度送られる。
それが、本当に支援になるのだろうか。
エドガルが穏やかに言う。
「もちろん、フェルナー監査官から懸念が出ています。証人接触や帳場記録への閲覧範囲について、条件を明確にする必要があります」
「またフェルナーか」
アルベルトは不快そうに息を吐いた。
「監査官の言葉は重くございます。無視すれば、かえって議論が長引きます」
「では、条件をつけろ」
「はい」
エドガルは、すでに用意していた紙を机へ置いた。
王太子府連絡官派遣案。
そこには、柔らかな言葉が並んでいた。
目的、王都との報告円滑化。
役割、仮報告手順の支援。
権限、助言および確認。
現地帳場との連携。
銀狐商会取引に関する情報共有。
だが、細部はまだ空白が多い。
証人への接触制限。
証拠棚への閲覧範囲。
町人への聞き取り手順。
行動記録の有無。
そこをどう書くかで、連絡官は支援にも監視にもなる。
アルベルトは紙を見て、面倒そうに言った。
「この空欄を詰めろ」
「承知しました」
「ロイエンに確認させろ。フェルナーの口も塞げる程度に整えておけ」
「御意」
エドガルは頭を下げた。
その表情は穏やかだった。
しかし、内心では別の計算が動いている。
連絡官という名なら、辺境へ入れる。
監督ではない。
命令ではない。
支援だ。
支援という言葉は、拒みにくい。
レティシアはおそらく条件をつけるだろう。
帳場閲覧記録、証人接触禁止、行動記録。
また紙を増やすはずだ。
だが、それでも人を入れられれば、隙は生まれる。
人は紙ではない。
どれだけ記録を整えても、疲れ、迷い、揺らぐ。
そこを突けばいい。
会議が終わったあと、エミリアは返書を持って自室へ戻った。
アルベルトは返書の写しを取らせたが、原本はエミリアに戻された。
彼にとっては、そこに書かれた実務の方が重要だったのだろう。
エミリアは机に座り、もう一度最後の一文を読んだ。
――あなたが王都で無理をしていないことを願っています。
その一文だけが、部屋の空気から浮いて見えた。
王太子府。
連絡官。
ロイエン。
仮報告手順。
王立書庫。
そうした言葉の中で、この一文だけが、姉の手から直接届いたように感じられる。
エミリアは、唇を噛んだ。
「お姉様……」
声が震えた。
姉は、気づいている。
自分が無理をしていること。
王太子府の言葉を運ばされていること。
自分の手紙に、誰かの影が混じっていたこと。
気づいた上で、責めなかった。
だから、苦しい。
侍女が静かに入ってくる。
「エミリア様、お茶を」
「ありがとう」
エミリアは返書を畳み、胸に抱えた。
その時、ふと考えた。
自分は本当に、何がしたかったのだろう。
姉を助けたかったのか。
姉を引き戻したかったのか。
王太子府の役に立ちたかったのか。
それとも、まだ姉より選ばれていると確かめたかったのか。
答えは出ない。
ただ、王都の中で自分が少しずつ誰かの言葉を運ぶ道具になっているような感覚だけが、消えなかった。
一方、王立書庫では、ルシアンがエミリア返書の存在を知った。
内容まではまだ見ていない。
だが、王太子府から辺境へ慰問書簡が出され、返書が戻ったことは把握できた。
カイルが報告する。
「王太子府内では、返書を根拠に連絡官案を進める動きがあります」
「返書を根拠に?」
「レティシア様が王太子府への仮報告手順新設を明記したため、それを支援する名目で」
ルシアンは、少しだけ目を伏せた。
「なるほど。支援という名の紐をかける気か」
「ロイエン再派遣が候補です」
「予想より早いな」
「フェルナー監査官は条件明文化を求めています」
「当然だ。そこを厚くしなければ、ロイエンは同じことをする」
ルシアンは机の上の王立書庫照合記録を見た。
白蔦会仮倉庫。
香油瓶。
北方旧所領地図。
エドガル様確認済の紙片。
ベルナール・ロックの行方。
まだ決定打は足りない。
だが、王太子府の動きは早い。
辺境へ連絡官を入れられれば、レティシアの帳場は内側から削られるかもしれない。
「エルザへ伝えて」
ルシアンは言った。
「連絡官派遣案について、王立書庫として意見書を用意する。照合中の記録を扱う関係上、現地記録の改変や証人接触を避けるため、職務範囲の明文化が必要だと」
「はい」
「それから、フェルナー監査官にも同じ趣旨を非公式に」
「承知しました」
カイルが下がると、ルシアンはひとり呟いた。
「紙の戦いは、まだ終わらないな」
その声は、誰にも届かなかった。
しかし王都のあちこちで、すでに次の紙が動き始めていた。
レティシアの返書。
エドガルの連絡官案。
フェルナーの条件。
王立書庫の意見書。
そして、エミリアの胸に残った、姉の一文。
それぞれの紙が、それぞれ違う火を抱えていた。




