食卓の前
だが、その話に待ったをかける声が上がる。
「待って。それなら家に来てよ。私たちも毎回大変なんだよ」
ウェンがぱっと手を挙げ、勢いよく名乗りを上げる。
思いついた瞬間に、そのまま口にしたような速さだった。
「給料は出すからお願い」
ソファーからぐっと身を乗り出し、半ば本気で頼み込む。
その必死さは、冗談半分ではなく、日々の帳簿やら支出やらに本当に困っている側の切実さがにじんでいた。
だが、そんな娘の勢いを見たスミスは、深いため息をついた。
グラスを置くと、迷いなくウェンのポニーテールをぐいっと引っ張り、強制的にソファーへ座らせる。
「父さん! 痛いっ!」
「勝手に話を進めるからだ。家はいい」
ぴしゃりと言い切るその声音には、妙な重みがあった。
ウェンは痛みよりも不満の方が大きいらしく、引っ張られた頭を押さえながら、むっとした顔でスミスを睨む。だが、スミスはまるで気にせず、再びグラスを手に取った。
「母さんなら、絶対そう言うのに」
頭をさすりつつ、ぶつぶつと文句をこぼす。
スミスは一口飲み、それから少しだけため息をついた。
「言わない。あの店は、俺たちで回す」
短いが、はっきりとした断言だった。
そこには意地も責任も、そして譲る気のなさもにじんでいる。あの店はただの仕事場ではない。危険物も扱う以上、誰でも気軽に出入りさせていい場所でもなかった。
「それに、店は母さんに決定権がある。勝手はできん」
「……ふん」
ウェンは反論できず、唇を尖らせたままそっぽを向く。
不満が消えたわけではない。けれど、スミスが本気で言っているとわかったからこそ、それ以上は押せなかった。
そのやり取りに、リビングの空気がほんの少しだけ緩む。
重い話をしていたはずなのに、こうしていつものように口を挟み合える空気が戻ると、場に張りついていた緊張も少しずつほどけていく。
クロはそんな様子を見て、小さく息を吐いた。
「決まりですね。では、皆さんはコロニーに帰りましょうか。送りますよ」
「その前に飯だ。アヤコ、頼んだ。俺、焼鮭」
シゲルはそう言うと、ソファーから立ち上がり、当然のような顔でタカミのそばへ座り直す。
その切り替えの早さに、タサル一家は一瞬きょとんとした顔を見せた。つい先ほどまで、生活や戸籍や今後の身の振り方という重い話をしていたというのに、もう次の話は飯なのだ。この家の空気にまだ慣れない彼らからすれば、その雑さすら豪快に見えた。
「気にするだけ無駄だ。飲め飲め。クロと関わったんだ。もう平穏な日々は終わりだぞ。面白れぇ毎日の始まりだ」
シゲルは缶を軽く掲げながら、実に楽しそうに笑う。
からかい半分。だが、本気半分でもある声音だった。実際、クロと関わった時点で、普通の暮らしにそのまま戻れるとは誰も思っていない。面倒ごとも騒動も、きっとこれからいくらでも増える。だが、それを不幸だと断じるより先に、面白がってしまうのがシゲルという男だった。
「……そうですね。では、頂きます」
タカミは小さく笑みを浮かべ、ようやく缶へ手を伸ばす。
戸惑いが消えたわけではない。それでも、この場にいる者たちの不思議な明るさに押されるように、少しだけ肩の力を抜いた。
「乾杯だ。サールも飲め」
シゲルに促され、サールも遠慮がちに缶を手に取る。
タサル一家にとっては、住む場所も仕事も、これからの身分も、何もかもが急に決まっていく日だった。普通なら不安に押し潰されてもおかしくない。だが、不思議とこの場には、それでも先へ進ませてしまう力があった。
「じいちゃんってば……まあいいか。ウェン、手伝って。皆、何がいい?」
アヤコは立ち上がると、まだ少しそっぽを向いていたウェンへ声をかける。
「はぁ、わかった。タサルさんは何が食べたい?」
ウェンも先ほどまでの不満を、一つ大きなため息と一緒に吐き出すようにして立ち上がった。さっきまで頬を膨らませていたのが嘘のように、もう気持ちは切り替わっているらしい。そのあたりの早さは、やはりこの家の人間だった。
「私も手伝います……ただ、あまりやったことないので……」
タサルも慌てて立ち上がる。
助けてもらうばかりではいられない、という気持ちが顔に出ていた。まだどこか遠慮がちではあるものの、ここで何もしないまま座っている方が落ち着かないのだろう。
「大丈夫大丈夫。最初は皆そんなもんだから」
アヤコは気負わせないように軽く言って、ウェンとタサルを連れてキッチンの方へ向かう。その途中でも、タカミには何がいいか、サールは食べられない物はないかと、それぞれの希望を手際よく聞いていく。
そのやり取りを見ていると、さっきまで漂っていた張り詰めた空気が、少しずつほどけていくのがわかった。
住む場所の話も、仕事の話も、戸籍の話も、どれも軽くはない。だからこそ今こうして、「何を食べるか」という当たり前の会話が始まることに、不思議な安堵があった。
クロはそんな光景を眺めながら、小さく息を吐く。
「終わりましたね」
ようやく一段落ついた、そんな気持ちを込めた呟きだった。
だが、その安堵を許す気のない声がすぐに返ってくる。
「クロは、できるまでそこで正座ね」
アヤコが振り返りもせずに言い放つ。
「……はい」
間髪入れず返事をしながら、クロは大人しく背筋を伸ばした。
どうやら、クロだけはまだ終わっていないらしい。
シゲルはそれを聞いて、ぶはっと吹き出すように笑い、スミスもグラスを傾けながら口元だけで少し笑う。タサル一家も、そのやり取りに思わず表情を緩めた。
張り詰めたリビングだったはずなのに、いつの間にか、食事前の騒がしさと、家族に近い温度が満ち始めていた。




