皇女の素顔と、空へ消えた名
残されたのは、クロとヨルハ、そしてノーブルの三人だけ。
風が静かに流れ、戦艦の残骸すら残っていない空を、誰もが一瞬だけ見上げた。
「それでは、ノーブルさん」
クロが軽く頭を下げるように告げると、ノーブルも小さく頷いた。
「ああ。また会うことがあればな、クロ」
あくまで平静を保ったままの別れ際。だがその声には、どこかしら名残惜しさがにじんでいた。
クロはヨルハの背に飛び乗ろうと身をかがめ――ふと動きを止めて、ゆっくりと振り返る。
「……ひとつ、よろしいですか?」
「なんだ?」
「ノーブルさん。――もしかして、貴方は“皇族”では?」
その問いに、ノーブルの表情は微動だにしなかった。
「なぜそう思う?」
静かに返された問いに、クロは肩をすくめながら、淡々と答える。
「直感、というほど曖昧ではありません。近衛がこの辺境に出向く理由としては、いささか不自然かと」
「軍の輸送部隊を動かすほうが合理的だ、と?」
「ええ。いくら皇帝陛下のお孫様のためとはいえ、わざわざ近衛の、それも現場指揮官格の貴女が同行するとは思えない。それに――出会った軍人たち、皆が迷いなく敬礼していました。規則以上の“敬意”でしたよ」
そこで一拍置き、クロは視線を逸らすことなく続けた。
「つまり、“軍人としての上官”ではなく、“それ以上”の何かとして扱われているように、見えました」
ノーブルは、わずかに口元を歪めた。それが否定か、肯定か、あるいは戯れかはわからない。
「……どこからどう見ても軍人だろう?」
そう言って、両手を軽く広げてみせる。
「軍服を着て、命令を下して、任務を遂行している。……それだけじゃ、だめか?」
問い返す口調に強さはなかった。むしろどこか、寂しげですらある。クロは少しだけ目を細め、すぐには返事をしなかった。
だが、やがて視線をヨルハへ向け、柔らかく笑う。
「――いえ。今のところは、それで十分です」
クロは穏やかに言い、そして最後にひと言だけ、ことさら何気ない調子で付け加えた。
「……何か依頼があれば、指名依頼をください。私の情報は、もう把握されていると思いますので」
それを聞いたノーブルは、一瞬だけ目を見開いたが、すぐに口元を緩める。
「商売がうまいな。――わかった、何かあれば君を指名させてもらうよ、クロ」
「よろしくお願いします」
クロはひとつ丁寧にお辞儀をして、軽やかな動作でヨルハの背へと飛び乗った。
クロが背中を軽く撫でると、ヨルハは空へ向かって滑るように駆けていく。風を切る音すら最小限に、ヨルハは一気に加速し、やがて空と同化するように姿を消していく。
ノーブルはその空の一点を、しばし見つめていた。
その横へ、玄関で控えていた軍人が静かに歩み寄る。
「……そんなに私は、わかりやすかっただろうか」
ノーブルは問いかけながら、自嘲気味に息を吐く。
「いえ。ノーブル様のせいではなく……おそらく、隊員たちの過剰な敬意が、あだとなったかと」
軍人の返答に、ノーブルは苦笑を浮かべた。
「そうか。ならば仕方ないな……」
ふと、目を細めて空を仰ぐ。
「……しかし、不思議な子だったな」
「はい。ただ――警戒は、すべきかと」
アトラの言葉に、ノーブルは小さく頷いた。
「同感だ。アトラ、すぐに本国の諜報部に伝達してくれ。――軍内部および帝国直轄企業における不正の有無を精査。不審な動きがあれば、裏切り者として対応する。場合によっては……“ビハインド”を動かすことも視野に入れる」
重く、静かな命令だった。だがそこには一切の迷いがなかった。
アトラは厳かに姿勢を正し、深く頷いた。
「承知しました。直ちに着手いたします」
ノーブルは小さく息を吐き、視線を戻す。
「それと――クロの周辺についても、動向を抑えておけ。ただし、決して干渉はするな。……接触の機会があれば、“丁重に”な」
「了解しました」
アトラの背がすっと伸びる。その反応を確認したノーブルは、ふと背を向け、クリスタルドラゴンへと視線を向けた。
「まったく……お父様の粋な計らいが、こんな騒動を呼ぶとはな」
虹色の結晶でできたその“花”は、当然ながら何も返さない。だが、どこか――その視線が、空に消えていったクロたちの方を向いているような気がして、ノーブルはわずかに目を細めた。
「……さて。兵たちを叱りに行くとするか。“あれで気づかれないわけがない”とでも、言ってやろう」
肩を竦めるその様子に、アトラが苦笑を漏らす。
「それは……部下たちにとって、なかなか恐ろしいお言葉ですね」
「うん、存分に震えてもらおうか」
ふたりの言葉に、皮肉でも怒りでもない、わずかな笑いが交差する。けれど、クリスタルドラゴンの前に立つその背中は、揺るぎなく凛としていた。
そして、そのやり取りの先に広がっていたのは、風に揺れる空の青。
ヨルハの風を切る音すら聞こえない。クロの姿は、もはやどこにも見えなかった。