表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
バハムート宇宙を行く  作者: 珈琲ノミマス
転生者とマーケット
190/493

大地との出会い、森の呼吸

 ゲイツ=クァントス帝国の辺境、フロティアン国のすぐ外れ――緩衝領域を挟んで睨み合う宙域に浮かぶ惑星リモリア。帝国領とはいえ辺境であるはずのこの星の周囲には、航行マップ上に「安全圏」の表示が広がっていた。いかにも帝国らしい統制の行き届き方だった。


 バハムートはその大気を音もなく突破し、誰の目にも触れることなく地表へと降下していく。着地地点は、人跡未踏の深い樹海。梢すらもかすめることなく、宙をすり抜けるように滑り込むと、その巨躯は地表近くの隙間へと静かに留まった。


 本体を透明化したまま擬似コックピットから、クロとクレアが姿を現す。初めての大地に、クレアの四肢がそっと触れた瞬間。彼女の中に、鮮烈な衝撃が走った。


 クレアは一歩、そしてもう一歩と、慎重に地を踏みしめる。その四肢に伝わる感触が、彼女の感覚を激しく揺さぶった。


 これは――土。


 ぬかるんで柔らかく、湿っていて、足裏がじわりと沈み込む。コロニーの合成材や床とは違い、不均一で、手触りも温度も「生きている」。


 踏むたびに土が絡みつく。それが不快ではなく、むしろどこか安心感すらあった。足元に伸びる細い草の茎、砕けた枯葉、微かに跳ねる小さな虫たち――それらすべてが、クレアにとって未知の世界だった。


「……すごいです、クロ様。ふわふわしてるのに、しっかりしてて……あったかいです」


 鼻腔をくすぐるのは、濃密な匂い。花でも香料でもない、ただ「森」そのものの匂いだった。湿気と腐葉土、草と木の息づかい。肺に吸い込んだ瞬間、鼻の奥がじんと熱を帯び、思わずクレアは顔をしかめた。


「くしゅっ……!」


 反射的にくしゃみがこぼれる。だがその後、彼女は小さく笑った。


「……なんだか、苦いけど……いい匂い、ですね」


 呼吸をするたび、身体の奥がびりびりと震える。濾過された空気では決して感じられない、生き物の匂い。風が通り過ぎるたび、木々の葉がざわめき、頭上で光が揺れる。それだけで、胸がぎゅっとなるほど、何かが満たされていく。


「これが……本物の、大地なんですね」


 言葉にならない衝動に突き動かされ、クレアは地を蹴って一歩跳ねた。葉が舞い、泥がはね、土が飛ぶ。すべてが彼女の感覚に新しく、嬉しかった。


 目を輝かせながら、クレアは四つ足でぐるぐると周囲を歩き回る。見渡す限りの木々。重なり合う影。どこまでも生きている匂い――それらはすべて、彼女にとって初めての「世界」だった。


「クレア。肩に乗る前に、ちゃんと足を拭いてください。泥だらけですよ」


 クロがそう言いながら、端末を取り出し現在地を確認すると、そっとゴーグルを装着する。視界に映るルート情報が、仮想表示として浮かび上がる。


「クロ様、それは……?」


「ゴーグルです。ここに地図が投影される仕組みでして。これなら、森の中でも迷子になりません」


 得意げに説明するクロに、クレアは少しだけむっとした顔を見せた。


「……そんなものに頼らなくても、私が案内できます! 鼻も耳も、森には向いてるんですから!」


 ふんっと鼻を鳴らし、胸を張る。だがクロはそれに微笑で応じながら、やんわりと返す。


「たしかに心強いですが、ここは初めての土地ですからね。今回はこの子にお任せください」


 そう言って、ゴーグルを指でとんと叩いた。


 不満げに耳を伏せるクレアだったが、結局は言い返せず、クロの足元に寄り添うように位置を変える。


「さて……どうやら、このあたりに人の気配はありませんね。――では、少し走りましょうか」


 クロはひとつ深呼吸をしてから、森の奥へと歩を進め始める。


「せっかくの大地です。楽しんでください。それと、万が一誰かの気配を察知したら、すぐに教えてくださいね」


「はいっ、まかせてください!」


 クレアは目を輝かせ、力強く返事をすると、土を蹴ってクロの隣にぴたりと並ぶ。次の瞬間――


 風が裂けた。


 クロが踏み込んだその一歩は、人間のものとは思えない速さを伴っていた。滑るように木々の間を抜け、足音ひとつ立てぬまま、枝の隙間を縫うように走る。その背に、クレアもまた全力で食らいつく。


(……は、速……っ! でも……楽しい!)


 自然の大地。柔らかく沈む腐葉土の感触。跳ね返る枝葉。コロニーではありえなかった「感触」の連続に、クレアの五感は次々に新しい刺激を覚えていく。


 鼻をかすめる湿った空気の匂い、すれ違う葉のざわめき、根を踏んだ時に足裏から伝わる微かな軋み。そのすべてが、生きている証だった。


 何より――主と共に走るこの瞬間が、たまらなく嬉しかった。


 やがて、木々の密度が少しずつ薄れ、遠くに空の光が差し込んでくる。


「さて、もう少しで道が見えてくるはずですが……」


 クロが足を緩め、ゴーグルに映るマップを見ながらそう告げる。その表示には、人工的なライン――舗装された道路の存在が、くっきりと映し出されていた。


「道路に出たら、自転車で移動しましょうか。せっかく持ってきましたし」


 軽やかに言うその声に、クレアは一瞬だけ首をかしげたあと、小さく笑みを浮かべた。


「また、新しい冒険ですね!」


 その言葉に、木々の間を抜ける風がふわりと吹いた。空は晴れ渡り、遠くには人の気配すらない静かな世界が広がっている。ふたりの足音だけが、濡れた地面に優しく残されていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ