大地との出会い、森の呼吸
ゲイツ=クァントス帝国の辺境、フロティアン国のすぐ外れ――緩衝領域を挟んで睨み合う宙域に浮かぶ惑星リモリア。帝国領とはいえ辺境であるはずのこの星の周囲には、航行マップ上に「安全圏」の表示が広がっていた。いかにも帝国らしい統制の行き届き方だった。
バハムートはその大気を音もなく突破し、誰の目にも触れることなく地表へと降下していく。着地地点は、人跡未踏の深い樹海。梢すらもかすめることなく、宙をすり抜けるように滑り込むと、その巨躯は地表近くの隙間へと静かに留まった。
本体を透明化したまま擬似コックピットから、クロとクレアが姿を現す。初めての大地に、クレアの四肢がそっと触れた瞬間。彼女の中に、鮮烈な衝撃が走った。
クレアは一歩、そしてもう一歩と、慎重に地を踏みしめる。その四肢に伝わる感触が、彼女の感覚を激しく揺さぶった。
これは――土。
ぬかるんで柔らかく、湿っていて、足裏がじわりと沈み込む。コロニーの合成材や床とは違い、不均一で、手触りも温度も「生きている」。
踏むたびに土が絡みつく。それが不快ではなく、むしろどこか安心感すらあった。足元に伸びる細い草の茎、砕けた枯葉、微かに跳ねる小さな虫たち――それらすべてが、クレアにとって未知の世界だった。
「……すごいです、クロ様。ふわふわしてるのに、しっかりしてて……あったかいです」
鼻腔をくすぐるのは、濃密な匂い。花でも香料でもない、ただ「森」そのものの匂いだった。湿気と腐葉土、草と木の息づかい。肺に吸い込んだ瞬間、鼻の奥がじんと熱を帯び、思わずクレアは顔をしかめた。
「くしゅっ……!」
反射的にくしゃみがこぼれる。だがその後、彼女は小さく笑った。
「……なんだか、苦いけど……いい匂い、ですね」
呼吸をするたび、身体の奥がびりびりと震える。濾過された空気では決して感じられない、生き物の匂い。風が通り過ぎるたび、木々の葉がざわめき、頭上で光が揺れる。それだけで、胸がぎゅっとなるほど、何かが満たされていく。
「これが……本物の、大地なんですね」
言葉にならない衝動に突き動かされ、クレアは地を蹴って一歩跳ねた。葉が舞い、泥がはね、土が飛ぶ。すべてが彼女の感覚に新しく、嬉しかった。
目を輝かせながら、クレアは四つ足でぐるぐると周囲を歩き回る。見渡す限りの木々。重なり合う影。どこまでも生きている匂い――それらはすべて、彼女にとって初めての「世界」だった。
「クレア。肩に乗る前に、ちゃんと足を拭いてください。泥だらけですよ」
クロがそう言いながら、端末を取り出し現在地を確認すると、そっとゴーグルを装着する。視界に映るルート情報が、仮想表示として浮かび上がる。
「クロ様、それは……?」
「ゴーグルです。ここに地図が投影される仕組みでして。これなら、森の中でも迷子になりません」
得意げに説明するクロに、クレアは少しだけむっとした顔を見せた。
「……そんなものに頼らなくても、私が案内できます! 鼻も耳も、森には向いてるんですから!」
ふんっと鼻を鳴らし、胸を張る。だがクロはそれに微笑で応じながら、やんわりと返す。
「たしかに心強いですが、ここは初めての土地ですからね。今回はこの子にお任せください」
そう言って、ゴーグルを指でとんと叩いた。
不満げに耳を伏せるクレアだったが、結局は言い返せず、クロの足元に寄り添うように位置を変える。
「さて……どうやら、このあたりに人の気配はありませんね。――では、少し走りましょうか」
クロはひとつ深呼吸をしてから、森の奥へと歩を進め始める。
「せっかくの大地です。楽しんでください。それと、万が一誰かの気配を察知したら、すぐに教えてくださいね」
「はいっ、まかせてください!」
クレアは目を輝かせ、力強く返事をすると、土を蹴ってクロの隣にぴたりと並ぶ。次の瞬間――
風が裂けた。
クロが踏み込んだその一歩は、人間のものとは思えない速さを伴っていた。滑るように木々の間を抜け、足音ひとつ立てぬまま、枝の隙間を縫うように走る。その背に、クレアもまた全力で食らいつく。
(……は、速……っ! でも……楽しい!)
自然の大地。柔らかく沈む腐葉土の感触。跳ね返る枝葉。コロニーではありえなかった「感触」の連続に、クレアの五感は次々に新しい刺激を覚えていく。
鼻をかすめる湿った空気の匂い、すれ違う葉のざわめき、根を踏んだ時に足裏から伝わる微かな軋み。そのすべてが、生きている証だった。
何より――主と共に走るこの瞬間が、たまらなく嬉しかった。
やがて、木々の密度が少しずつ薄れ、遠くに空の光が差し込んでくる。
「さて、もう少しで道が見えてくるはずですが……」
クロが足を緩め、ゴーグルに映るマップを見ながらそう告げる。その表示には、人工的なライン――舗装された道路の存在が、くっきりと映し出されていた。
「道路に出たら、自転車で移動しましょうか。せっかく持ってきましたし」
軽やかに言うその声に、クレアは一瞬だけ首をかしげたあと、小さく笑みを浮かべた。
「また、新しい冒険ですね!」
その言葉に、木々の間を抜ける風がふわりと吹いた。空は晴れ渡り、遠くには人の気配すらない静かな世界が広がっている。ふたりの足音だけが、濡れた地面に優しく残されていた。