新たな名と贈り物の理由
「アルカノヴァ、でもいいですか?」
ノアが控えめに口にすると、その場に少しだけ緊張が走った。
「……どんな意味だ?」
ギールが目を輝かせて問い返す。言葉の奥に、純粋な興味が滲んでいた。
「えっと、アルカが“箱舟”って意味で、ノヴァは“新星”……つまり“新しい旅立ち”みたいな感じです」
照れたように説明するノアの声を聞きながら、クロは端末を開き、淡々と入力を進めた。
「登録しておきました」
ピッ、と確認音が鳴る。
「ところで、機体はどこに保管します?」
ギールがすかさず端末を起動し、ホログラフに料金表を浮かび上がらせた。そこにはギルド専用整備ドックの使用料が、細かく区分されて表示されている。
「10mから30m級なら……一ヵ月で二万C。後払いも可能だよ」
その一言に、ノアの肩がわずかに揺れた。金額の重みが、夢の熱を冷ますように、そっと現実へ引き戻していく。
「もちろん、自分専用のドックを購入することもできる。だが――今のところ空きはない」
グレゴが腕を組みながら補足する。その声には、現場を知る者ならではの実感が滲んでいた。
「コロニー直結の場所じゃなくて、小惑星に設置されてるドックなら若干の空きはある。だが……現実的とは言えんだろうな」
現場の不便さを思い出すように、グレゴはわずかに眉をひそめた。そして、言葉を継ぐ。
「それに、ギルドのドックなら許可済みのドローンバスが常時運行してる。移動費も使用料に含まれてるから、その点も心配いらん」
グレゴの説明は実直だったが、ノアはどこか気まずそうに視線を落とした。
「それがですね……」
小さな声とともに、ノアは端末を取り出す。そして、ためらいがちに残高画面を投影した。
淡く光る数字――表示されたのは、わずか五千C。
一瞬の沈黙のあと、ギールとグレゴはほぼ同時に、深いため息を吐いた。
「……よくそんなんで、機体のID代、自分で出すって言えたな」
グレゴの声は呆れと驚きが入り混じっていたが、その口調はどこか憎めない。
対するギールは苦笑いを浮かべつつ、フォローを入れる。
「ま、大丈夫。使用料は後払いできるから。すぐにどうこうって話じゃないし」
それでもノアの表情は晴れず、端末の画面を閉じる手がどこか弱々しかった。
そんな彼を見つめながら、ギールはわずかに言葉を選ぶように口を開いた。
「……もしよかったら、うちのチームで動いてみない?」
その一言に、ノアがそっと顔を上げる。ギールの声には、冗談の響きはなく、まっすぐな温度だけが宿っていた。
「俺が所属してるところなんだけど、ちょうどアタッカーが一人抜けてて、補強したくてさ。良かったら、一度みんなに会ってみない?」
押しつけがましさも、下心もない。ただ“選択肢を与える”という誠実な想いが、静かに言葉に込められていた。
その空気を受け取り、グレゴが重々しく腕を組み直す。そして、低く力強い声で続けた。
「こいつのチームなら、戦艦もあるし専用ドックも完備されてる。環境としては申し分ない。何より――」
言葉を切り、グレゴは顎でギールを指し示す。
「リーダーはこいつだ。安心していい」
ギールは少しだけ照れたように肩をすくめ、それでもどこか誇らしげに笑みを浮かべた。
「……保証するよ。俺の名にかけて――それと、このコロニーのギルドマスターとしてもな」
短い沈黙が訪れた。だが、それは重苦しいものではなかった。迷いと希望が交差する、柔らかな余白。
ノアはそっと端末に視線を落とし、静かに握った拳を胸の前で小さく結んだ。
その掌の中に生まれた、名もなき決意を込めて――
「……お願いします。会わせてください」
小さな声だったが、確かに響いた。その言葉に、ギールはゆっくりと頷く。
「わかった。じゃあ、今から一緒に行こう。俺の拠点まで」
言葉に力を込めすぎないよう、ギールは穏やかな声で告げた。その響きは、そっとノアの背中を押すように、優しく空気に溶けていく。
「よかったですね。では、解散ですかね」
場がまとまったと感じたクロが、自然な流れで締めに入ろうとした、そのとき――
「待て、クロ。お前に、ひとつ頼みたいことがある」
グレゴの低い声がリビングに響き、クロの動きがぴたりと止まる。ただならぬ気配を察したのか、グレゴはギールとノアに向き直り、静かに言った。
「二人は先に行ってくれ。俺もあとから行く」
ギールは一瞬、怪訝そうに目を細めたが、グレゴの真剣な眼差しに言葉を呑む。
「……わかった。行こうか、ノア」
「はい。クロさん……本当に、ありがとうございました」
「気にしないでください。先輩ですから」
微笑んでそう返したクロの横で、クレアは誇らしげに胸を張った。
ソファーから二人は立ち上がり、店のカウンターにいるアヤコに「帰るね」と軽く声をかけ、ギールとノアは静かにその場を後にした。
残されたリビングには、グレゴとクロ、そしてクレアだけが残る。空気がわずかに引き締まり、グレゴは誰もいないことを軽く確認した後、無言のまま端末を操作する。
ホログラムに浮かび上がったのは、ひとつの依頼画面だった。
「これだ。この惑星まで行って、買い物を頼みたい」
表示された座標をクロが確認すると、そこはフロティアンではなかった。帝国圏の外れ、辺境と呼ばれる田舎惑星のひとつ――流通もまばらな場所だった。
「いいですけど……期限が“今日中”って、どういうことです?」
クロが不思議そうに尋ねると、グレゴはどこか気まずそうに鼻を鳴らし、目を逸らす。
「……日、なんだ」
「聞こえません」
即座に返され、観念したように肩を落とす。
「……ジンの誕生日だ。注文は半年前に済ませてたんだがな……製作に手間取って、ギリギリになってしまった」
豪放な性格で知られるグレゴが、どこか照れたように言い淀む姿は、意外でもあり、どこか微笑ましくもあった。
豪腕の戦士が、ただ一人の妻のために用意した贈り物――それはきっと、言葉よりも深い想いが込められていた。