神威の否定、漆黒の眼差し
老人は思わず息を飲んだ。少女の全身に走ったはずの雷は、まるで通り過ぎた風に過ぎず、痛みひとつ残していない。だが、それ以上に――あの一言が、精神を抉った。
“変態行為”。
それは神を名乗る者にとって、最大の侮辱だった。崇高な破壊の意志も、圧倒的な威光も、そのひとことによってすべてが下世話な茶番に貶められた。
「ば、馬鹿な……おのれ……っ!」
顔を赤く染め、怒りとも羞恥ともつかぬ表情で、神は一歩後ずさる。自らが“絶対”であるという構図が、音を立てて崩れていくのを、自覚せざるを得なかった。
「き、貴様如きが……神に……そのような、無礼な……!」
震える声には威厳もなく、ただ苛立ちと困惑だけが滲んでいた。
一方、クロは首を傾げ、純粋な疑問のように問いかける。
「……だってそうでしょう。年老いた男が、少女の体に乗り移ろうとするなんて――どう見ても、“そういう趣味”にしか見えません」
「ち、違う! 我は……我は神ぞ!」
「まあ、神にしては――随分、弱いですね。本当に“神”なんですか?」
淡々と投げかけられた言葉が、空間に冷たく響く。この闇を支配していたはずの“神”が、たったひとりの少女の言葉によって、確かに揺らぎ始めていた。
クロは小首を傾げるようにして、続けた。
「……ところで、あなた。“本物の神”と、つながっているんですか?」
静かに、疑念を向けられた瞬間――
神は、はっとしたように目を見開いた。そして、自らの内に何かを思い出すように、言葉を吐き出す。
「そ、そうだ……そうとも、我は神……! 創造と破壊の意志、その具現たる存在……たかが小娘ごときに――惑わされてなるものか……!」
だが、その叫びには威厳も力もなかった。崩れかけた自尊心を取り繕うために、必死で自らに言い聞かせるだけの、空虚な宣言。
クロはわずかに目を細めて、その様子を見据える。
「……その“神宣言”、ちょっと情けないですね」
抑揚のないその一言が、虚勢を張り続けていた“神”の誇りを冷たく切り裂いた。
「我慢ならん……!」
怒声と共に、闇が波打つ。神の姿が歪み、圧が一気に増していく。
「貴様の魂に焼きつけてやろう、この真の力を!」
空間そのものがうねり、直後、雷鳴が轟いた。先ほどまでの雷撃とは比べものにならぬ濃密な破壊の奔流。怒りのままに放たれたその雷は、もはや“神罰”ではなく、衝動そのものだった。
巨大な雷柱が闇を裂き、容赦なくクロを貫く。閃光の中、クロの左腕が焼け焦げ、炭化し、音もなく崩れ落ちていく。
紫電を残した煙がたちのぼり、虚無の空間に、灼け焦げた空気が広がっていく。視界が揺れるほどの熱と圧力の中、“神”と名乗る存在が哄笑をあげた。
「どうだ小娘! 痛かろう! 恐ろしかろう! さあ、泣き喚け、地に這いつくばれ!」
だが――その期待を裏切るように、クロは小さくため息をついた。
「……いや、もういいです」
その声は、あまりにも淡々としていた。怒りでも、恐れでもない。ただ純粋な“興味の喪失”が、そこにあった。
「お前みたいなのに時間を使った私が、バカでした」
その一言が、まるで刃のように、神の誇りを真っ二つに断ち切った。
「なっ、我を……バカ呼ばわりだとぉ!? 小娘の分際で、この我を侮辱した報い……その身をもって刻ませてくれようぞ!」
激昂に任せ、神はふたたび雷撃を振るった。轟雷が奔り、焼け焦げた空間をさらに暴れまわる。今度こそ、とどめを刺すとばかりに――クロの身体が、今度は完全に、黒い影へと消し炭にされた。
雷光が収まると同時に、神は息を吐くように肩を揺らし、満足げに呟いた。
「さて……小娘の身体、そろそろ我が依り代として――頂くとしよう」
だがその瞬間――
沈黙に包まれていた虚無の闇に、異質な“気配”が立ち上る。焦げたはずの空間の中心。焼き尽くされたはずの場所に、再び“存在”が現れた。
黒――いや、“漆黒”の影が、ゆっくりと立ち上がる。全身を覆うような深い黒。その中で、唯一際立つのは――
漆黒の中に浮かぶ金色の双眸。それは、すべてを見透かすように――そして、断罪する者の眼差しだった。
無機質なはずの闇の中で、確かにそこに“生きている”という圧倒的な存在感が、空間を満たしていく。先ほどまでのクロとは、何かが――決定的に違っていた。