神の圧と少女の沈黙、変態認定
クロは、静かに瞼を閉じた。先程の行動、クレアへの指示は“演技”だった。異常を装って退避させたのは、失敗した場合に周囲を巻き込まぬため。だが、内心――その演技が完璧に通じたことに、ほんの少しだけ満足していた。
(……うまくいったな。けれど)
彼女の眉が、わずかにひそめられる。
(未だに、脳内にしつこく――)
思考の隙間に滑り込んでくる不快な声。まるで誰かの“命令”のような、それでいて底知れぬ悪意に満ちた干渉。――殺せ、破壊しろ、全ては虚構だ。お前の使命は暴力だけだ。無遠慮に繰り返される命令のような衝動を、クロは静かに遮断するように息を吐いた。
「精神干渉……なるほど。ノアが、これにやられていたんですね」
納得とともに呟いたその声は、冷たく凪いでいた。クロはゆっくりと意識を沈め、己の深奥へと降りていく。――ストームシュトルムの内に広がる、異質な領域。そこは、すべてが黒に染まった虚無の空間だった。音も風も、光さえも存在しない。まるでこの世の外側――何者をも拒む、完全なる闇。その中心に、ひとりの老人が佇んでいた。
クロの姿を認めた瞬間、その男の目に怯えの色が走る。肩がびくりと震え、唇が小刻みに動く。
「な、なぜだ……! お前……どうやって……ここに入ってきた……!?」
恐怖と困惑が滲むその声を、クロは冷ややかに受け止める。一歩、また一歩と、無音の闇を踏みしめるように前へ進みながら――その声色には、微塵の揺らぎもなかった。
「神か、その残滓か……どちらでもいい。だが――煩い」
鋭く、切り捨てるような声音。その瞬間、空間そのものがわずかに震えたかのように、重圧が走る。老人は一瞬身をすくませたが、すぐに顔を歪め、不敵な笑みを浮かべた。だがその笑みにも、どこか焦りが混じっていた。
「なんだ……“小僧”ではないのか。だが構わん。小娘でも本質は同じ……我が言葉には逆らえぬ」
クロは足を止め、まっすぐに男を見据える。
「……お前は、本物か?」
その問いは静かだったが、魂の奥に突き刺さるような“確認”だった。
老人は両腕を広げ、闇の中で高らかに宣言する。
「そうとも。我は神だ。この世界の破壊を望み、創造を繰り返す者。我が意志は絶対。小僧ではないのは残念だが、小娘であろうと変わらぬ。お前の意識など、すでに――我が手の中にある!」
空間に響く声。その圧力は確かに強大なはずだった。だが――それを受け止めたクロの声は、あまりにも淡々としていた。
「……では、どうぞ」
その一言に、老人の動きが止まる。
「……は?」
口に出してしまってから、自分でも疑問のように返す。神を名乗る存在に、ほんのわずかな困惑が混じる。
クロはさらに続けた。声音は静かだが、鋭さを孕んでいた。
「手中にあるんですよね、私の意識が。なら、どうぞ――好きなようにしてみてください」
挑発でも怒りでもない。ただの“確認”としての言葉。だが、それこそが何よりの冷徹な圧力となって、相手の“神”を揺るがせる。
「……できないんですか?」
重ねられたその一言が、虚勢に満ちた“神”の鎧を鋭く貫いた。
「黙れッ!」
闇の中で声が荒れ狂う。神を名乗る存在の顔に、剥き出しの怒りが浮かぶ。
「この空間で貴様に抗う術などない! その魂――今ここで消し飛ばしてやる!」
叫ぶと同時に、老人は天を指し示すように両手を掲げた。瞬間、黒き虚無を貫くようにして雷撃が降り注ぐ。神々しいと形容するにはあまりにも凶暴な輝き。幾重にも分かれた雷の矢が、クロの身体を正確に、容赦なく貫いていく――はずだった。
だが、クロの周囲ではまるで空気そのものがそれを拒むように、雷光は歪み、撥ね返される。破壊をもたらすはずの閃光が、あらゆる干渉を無意味にされていくその様子に、“神”を名乗る男の表情が凍る。
「神の裁きだ! ここで滅べ、哀れな娘よ! その残骸、いや、抜け殻は――我が依り代にしてくれようぞ!」
その勝ち誇る声の直後――
クロは一瞬、瞳を伏せる。
そして、雷光の中でゆっくりと顔を上げ、冷えきった声を漏らした。
「……少女の体に、爺がのり移るって……」
そこには、痛みも恐れもなかった。全身に閃光が走る中、眉一つ動かさず、吐き出された一言。
「……それ、ただのホラーですけど」
虚空に静かに響いたその言葉が、“神”と名乗る存在の表情をひきつらせる。だが、クロはさらに一拍置き、口元をわずかに引き締めると、抑揚なく言い放つ。
「……変態行為ですね」
雷鳴が遠ざかる。静寂の中、少女の一言が、雷よりも鋭く“神”の自尊心を焼いた。そして、微動だにせず立ち続けるクロの姿が、彼にとって最も理解できない“異質”として――恐怖そのものとなって迫っていた。