クロ、はじめてのおつかい
転移によって姿を消したまま、デパート入口付近に到着したクロは、女子トイレへと向かった。
周囲に人気がないことを確認し、静かに個室の扉を閉める。
そして、空間の歪みを元に戻し、自らの姿を現す。
「さて、始めますか」
小さく呟くと、クロは個室を出て無言のままトイレを後にし、足早に売り場へと向かう。端末に表示されたシゲルのリストを確認しながら、買い物を開始した。
最初に向かったのは、一番近くの家電売り場。
目的の製品は、シゲルから指定された通り。大型モニターの投影装置に、操作性に優れた電子テーブル。音響調整が可能なスピーカータイルも加え、さらには使用用途が不明な全身マッサージポッドまで――クロは一つずつ確認しながら、タグを端末に追加していく。
そのままレジに向かい、端末をかざして支払いを済ませる。
「電子領収書をお願いします」
「宛名は如何いたしますか?」
「ジャンクショップ・レッドでお願いします」
「但し書きは?」
「設備代でお願いします」
やり取りを終えると、端末に届いた電子領収書データを確認し、『QT-CG・グラウクス』の停泊するドックを配送先として指定。配達日時を即時に設定し、無駄のない動きで次の目的地へ向かった。
家具売り場でも、アヤコが指定したソファや収納棚、椅子類などを迷いなく選び、購入処理を進めていく。クロの動きには、慣れているというよりも“任務の遂行”といった効率の良さがあった。
そうして複数の売り場を巡ったあと、最後に足を運んだのは、総合デパート内にあるサイクルショップだった。
その入口でふと足を止め、クロは展示品のひとつに視線を落とす。
店内に並んでいたのは、自転車――らしき乗り物。だが、どれもが彼女の記憶にあるものとは形状が大きく異なっていた。
細く硬質な素材で成形された前輪。ゴム製ではなく、弾性の低いシリコン樹脂のような質感。太く頑丈そうな車体フレームに対し、後輪はさらに大型で、スラスターのような機構まで取り付けられている。
「……これが、補助付き?」
眉をひそめ、クロは警戒するように一歩、店内へと足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ」
店員はそう声をかけると、作業中だった整備に再び向き直った。特に押しつけがましくもなく、程よい距離感を保ったまま対応を終える。
クロは軽く頷いただけで応じ、ゆっくりと展示機体のひとつへと歩を進めた。
最初に視線を引いたのは、前輪だった。極細の流線型ブレード――素材は硬質なシリコーンのようだが、通常のタイヤのような柔らかさはない。空気抵抗を最小限に抑えつつ、ステアリング操作に応じて空力補正まで行う構造。単なる輪ではなく、むしろ“舵”のような印象さえ受けた。
後輪へと目を移すと、そこには明らかに動力用のベーンが取り付けられていた。大型のシリコーン製ブレードは、車体からの空気の放出と連動しながら、推進力を後押しする“二次推進機構”を持っているようだ。
クロはさらにフレーム全体を見渡す。構造は太く、やや大型に見えるが、素材はカーボンナノ複合樹脂。軽量であるにもかかわらず、振動吸収性と熱耐性を両立しており、過酷な移動条件下でも性能を落とさない工夫が随所に感じられた。
駆動方式も興味深い。ペダルを踏むと、内蔵されたマイクロ発電ユニットが起動し、その電力でエアタンクに空気を圧縮。タンクからの吐出は、複数のマイクロノズルによって後へ放出され、自転車全体を推進させる。
(つまり、ペダルを漕げば発電され空気を蓄積し、その空気で前に進む……?)
彼女の中にある“自転車”という固定観念が、静かに塗り替えられていく。
補助機能として、空気圧を用いたルート制御システムまで搭載されており、自動でバランス修正まで行ってくれるようだった。いわば、乗る者に優しい補助輪のようなもの。
「……補助輪、というより、別物ですね」
小さく呟いたその声は、誰にも聞かれなかった。
クロはそのまま店内を歩き、展示機体のひとつに目を留める。
それは、ルテファというメーカーのモデルだった。青い車体に、どこか懐かしさを感じさせる流線型のハンドル。――転生前に見たロードバイクに、よく似ていた。
車体そのものは他社製と極端な差はない。だが、構造や内部仕様に目を凝らすと、明らかに異なる点があった。
ルテファ製の機体は、まず発電効率が他社よりも一段高い。ペダルによるマイクロ発電だけでなく、後輪側に小型の動力モーターが搭載されており、蓄圧された空気と連動して“無駄なく”推進力を生み出す設計となっていた。
空気推進と電動補助――その両方を巧みに融合させることで、加速時のロスを極限まで減らし、安定した速度と出力を実現している。
(効率だけでなく、制御も洗練されてる……バランスも崩れにくそう)
クロは腕を組み、小さく頷いた。性能に対する理解が、いつの間にか純粋な興味へと変わっているのを、自分でもはっきりと自覚していた。
自然と視線が、車体側面に貼られた価格表示へと滑る。
(……153万C)
一瞬、目を細める。だが――
(やばい、自分の感覚がおかしい。……安いと感じてしまう自分がいる!)
動揺が胸の内に走る。それでも、視線は車体から離れなかった。
見れば見るほど、バランスの取れたフレーム構造、制御系の緻密さ、そして軽やかな佇まいが、理屈を超えて“欲しい”という感情を刺激してくる。
「すみません。これ、在庫ありますか?」
気づいたときには、もう声に出していた――そのくらい、惹かれていた。迷いも、逡巡もなかった。
あとは早かった。即決で購入手続きを進め、オプションパーツや推奨ゴーグル、メンテナンスキットまで次々と追加していく。
まるで、――心がすでに決めていたかのように。