静寂の夜と、どこでも〇
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忠告を終えたクロは、静かに立ち上がると部屋を出てリビングへと向かった。部屋の灯りはすでに落ちていて、わずかに照らすのは外から漏れる淡い街灯の光。無言のままソファに腰を下ろし、クレアをそっと膝に抱き上げる。
「……久しぶりに、寝ない夜ですね」
膝の上で落ち着いたクレアが、穏やかに見上げながら問いかける。
「ソファで横になるのは?」
「いえ、今日は……ただ、ぼーっとしていようかと。何も考えずに、何もしない。……久しぶりに、そういう夜を過ごしたくなりました」
クロはそう言いながら、クレアの頭をゆっくりと撫でる。その手のひらから伝わる温もりに、クレアは身を預けるように目を細める。
「……寝ていいんですよ、クレア」
「はい……では、少しだけ」
そう返したクレアは、安心したように小さく丸まり、膝の上で静かにまぶたを閉じた。
クロは何も言わず、そのまま背もたれに身を預ける。呼吸を整え、ただ空間の音に耳を澄ませ――時間の流れも忘れるように、数千年の間、幾度となく繰り返してきた「何もしない時間」へと身を浸していった。
やがて、朝の訪れと共に響くアヤコの驚きの声が、静寂を破るその瞬間まで――クロはただ、静かにそこにいた。
「びっくりしたよ、ほんと。ソファーにじっとしてるクロ、めっちゃ怖かったんだけど」
朝のリビング、アヤコが口を尖らせながら言う。
「……それは、すみません。以後、気をつけます」
クロはあくまで平坦に、しかし少しだけ申し訳なさそうに返した。
朝食を終え、それぞれが身支度を整え始める。アヤコはキッチンを片づけ、ノアはシゲルの手伝いをしていた。
「よし、クロ。この工具と洗浄液も持ってけ。ドローン整備用のやつもまとめてな」
シゲルは次々とアイテムを指差しながら命じ、それをクロが黙々と別空間へと収納していく。
「これで全部だな。よし、じゃあ俺のドックに向かうぞ! 転移でひとっ飛びだ!」
意気揚々と宣言したその直後――
「……無理です」
クロのあっさりとした返答に、シゲルの足がぴたりと止まる。
「は? なんでだよ」
「その場所を知らないので、転移できません。貸ドックなら場所を把握しているので、可能です」
クロは静かに、しかし明確に断言する。
「チッ……そうか、なら貸ドックでいい。そこからエレベーターで行くしかねえか。面倒だが仕方ねぇな」
舌打ちをひとつ、シゲルはすぐに切り替えてクロの前へと立つ。
「で、どうすりゃいい?」
「お姉ちゃんは、私の左肩に。お父さんとノアには、私が肩に手を置きます。レッド君は――誰かが持っていてください」
クロは淡々と告げながら、自分の肩を軽く示してみせる。無駄のない動作。だが、すでに転移の準備は整っているようだった。
「了解。はい、クロ」
アヤコは即座に左肩へ手を置き、微笑みながら目を閉じた。
ノアはやや緊張気味に、その場にじっと立つ。次の瞬間、クロの指先がそっと彼の肩に触れた。
続けてシゲルの肩にも手を置くと、彼は小さく鼻を鳴らす。
「へっ、どんなもんか楽しみにしとくか」
一方、クレアはレッド君の頭に器用に乗っかり、そのままちょこんと座ると、レッド君をアヤコに持ってもらうようお願いする。
「アヤコお姉ちゃん、お願いします。私はここで問題ありません」
「では、目を閉じてください。慣れていないと少し、気分が悪くなるかもしれません」
「よし、さっさとやれ」
シゲルの言葉が合図のように響き渡る。
その瞬間、空間が微かに軋むように揺らぎ、光の粒が弾けるように走った。一瞬、世界のすべてが「止まった」かのような感覚に包まれ――次の瞬間、ふわりと身体が浮き上がる。
足裏から重力が消え、全身が宙に投げ出されたような無重力の浮遊感。
視界が安定すると、彼らの目前には――天井高く広がる貸ドック。その中央に仰向けで寝ている、巨躯なバハムート。
その胸部には、伏せているヨルハの姿。
そして右腕には、今もなおしっかりと保持されている、元ウインドの機体――ストームシュトルム。
クロの転移によって、一行は確かにバハムートの眼前へと、静かに、寸分の狂いもなく降り立ち浮かんでした。
「目を開けてもいいですよ」
クロの一言に促され、全員がゆっくりとまぶたを持ち上げる。
視界に広がるのは、無重力空間の整備ドック。浮遊感の余韻がまだ残る中、最初に声を発したのはシゲルだった。
「……不思議な感覚だな。地面が一瞬で消えて、次には体が浮く。まるで夢の中だ……。これ、俺にもできねぇのか?」
思わずぼやくように言ったその言葉に、隣のアヤコが呆れたように返す。
「できるわけないでしょ、じいちゃん。頭、大丈夫?」
「うるさいな。……エアカーで移動するのって、正直めんどくせぇんだよ」
腕を組みながらぶつぶつと文句をこぼすその姿は、どこか子どものようでもあった。
そのやり取りを横で見ていたノアが、少し遠慮がちに口を開く。
「……夢の技術ですよね。でも、クロさんだからできることです。僕らじゃ真似できません」
静かな声には、畏れと敬意が同居していた。
クロはノアの言葉に何も返さず、ただ静かに前を見据えたまま、わずかに間を置いて口を開いた。
「――できなくはありません。ただ、設置には“ドア”が二つ。それと、それらを固定する“場所”が必要です」
その声音はいつも通りの無感情だったが、言葉の端にはどこか現実的な重みが滲んでいた。
「なんだ、できるんじゃねぇか!」
シゲルが乗り出しながら声を上げる。けれど、その勢いを打ち消すように――
「……ただ、あまり作るなと――“言われて”いますので」
クロは視線を落としながら、淡々と告げる。その語尾には、わずかな間とためらいがあった。
アヤコが、ふと何かに気付いたように声を漏らす。
「――あ。……そっか」
クロはそっと頷いた。
そして、ほんのわずか視線を逸らし、ぽつりと――それでもはっきりと告げた。
「……“神”に、です」
その一言で、空気が――音もなく、凍りついた。