転生者の現実と忠告
風呂を終え、夕食を囲む頃には、ノアの中にあった緊張も少しずつほぐれていた。とはいえ――初めて目にする構成食の調理風景、その見た目とは裏腹に本物の味を再現した「ご飯」。ソフトクリームのように器に盛られた白いそれを一口含むたび、想像を超えた美味しさが口に広がり、ノアは終始驚きの連続だった。
だが、その中でも一番の衝撃は、食事そのものではなかった。
「えっ……なんで動いてるんですか? この子……ロボットじゃないんですか……? え、クロさんの……あ~、なるほど……」
そう、赤いマスコット――レッド君の存在である。勝手に動き、器用に皿を運び、さらには会話に反応する。常識的に考えてあり得ないその光景を前にしても、不思議と「ああ、またクロさんか……」と納得しかけている自分に、ノアは心の底からゾッとした。
ほんの数時間で「異常」に慣れていく感覚。それこそが、今いちばん怖い――そうノアは思っていた。
そして今、彼はクロの部屋にいた。
正面には、変わらず無表情なクロと、肩にちょこんと乗ったクレアの姿。
「今夜は、このベッドで寝てください」
クロが淡々とそう言って指差したのは、彼女が普段使っているシンプルなベッドだった。
「え……クロさんは……?」
思わず聞き返したノアの胸に、ドキリとする感覚が走る。一瞬、まさか――と思った。
女の子と、同じベッドで寝る……? それとも、この恐怖の権化と一緒に寝るってこと……?
どちらの意味で心臓が跳ねたのか、自分でも判断がつかなかった。ただ一つ確かなのは――目の前のクロが、無表情のまま、こちらをじっと見つめて動かないということだった。
「私は寝なくても問題ありません。リビングにでもいます」
「……あ、そうですか」
ノアは思わずうなずいたものの、その胸中は――どこか複雑だった。ほっとしたような、少しだけ寂しいような。安心感と物足りなさが、綯い交ぜになっていた。
だが、その余韻を断ち切るように、クロが静かに口を開いた。
「その前に――私のことを、話しておきます」
そう言って、床を指さし、ノアに座るよう促す。ノアも頷いて床に腰を下ろすと、クロも静かにノアの正面へと腰を落とした。そして、淡々と――けれど、どこか重い調子で言葉を紡ぎ始める。
「まず最初に……俺は、転生者だ」
短い言葉が、静かに部屋を満たす。
「……なんとなく、そんな気はしてました。だから僕を助けてくれたんですか?」
ノアの問いに、クロはほんのわずかに首を振る。
「――正直に言うと、申し訳ないが違う」
その答えは、あまりにもあっさりとしていた。
「最初は、“塵にする”つもりだった。お前が暴れていたとき、危険と判断したからだ」
目を伏せることもなく、淡々と続ける。
「でも、話を聞いていくうちに――どうも様子がおかしいことに気づいた。それで、すぐに“処理”するのではなく、まず捕らえて確かめることにした。……そういう判断だった」
その言葉に込められていたのは、言い訳でも慰めでもない。ただ、淡々と並べられた「事実」――それだけだった。
そしてクロは、まるで続きを思い出したように言葉を足す。
「それと――俺の体に、初めて傷をつけた相手だった。……それが、気になってな」
「えっ……僕が……?」
ノアは、思わず自分の手を見つめる。恐ろしさがふっと胸をよぎる。だが同時に、ほんのわずかに疑問も浮かんだ。
「……僕のスキル、“絶対切断”っていうんですけど。なんで切断出来なかったんですか?」
率直な問いだった。戦闘時、確かに切ったはずの感触があったのだ。だが、クロの体には薄い切り傷しかなかった。
クロは少しだけ目を伏せ、淡々と答える。
「単純な話だ。――弱いから、だろうな」
「……え?」
「お前のスキルの性質は確かに特殊だ。だが、“絶対”とは限らない。この世界には、“絶対”を超える存在が、いくつかある。……格の違いだよ」
その言い方に、傲慢さはなかった。ただし、“線”を引くような明瞭な重みがあった。
「お前の“絶対切断”――それだけで、ゲームに出てくる“俺”、バハムートを倒せると思うか?」
ノアは小さく息を吸い、わずかに苦笑する。
「……無理です。針金みたいな剣で巨神を倒そうとするようなもので……」
「そうだ。そんなものを振りかざしてきたら、俺なら、足を一歩踏み出すだけで――跡形も残らない」
その言葉に込められたのは、威嚇でも見下しでもなく――ただの事実。
ノアはしばらく黙っていたが、それでも視線を逸らさず、クロを真正面から見つめていた。その眼差しの奥にあったのは、静かな畏れと――ほんの僅かな、敬意のようなものだった。
クロは、その視線を真正面から受け止めたまま、わずかに息を吐き出す。
「……なぜ転生の話をしたか、わかるか?」
その問いかけに、ノアは小さく首を横に振る。
「これは秘密にしていることだ。俺が転生者であることも――お前がそうであることも。……誰にも話すな。絶対にだ」
低く静かな声に、ノアは息を呑み、小さく頷いた。
「……はい。わかりました」
その反応を確認してから、クロは一拍の間を置き、再び口を開く。
「――それと。俺やお前のような“転生者”は、この世界に他にもいる」
その言葉に、ノアの背筋がわずかに強張る。
「だが、忘れるな。彼らは味方であるかもしれないし――敵であるかもしれない」
淡々とした口調に、わずかな鋭さが混ざる。
「もし敵と見なせる存在なら……その時は迷うな。躊躇わず、“殺せ”」
その一言が、冷たい刃のようにノアの胸に突き刺さる。
「今回――お前を助けたのは、“特別”だった。偶然と、少しの好奇心。……それだけのことだ」
感情の見えない声音だった。だからこそ、その言葉は恐ろしいほど現実味を帯びていた。
「だから今後、他の転生者と出会ったとしても――自分から正体を明かすな。……そして、絶対に気を抜くな」
そして、静かに言い切る。
「戦闘になったら、ためらわずに殺せ。……それができないなら、すぐに逃げろ」
その声に、脅しの響きはなかった。ただ――この世界の“現実”を知る者としての、揺るぎない警告だった。