名無しが名を得るとき
夢中でジュースを飲むウイングと、無心に牛乳を舐め続けるクレア。
ふたりの様子を見ながら、シゲルは静かにビールを傾ける。一連の騒動を経て、ようやくウイングが落ち着きを取り戻したことを確認すると、わずかに頷いた。
やがて、それぞれが飲み物を飲み終えた頃――
「……クレア、口のまわり」
クロが静かに言うと、肩からテーブルに降りていたクレアは、ぴたりと動きを止める。
その小さな口元には、白くまあるい牛乳のあとがくっきりと残っていた。
「……ふふっ」
苦笑を浮かべながら、クロはテーブルの脇にあったティシュを取り、そっとクレアの口元を拭ってやる。
「む……少しこそばゆいです」
クレアはくすぐったそうに目を細めながらも、大人しくクロにされるがままだった。
そこに広がっていたのは、ほんの数時間前までの混乱が嘘のような――どこまでも穏やかで静かな、安堵に満ちたひとときだった。
その光景を眺めていたウイングが、ぽつりと小さく呟く。
「……この人、本当はどっちなんです?」
心からの疑問だった。
無表情のまま躊躇なく撃ち抜いてきた少女。そして今、目の前で小さな狼に牛乳を飲ませてやりながら、やさしく口元を拭っているその姿。
まるで、別人だった。
問いかけに、隣に座っていたアヤコがくすっと笑いながら答える。
「どっちも、クロだよ」
言葉は断言であり、どこか誇らしげでもあった。
「常識はちょっと怪しいし、服装とか全然気にしないくせに、食べ物の味にはやたらこだわってる」
そう言って、アヤコは少し肩をすくめて続ける。
「でも、悪いものには容赦なくて――“塵にする”。救える命には、迷わず手を伸ばすの。……それが、クロなんだよ」
その声音には、どこか家族のような親しみと、少しばかりの尊敬がにじんでいた。けれど、それに対するシゲルの答えは、まるで真逆だった。
「――アヤコの答えは不正解だな」
ソファにもたれたまま、ビール片手にぼやくような口調で、けれどはっきりと言い放つ。
「こいつはな、ただのバカだ。ポカしまくって、反省もしねぇ。その場その場で思いついたことを即決して、突き進むだけのガキだよ」
そこに怒りはなく、かといって甘さもない。淡々と、けれどどこか呆れたような口ぶりには、長年見てきた“目利き”としての本音がにじんでいた。
言い合うシゲルとアヤコ、そのやりとりにウイングは黙って耳を傾けていた。
ビームを浴びせてきたあの少女が、今は穏やかに笑い、テーブルにいる小さな狼に優しく接している。それを「救う人」と評する少女と、「突っ走るバカ」と断じる男。
真逆に見えるふたりの評価。けれど、どちらの言葉にも嘘はなく――そこに、嘘のない“生き方”があるとウイングは感じていた。
ぽつりと、誰にも届かないような声で呟く。
「……人なんですね」
その言葉は、言い合うふたりにも、無表情で座るクロにも届かなかった。ただ、テーブルの上で牛乳を飲み干し、口元を拭ってもらったクレアだけが――静かに、深く頷いた。
そして、クロが静かに喉を鳴らし、落ち着いた声音でふたりの言い合いを止めた。
「――おふたりとも、そのあたりで。……本題に入りましょう。戸籍の作成です」
場の空気に、再び静かな緊張が戻っていく。
シゲルはビールを一口飲むと、無言で端末を取り出し、軽くスリープを解除する。簡易入力画面を開いたまま、片手で枝豆をつまみながらぼそりと口を開いた。
「で、――名無しよ。新しい名前は、何がいい?」
「……名前、ですか?」
思わず聞き返したウイングの声には、戸惑いと緊張が混ざっていた。視線は自然と、真向かいにいるシゲルへと向けられる。
シゲルはその様子を一瞥し、肩をすくめるようにして言葉を続けた。
「そうだよ。お前の“前の名前”はな――そこにいる銃ぶっ放した奴が、きれいにあの世に送った」
そう言ってクロに視線をちらりと向け、再び枝豆を口に運ぶ。
「つまり今のお前は、“まだ名前もない、ただの名無し”。なに者にもなっていない、空っぽの状態だ」
その声には、淡々とした語り口の中に、どこか重みがあった。
「だからこそ、今ここで――“新しく生まれるための名”を持つんだ。真剣になれとは言わねぇが……どうせなら、これから先の未来に、ちゃんと続く名を選べ」
ウイングをじっと見据えながら、シゲルは最後に問いかける。
「お前は――どう名乗りたい?」
しばしの沈黙のあと、ウイングがぽつりと声を漏らす。
「……名乗っても、いいんですか?」
その言葉には、自信のなさと、少しの希望が入り混じっていた。
シゲルは思わず口の端をつり上げ、肩を揺らして笑いながら、やけに大げさな調子で返す。
「いいに決まってるだろ! 代金はもうもらってるしな!」
ビールを軽くあおると、続けざまに言葉を繋げる。
「罪は、まぁ全部が帳消しになるとは言わねぇが……そのへんはクロが片づけた。あいつに“撃たれた”ってことは、前のお前はもうこの世にいねぇ」
少しだけ声を落とし、軽く肩をすくめる。
「だったら今ここにいるのは、“これからの誰か”だ。……深く考えるな。もっと楽に――肩の力抜いて決めりゃいい」