名を失い、始まりに立つ者
目を覚ましたウイングは、全身を恐怖に染めていた。意識が戻った瞬間、目に飛び込んできたのは――自分を撃ち殺そうとした、あの黒髪の少女。目の前の“静けさ”を纏った存在――クロの姿だった。
その隣では、彼女の行動に本気で怒声を浴びせる男――シゲル。そしてその怒りを、どこか慣れた様子で、淡々とたしなめる少女――アヤコの姿も、目の前にいるクレアも。
――怪物だ。化け物だ。悪魔だ、狼だ。
あの無表情な少女も。怒鳴る男も。静かに仲裁する少女ですらも。ウイングには、その全員が「人の皮をかぶった何か」にしか見えなかった。恐怖は言葉をも奪い、ただただ、震えと息遣いだけが残る。
「大体なあ、お前がこうなる原因つくったんだろうが!」
シゲルが怒気を滲ませて吼える。まっすぐに、クロを責めるように。
けれどクロは、微動だにせずに返す。
「……殺したように見せかけるためには、必要でしたよ」
「クロ、なにやったの?」
アヤコが少し眉を寄せながら尋ねる。
クロは躊躇なく――それでいてどこか申し訳なさそうに、事実を答える。
「体に六発ほど、ビームガンを撃ち込みました」
そしてすぐ、淡々と補足する。
「……でも再生の腕輪で、すぐ治ってます」
その言葉を聞いた瞬間、アヤコは額に手を当て、う~ん……と唸った。ゆっくりと天井を仰ぎながら、苦笑を浮かべる。
「クロ……それは、やり過ぎ」
「ですが」
クロの声音には、ほんの僅かな迷いが混じっていた。
「罰は必要だったと思っています。本来、殺されても文句は言えなかったはずです」
視線は逸らさず、まっすぐ。
「たとえ、騙されていたとしても――記憶を消されていたとしても、です」
静かに放たれたその言葉に、天を仰いでいたアヤコの動きが止まる。一拍置いて、ゆっくりとクロの方へと顔を向けた。
「……騙されてた? 記憶が、消されてた?」
その問いには、驚きと困惑、そして小さな怒りが混じっていた。状況を飲み込もうとするように、アヤコの眉が僅かに寄る。
クロはそれを受け止めるように、淡々と、けれど少しだけ語気を柔らかくした声で言葉を重ねる。
「簡単に説明すると――組織にさらわれ、記憶を改ざんされて、無差別に暴れまわっていた哀れな子供です」
クロの声はいつもと変わらず静かだったが、その口ぶりには“神の仕業”と“転生”という真実を伏せた上で、できる限りの正確さを込めていた。
「そっか……」
アヤコはぽつりと呟きながら、視線をウイングに向ける。その瞳には、どうしようもない哀れみと戸惑いが揺れていた。
「そのため、彼には一度“死んだ”ことにして、罪の清算を受けさせる必要がありました。……生きているだけ、十分に恵まれているんです」
淡々としたクロの言葉には、情を切り離した“処理者”としての判断がにじんでいた。それでもどこかに、かすかな温情の余韻があった。
「……そこまでやる必要、あった?」
アヤコの問いには、納得しきれない感情が混ざっていた。だからこそ、代わるようにシゲルが鼻を鳴らす。
「バカか。やったことはやったことだ。境遇には同情する……だが、それとこれとは話が別だ」
その短い言葉の中には、長い人生を生きてきた者の揺るがぬ線引きがあった。シゲルはそう言うと、まだ怯えているウイングの目の前にしゃがみ込み、ゆっくりと視線を合わせる。そして、振り返らずに問いかけた。
「クロ。こいつは――死んだことになってるな?」
「はい。戸籍上は、完全に死んでいます」
迷いのないクロの返答に、シゲルは口の端をゆるめて、にやりと笑う。そのままウイングの頭を軽くポンポンと叩きながら、優しくも不敵に告げた。
「よかったな。これでお前は“名無し”だ。――さて、新しいお前を作るとするか」
シゲルの言葉が放たれた瞬間、ウイングはその意味を理解しきれず、ただ呆然とし、しゃがんだままだった。
(……僕が、死んだ? そういえば撃たれた場所……もう、痛くない。傷も――消えてる? “名無し”? “新しい自分”? それって――どういう意味なんだ……)
次々と浮かぶ疑問が、まるで嵐のように頭の中を駆け巡る。けれどどれも、まだ確かな形を持って心に落ちてこない。
それでも、目の前にいる彼ら――クロ、シゲル、アヤコ、そしてクレア――誰もが冷たく突き放すことなく、ただ静かに、まっすぐ自分を見ていた。
敵だったはずの存在に撃たれ、記憶も曖昧なまま――それでもなお、彼らは“排除”ではなく“再出発”を示している。
それが、仲間としての“始まり”であることに、ウイングはまだ気づいていなかった。