信頼と緊張の交錯する帰還
「今日はありがとうございました。いろいろ、わかりました」
クロは素直に頭を下げ、礼を述べる。その姿はどこか柔らかく、ジンに対する敬意と信頼がにじんでいた。
「いいわよ。またわからないことがあれば、いつでもどうぞ」
ジンはいつもの穏やかな笑みを浮かべながら応じる。その声には、形式ではない親しみがこもっていた。
クロは再び静かに頭を下げると、転移の構えを取る。淡い光が一閃し、彼女の姿は音もなく消えていった。
静寂が戻った室内。ジンはふと目を細めながら、ぽつりと呟く。
「あの子が、資金の流れに興味を持つなんて……」
その言葉には、驚きと喜びが半分ずつ混ざっていた。ジンは軽く息を吐きながら、立ち上がると端末から離れ、ソファに身を預ける。
「バハムートが――人の営みに、ようやく追いつき始めたのかしらね」
独り言のようにこぼしたその言葉には、深い感慨と、どこかくすぐったいような愛しさがにじむ。天井を仰ぎ、ゆっくりと目を閉じながら、ジンは静かに微笑んだ。
「これから――どんな日常になるのかしらね」
その声は、誰に届くものでもなかった。けれど、その響きには、未来への期待と、柔らかな余韻が確かに宿っていた。
クロは転移の光に包まれ、静かに自室へと戻ってきた。
目の前には、まだ意識を失ったままのウイングが横たわり、その傍らには、一瞬たりとも気を抜くことなく警戒を続けるクレアの姿があった。
クロの帰還に気づいたクレアは、すぐに振り返る。
「クロ様!」
その声は張り詰めていた空気を和らげるように、わずかに明るかった。
「様子はどうですか?」
クロが静かに問いかけると、クレアはきちんと背筋を伸ばして応える。
「依然、変わりありません。時折、うなされているような兆候はありますが……」
その言葉には、慎重さと心配が滲んでいた。張り詰めた空気はまだ消えないまま、クロは視線をウイングへと向ける。
「ところでクロ様――靴も履かず、どちらへ行かれていたのですか?」
ふとした間に、クレアが不思議そうな顔で問いかけてくる。その言葉に、クロは一瞬きょとんとして――
「……え?」
視線を落とす。足元に目をやったクロは、自身の靴下がすっかり汚れているのに気づき、小さく息を飲んだ。靴下のままギルド内を歩き回っていたことに、今さらながら頬を赤らめる。
慌てて靴下を脱ぎながら、苦笑まじりに返す。
「気にしないで。それよりも……そろそろ起きてくれたら助かるんですが」
床の上で依然気絶したままのウイングを見やり、クロは小さく首を傾げた。そして、隣に控えるクレアに目を向ける。
「……クレア、軽くひと噛みしてみます?」
「かしこまりました」
すっと頷いたクレアは、迷いなくウイングの右腕のそばにしゃがみ込むと――その腕に、ごく控えめに、けれど確かな力で、カプリと小さく歯を立てた。
「うぅがッ!」
呻くような声とともに、ウイングが上体を跳ね起こす。荒く息を吐きながら周囲を見回し、目の前に立つクロを認識した瞬間――
「ぎゃぁぁぁぁ~~~~っ! 殺さないで! 撃たないでぇっ!」
声を裏返らせながら、両手で頭を抱えて壁際へ逃れようとする。その錯乱ぶりに、クロはただ静かに告げた。
「もう一度、撃たれたいですか?」
その言葉が届いた途端、ウイングの動きがピタリと止まる。恐怖に見開いた瞳が、まるで石像のようにクロを見上げていた。
そのとき、階段を駆け上がってくる足音がふたつ、ドタドタと響いた。直後、勢いよく扉が開かれる。
「うるせえぞ! クロ、お前何やってんだ! 近所迷惑だ!」
開口一番、怒鳴り声を上げたのは――シゲルだった。その眉間にはしっかりと皺が刻まれている。
すぐ後ろから、やや遅れて上がってきたアヤコがひょこりと顔を出すと、やれやれといった表情で、ひとこと。
「……いや、じいちゃんの声も十分うるさいよ」
淡々と冷静なツッコミを入れながら、静かに室内へと歩み入る。
そして、錯乱から静止状態へと移行したウイングの視線の先には、クロを中心に――クレア、シゲル、アヤコが整然と並ぶという構図が完成していた。
気づけば、レッドライン家の“面々”が、彼の目の前に勢ぞろいしていた。