帰還と“厄介者”の受け入れ準備
自室の床に、淡い光と共に転移が完了する。空間の揺らぎが収まるや否や、クレアがクロの肩の上でそっと囁いた。
「……クロ様、靴……」
その声にクロはきょとんと目を瞬かせる。
「……脱がせたよ? ちゃんと、ウイングの靴は」
得意げに応えるクロに、クレアはわずかに眉をひそめ、小さく首を横に振る。
「いえ、クロ様……ご自分の靴です」
言われて足元を見たクロは、自分のまぬけさに気づき、静かに息を吐いた。
「……脱いでなかった……」
転移の準備と処理に集中しすぎて、自分の靴を脱ぐのを忘れていた――。クロはウイングをそっと床に下ろし、自分の靴を脱ぐと、肩の上のクレアに声をかけた。
「クレア、見張っててください」
「了解しました」
クレアは軽やかにクロの肩から跳び降り、ウイングの前にすっと移動する。まるで守護者のようにぴたりと立ったその姿を確認し、クロは玄関へと向かい、丁寧に自分の靴とウイングの靴を揃えた。その足で店の方へ出ると――
カウンターでは、アヤコがいつの間にか戻っており、クロの姿を見つけるや否や、満面の笑みで両手の指を「V」の字に広げた。
「クロ、交渉成功! 買取額、なんと三億近くになったよ!」
その金額に、さすがのクロも目を瞬かせる。
「三億!? あの条件から、どうやって引き出したんですか?」
思わず問い返すと、アヤコは胸を張って答えた。
「ジンさんを味方につけたんだよ。そしたら、びっくりするくらいスムーズに進んでさ」
どこか得意げな口調に、クロは感心したように小さく頷いた。
「……なるほど。今度、ジンさんにお願いしてみましょうか」
軽く冗談めかして返すと、アヤコは眉を寄せ、少し言い淀んだ後、苦笑いを浮かべて頬をかいた。
「ごめん、それは無理かも。ジンさん、多分……私じゃないと味方になってくれないと思う」
「どうしてですか?」
クロの問いに、アヤコは少し恥ずかしそうに視線を落としながら、ぽつりと口を開く。
「昔ね……お母さんがいなくなってから、ジンさんのこと、ずっと“お母さん代わり”みたいに思ってたの。甘えたり、泣いたり……すっごくお世話になってたんだ」
「……ああ、そういうことですか」
その事情を知るクロは、それ以上は何も言わず、視線を伏せた。沈黙の中に、思いやりにも似た優しさがそっと滲む。
そして、一拍置いてから、クロは軽く肩をすくめた。
「……じゃあ、私も甘えてみましょうか」
その冗談に、アヤコは吹き出した。
「無理無理! ジンさん、クロの正体知ってるんだよ? バハムートがジンさんに甘えるなんて……ふふっ、想像しただけで腹筋崩壊しそう……!」
笑いをこらえきれずに肩を震わせるアヤコ。その横で、クロは目を細め、ため息交じりにぼそりと呟く。
「……想像しなくていいですから」
軽口を交わした空気が、一瞬、和らいだ。アヤコの笑い声がようやく静まり、部屋に落ち着いた静けさが戻ってくる。
ふと、アヤコは真顔に戻り、小さく首を傾げた。
「それよりさ、またなんか――厄介ごと、なんじゃない?」
「ええ。記憶喪失者ですね」
軽く肩をすくめながら、クロは苦笑交じりに答える。そして、いつものように静かに踵を返した。
小さな足音が、床をやさしく打ちながら、作業場へと吸い込まれていく。扉を開けた先で目に入ったのは――手際よく工具を動かすシゲルの姿だった。
「おいレッド、そこじゃねぇ。右の棚だ、右!」
軽く怒鳴るシゲルに、レッドくんがこくんと頷き、小さな身体で器用に工具箱を抱え、指示された棚へとしまい込む。
その光景に、クロはわずかに目を細めた。
「……ずいぶん、遠慮なく扱ってますね」
ぽつりと漏らすと、シゲルが工具を置き、肩をすくめながら笑う。
「お前が作った存在だろうが。しかもな――お前が使役してた時より、よっぽどホワイトだと思うが?」
にやにやと悪びれもせず笑うその様子に、クロは反論の言葉を飲み込んだ。図星を突かれた分、少しだけ口を引き結ぶ。
「……まあ、否定はしません」
言葉を濁しつつ、クロは話題を切り替える。
「それより、戸籍の件ですが――連れてきました。今、私の部屋で気絶しています」
「気絶って……お前、まさかまた何かやらかしたな?」
シゲルの声は呆れたようで、しかし予想の範囲内という含みがあった。
クロは素直に頷きつつも、淡々と事実を告げる。
「……罪の償いと、“死んだ証拠”を作るために、ビームガンを六発ほど撃ち込みました」
一瞬、空気が止まる。
工具を持ちかけたシゲルの手がぴたりと止まり、ゆっくりとクロを振り返った。
「……想像の斜め上どころか、“真っすぐ上”行ったな、お前……」
頭をかきながら、しかし呆れ半分納得半分といった顔をする。
「まあいい。お前がここまで落ち着いてるってことは、生きてるんだろう。さすがに、そのへんでヘマするほどポンじゃない――と思ったが、やっぱポンか」
最後に付け加えられた一言に、クロは目を閉じ、わずかに肩を落とす。
「……それ、いつまで言われ続けるんでしょうか」
自嘲気味にそう呟くと、シゲルは即座に――そして満面の笑みで返した。
「ずっとだな」
まるで当然のように告げるその声に、クロは小さくため息をついた。
そして、ゆるく目を開けて、苦笑を漏らす。
「……ですよね」