償いと再出発の値段
目の前で、自分の正体を見失い、崩れていくウイングをクロは静かに見つめていた。
「ぼくは……俺……私……誰なんだ……?」
混濁する声が漏れるたび、意識の輪郭がさらに曖昧になっていく。自分という存在が、言葉の形すら保てないほど壊れかけていた。
クロは肩を落とし、小さくため息を吐く。
「……まったく。面倒な事に巻き込まれたものだ。いや、巻き込まれに行ったか」
呟きながら、すっと手を上げ、ためらいなくウイングの額へ手刀を落とす。軽い衝撃音が響き、ウイングが「うぐっ」と短く声を漏らした。
意識が一瞬だけ戻る。
「落ち着け。いいか、確認するぞ」
クロの声は低く、静かだが、拒絶を許さぬ確かな強さがあった。
「……名前も、過去のことも――生前の記憶が、何も残っていないんだな?」
ウイングは頭を押さえたまま、小刻みに首を縦に振る。
「……はい……わからないんです……もう、何も……」
震える声に、どこか幼さが滲んでいた。その姿は、もはや“加害者”という仮面をかぶった何者かではなく――ただ、傷つけられ、道を誤らされた“被害者”そのものに見えた。
クロは一歩だけ踏み出し、静かにウイングの顔を見下ろす。そして、右手をゆっくりと持ち上げ、握りしめた拳を、真っ直ぐウイングに向けて突き出した。
「――道は、二つだ」
言葉とともに、拳が静かにほどかれていく。
一つ。人差し指が、音もなく伸びる。
「一つは――死ぬこと」
二つ。中指が続くように開かれる。
「もう一つは、捕まって――罪を償うこと」
突き出された二本の指は、まるで判決を告げる天秤のように宙で止まる。
クロの声に、怒りも憐れみもなかった。ただ、冷えきった現実だけが、沈黙と共に重く落ちていた。そして、左手をゆっくりと持ち上げ、二本の指をまっすぐに突きつけた。
ウイングは黙ったまま、指の動きを見つめていた。そして、小さく――だが確かな決意を込めて、口を開く。
「……警察に……行きます」
その声は震えていたが、目だけは逸らさなかった。
クロは少しだけ間を置き、表情を変えずに問い直す。
「――死刑になると思うぞ」
ウイングは唇を噛み、かすかに首を横に振った。それでも、瞳の奥には薄く光る覚悟があった。
「それでも……僕は……もう、いないんです。誰だったかも……わからない……」
ウイングの声は掠れ、かすかに揺れていた。
「でも……やったことは、ちゃんと覚えています。忘れてなんか、いない。だから……償いたいんです」
その言葉に、クロは一瞬、視線を細める。
「……本気だな?」
問いかけは静かだった。だが、その裏には確かに、“見極めよう”とする気配が宿っていた。
ウイングは唇を噛み、わずかに首を縦に振る。
「……はい……たとえ、死ぬことになっても……覚悟はあります……でも……」
言いかけて、ふと目を伏せる。
そして――小さく震えながら、本音を零した。
「……死にたく……ないです……」
その言葉に、クロはふっと目を細めた。
「……ようやく本音を聞けたな」
語調は変わらず淡々としていたが、どこか僅かな安堵がにじんでいた。
「償いはしてもらう。それは当然だ。だが、幸い……と言っていいのかはわからないが――お前の顔は、まだ割れていない」
その言葉に、クレアの反応は早かった。肩の上から鋭い声音を放つ。
「クロ様! 駄目です! クロ様の体に傷を刻んだ者など、許せるはずがありません!」
怒気と悔しさが混ざった声。その小さな体から発せられた気迫は、空気をわずかに震わせた。
だが、クロはその言葉を否定もせず、ただ短く答えた。
「クレア。――いいんだ。気にするな」
静かで、けれど確かな抑えの効いた声。クロの言葉には、赦しでも情けでもない――“判断を下す者”としての重みが宿っていた。
「償うと言ったのなら、まずは――お前の“存在”を消す」
そう言いながら、ポケットから端末を取り出す。指先が迷いなく操作を走らせ、接続先は一つ。
通信の相手は、シゲルだった。
『ん? もしもし。なんだ、また儲け話か?』
通信越しに聞こえてくる声は、妙に上機嫌だ。顔は見えずとも、にやけ顔が容易に想像できた。
「そうです。仕事の依頼です」
端的な言葉に、通信越しのシゲルが鼻を鳴らすように返す。
『ほう? どんな仕事だ』
「私と同じように――戸籍を作ってほしい人がいます」
数秒の沈黙。だが、その後に返ってきた声は、どこか含みを持っていた。
『……いいだろう。だが条件はひとつ。――料金は2,000万Cだ。もちろん、クロ。お前が払うのは“ナシ”だ』
先回りされた条件に、クロは苦笑めいた息を吐く。
そのまま端末のカメラを動かし、本体の右腕に抱えられた『ストームシュトルム』を映す。
「……未知の技術で構成されたロボットです」
しばし映像を映した後、冷静な声で補足を加える。
「ただし、右腕は――肩から綺麗に切断されています」
画面の向こう、シゲルがしばし無言になる。やがて、じわりと興味の滲んだ声が漏れた。
『……面白いもん拾ってきたな。確かに、見たこともない機体だ。だが――性能は?』
「乗り手を選びますが、機動性は私が見てきた中でも段違いです」
『なるほど。なら悪くない』
合意の返事。だがすぐに、シゲルの声が事務的に変わる。
『じゃあ、戸籍を作る奴のデータと名前を送って――』
「――少し、待ってください」
クロが会話を遮るように口を挟んだ。
「一度、家に連れて帰ります」
その一言に、通信の向こうでシゲルの空気が微かに変わったのが、音にすら滲んでいた。
『……なるほど。つまり“厄介ごと”か』
「戸籍を作る時点で、もう“そう”でしょう?」
淡々とした口調の中に、皮肉と覚悟が同居していた。