時間停止の神託と我が子
クロが呟いたその時だった。バハムートの内部から、別の声が響く。
「ごめんなさいね。少し、クロちゃんの“本体”を借りさせてもらうわ」
柔らかながら、空間そのものを支配するような声が響いた。次の瞬間、クロの体は固まり、振り返ろうとしても動かせなかった。
周囲を見ると、クレアもヨルハも、ウイングですらも静止している。時間が、止まっていた。
だが、意識だけははっきりと残っていた。目も、思考も働く。ただ身体だけが――動かない。
クロは気づく。この場にいる全員の中で、“会話できるのは自分と彼女だけ”であることに。
「時間が無いの。だから手短にね。……数千年ぶりに話しかけるのがこんな形で、本当に申し訳ないわ」
声の主――女神は、穏やかな語調のまま、説明を始めた。
「まず、あなた。この前、“男の神”に会ったわね。あれと同じように、この宇宙には神がたくさんいるの」
そして、彼女が次に放った言葉は、クロの心の底を強く刺した。
「中にはね――この世界を“滅ぼすこと”を目的にしている神もいるの。……そして、私はそれを知っていて、止めてはいない。“世界の進化”のためだからね」
「……そのためなら、子どもを騙しても構わないと?」
クロの声が、低くなる。
「私自身はそう思わないけれど……そう信じて動く神がいるのも、また事実。私たちは、それぞれの価値観で世界を見ているの」
言葉の端々には、悪意も善意もない。ただ、理屈だけがそこにあった。
「この子――ウイングは、その犠牲者の一人よ」
他人事のように淡々と語るその口調に、怒りがこみ上げる。だが、女神は表情一つ変えず、話を続けた。
「クロちゃんが前に会った神は“勘違いした転生者”だって言ってたわね。でも、彼のように――“利用されて送り込まれた転生者”もいるの。ウイングはその一人。彼自身、自分が何のためにここに来たかなんて、まるで知らずに動かされていたのよ」
「……神にも“派閥”みたいなのがある、ということか?」
「あるわ。“維持”、“中立”、“破壊”。大きく分ければその三つね。その中で私は中立」
「あなたが“中立”? ――俺を数千年も、あの星に縛り付けていた“あんた”が?」
怒気を含んだ声に、皮肉が混じる。クロの瞳が細められ、金色の光が揺らいだ。
「そう。だからこそ、あなたをこの争いには関わらせたくなかった。ずっと隠してたけど……結局、隠し通せなかった。解放しろって怒られちゃったわ」
「それで、“なくなっちゃった”に?」
「ええ。ちょうどあなたが叫んでた頃だったし。もう潮時だったのよ」
「じゃあ、なぜ“前に会った神”は、利用されている転生者の存在を知らなかった? “神”同士で情報共有もできていないのか?」
クロの疑念が、静かな口調に込められる。
「知らなかったんじゃない。“知らされてなかった”の。彼は、“身内に裏切り者がいる”なんて、思ってもみなかったんでしょうね」
その言葉に、クロの眉が僅かに動く。
「……なぜ、“身内に裏切り者”がいると?」
女神はわずかに微笑んだように感じられた。
「だって、“転生”を行えるのは、維持と中立の派閥だけ。破壊には……その力がないの。でも代わりに、別のことができるわよ。――それが何かは、言えないけど。まぁ、そのうちわかるわ」
曖昧な言い回し。意図的に核心を隠すようなその態度に、クロの眉がわずかに動く。はっきりしない言葉の端々に、微かな苛立ちが滲んだ。
だが、女神は構わず続ける。
「私は、どの派閥にも属していない。だからこそ、“神の世界”を外側から、全体を見ていられるのよ。維持も、中立も、破壊も。すべてを傍観できる立場というわけ」
そして、淡々と告げる。
「……でもね。知っていても、伝えるつもりはないの。そこには関わらない。私は――あくまで中立。外側の存在として」
その声には、何かを拒むでも、守るでもない、徹底した“無関心”の温度があった。
「――ということで、時間切れ。そろそろ戻らないと」
「待て。まだ聞きたいことがある」
クロの声が割って入る。女神は楽しげに口元を緩めた。
「ふふっ。二つだけなら答えてあげる。どう? 前に会った神より、ちょっとは優しいでしょう?」
軽い言葉に反応せず、クロは視線を逸らさぬまま問いを選んだ。
「まず一つ。お前は――何の神だ?」
女神は間髪入れずに答える。
「一応、“再生”の神よ。それが知りたかったの?」
「はい。では二つ目――」
クロはわずかに声のトーンを下げ、静かに、けれどはっきりと告げた。
「ビンタしたいんだが、どうすればいい?」
女神は一瞬黙り込んだ。そして、まるで呆れたように、けれどどこか楽しげに笑った。
「ふふっ……あなたって、本当に変わらないわね」
どこか懐かしむように微笑むと、女神はゆっくりと、しかし確かに――最後の言葉を紡いだ。
「……でも、あなたなら“ここ”まで辿り着けるかもしれない。もし、ほんとうに来られたなら――その時は、ビンタしてもいいわ。ええ、好きなだけ。来れれば、の話だけどね」
軽く笑いながらも、その瞳の奥には確かな“試すような光”が宿っていた。
そして――
「バイバイ。私の、ほんとうに可愛い子ども」
囁くように言い残すと、空間そのものがわずかに震えた。重ねられた言葉は穏やかだったが、その響きは――決して冗談ではなかった。
直後、世界に音が戻る。止まっていた時間が、何事もなかったかのように静かに流れ始める。
上を向いていたクロは、ゆっくりと視線を落とした。淡く、ひどく静かな表情で、わずかに瞬きを一つ。
「……クロ様?」
肩に乗るクレアが、首を傾げながら問いかける。その目には、つかの間の異変を感じ取ったような色があった。
「いや……神にも、いろいろとあるみたいだ」
軽く肩をすくめながら、クロはそうだけ言った。それ以上の説明は、今は口にしなかった。