壊れゆく自我と神の所業
その“答え”を、ウイングは認めたくなかった。だが、自身に起きた出来事、そして今までしてきたこと。その全てが、ゆっくりと脳裏に滲み出していく。言い訳も否定もできない。考えをまとめる余裕もないまま、ウイングの思考は泥濘の中を彷徨っていた。
そんな彼に、クロが静かに問いを投げかける。
「……先ほど、“チュートリアル”と言っていましたね。そこで、何を言われました?」
ウイングは顔を上げる。焦点の定まらない目で、記憶の糸を辿るように口を開いた。
「……何もない、白い部屋みたいなところにいて……目の前に、お爺さんがいた」
ぽつり、ぽつりと、思い出すように言葉を紡ぐ。
「そこで……そうだ。“二度目の生に興味はあるか”って聞かれた。チュートリアルの一環だとしか思ってなくて……早く進めろよって気持ちで、“ある”って答えた」
言葉に連れて、記憶が少しずつ鮮明になっていく。
「……それから、ゲームのようなキャラクリが始まって……自分の姿を作って、名前を入力して、スキルを一つもらった」
そこまで言うと、ウイングはふとバハムートの方へ視線を向けた。
「“なんでも切れるスキル”。“絶対切断”って名前だった。それと……この専用機も、あのとき一緒に渡されたんだ」
「確かに、よく切れていました。……もう治りましたが」
クロはそう返しながら、本体を一瞥する。あれほど刻まれていた無数の傷跡は、今や完全に消え失せていた。
「さすがはクロ様です。この大バカ者とは月とスッポンです!」
クレアが誇らしげに言い放つ。顔をしかめるウイングだったが、自身の行動を思えば反論の余地はない。ただ、唇を噛み、肩をわずかに震わせるのみだった。
「クレア、少しだけ静かにしててくださいね」
クロはやんわりとクレアをたしなめつつ、再びウイングに視線を戻す。
「……それで、そのあと、何を言われました?」
ウイングは目を伏せ、記憶を手繰るように口を開いた。
「……それから、“ステータスを振っていい”って言われて……。お爺さんが操作方法を説明してくれたんです。ステータスの出し方や、ウィンドウの使い方、ログアウトについての注意……いくつか“禁則事項”もあった気がします」
「――今は、そのステータス。出せますか?」
問いかけるクロに、ウイングは小さく首を振った。
「……無理です。あなたに会うまでは普通に使えていたんですが……今は、もうまったく。スキルを“使える感覚”だけは残ってるんですけど……ステータスも、ウィンドウも、全部、出せなくなってます」
その答えを聞いたクロは、静かに目を伏せ――そして、次の瞬間、その口調を変えた。
「……もう、わかっていると思いますが。俺も――“転生者”だ」
少年のような低い声。先ほどまでの穏やかな響きは消え、言葉の一つひとつが鋼のように硬質だった。
同時に、クロの瞳が黒から金へと変化する。光を宿したその目が、ウイングを真正面から射抜いた。
「――さて。もう“答え”は出ているはずだ。お前はその“お爺さん”……いや、“神”に、何を言われた?」
刹那、空気が変わった。
言葉ではなく、“存在”そのものが放つ威圧に、ウイングの背筋が凍りつく。
今までただの少女の姿に見えていた存在――その“異質さ”が、一気に濃く迫り出す。
「『すべてを壊せ。お前は――ゲームの主人公だ』って……」
かすれた声で、ウイングは呟いた。
「……あなたが買ったゲームの名前は?」
クロの問いかけは淡々としていた。だが、それがかえってウイングを追い詰める。
ウイングは目を泳がせ、唇を震わせた。
「……あれ? なんだっけ……タイトル……あれ……?」
次第に全身が震え始める。
「いや、いやいやいや……買ったんだよ……ちゃんと……お父さんに頼んで……プレゼントしてもらって……!」
言葉が崩れはじめる。
「友達みんなやってたし……俺も……だから……ゲームは……ゲームのはずで……そうでなきゃ、おかしくて……!」
声が震え、語尾が掠れていく。必死に言い聞かせるようなその独白には、明確な理が欠けていた。
クロは、感情を込めることなく問いかける。
「……ゲーム以外のことは、思い出せますか?」
その言葉に、ウイングはぴたりと動きを止めた。わずかな沈黙ののち、掠れた声で答える。
「……名前は……山田太郎。11歳で……東京にいたはず、たぶん……」
だが、次の瞬間、言葉がねじれる。
「……いや、違う……山田じゃ……ない? あれ……おかしい……?」
言葉の端が震える。
自分の名前が、本当にそうだったのかがわからない。
懸命に思い出そうとする。けれど、霧の中を掴もうとするように、輪郭は曖昧なまま、指の隙間から零れていく。
「……わからない……なんで……俺の名前、俺なのに……どうして……?」
声が、呼吸と共に震えながら消えていった。
その様子を、クロは黙って見つめていた。
崩れていく少年。名前さえ曖昧になり、自分という存在すら揺らぎ始めた姿。そこにあるのは、ただ一人の子どもとしての――恐怖と混乱だった。
しばしの沈黙の後、クロはゆっくりと顔を上げ、天井の向こうにある“何か”を睨むように視線を向けた。
「……どうやら、“神”とやらの中にも、屑が混じっているようだな」
口調は穏やか。だが、その声音には微かに滲む怒気と冷笑が含まれていた。