崩壊する認識と問いの始まり
ログアウトできない。目の前にいるバハムートは、ただの演出ではない。この世界は、仮想空間などではなかった。
その瞬間。ウイングの意識が、音を立てて崩れ始めた。
ゲームの世界。フルダイブ。スキル発動。レアドロップ。何の疑いもなく口にしてきた“常識”が、次々と否定されていく。否、否定どころか、すべてが――他者の命を弄ぶための、都合のいい言い訳だった。
(……レアドロップ? 奪っていた……?)
今までこの世界の住人を“NPC”と見なし、ゲームの進行上、必要な犠牲だと思っていた。だが、思い出すたびに脳裏に浮かぶのは、怯え、逃げ、抗おうとした者たちの顔――そして、それを笑って殺してきた自分。
(違う……俺は、ゲームをしていただけ……なのに……)
否応なく押し寄せてくる現実。この世界には、命がある。痛みがある。生と死がある。ウイングが“破壊してきたもの”は、ただのデータではなかった。
そして、次の疑念が浮かぶ。
『……な……なら……俺は……』
掠れた声で呟く。
“元の世界”は、どこにあるのか?
自分がこの世界に来る前、何をしていた?
どうやって来た? なぜここにいる? あの“神”のような男は誰だった?
記憶が薄れていく。思い出そうとすればするほど、靄がかかる。まるで、“最初からこちらにいるのが当然”だったかのように。
『俺は……俺は、誰なんだ……?』
怒りも嘲りも、もはや残っていなかった。ただ、深く、冷たい恐怖だけが――ウイングの全身を内側から凍えさせていた。
全身を蝕む不安と、現実に踏み込んでしまった者特有の“理解の拒絶”。バハムートは、その反応を沈黙のまま受け止める。
「……あなたを、連行します。抵抗は無意味ですので、大人しくしてください」
静かな、そして断定的な宣言。だが、ウイングからの応答はなかった。否定も、反抗も、ただ――無言。
バハムートはそれを“肯定”と受け取る。巨大な右腕が伸び、破壊されかけたストームシュトルムを、まるで壊れ物でも扱うかのように切り取った右腕と共に慎重に掴み取る。
そのまま反転し、護衛任務を続けるヨルハの方へと航路を向ける。
安全圏へ退避していた輸送艦と、護衛として付き従うヨルハの姿が視界に入る。すぐに、ホワイトライオン急便からの通信が入った。
『……終わったんですか?』
抑えた声音。だが、張りつめた空気の奥に、わずかな安堵が滲んでいた。
「ええ。捕縛は完了です。いま、私の掌の中にいます――暴れる余地はありません」
淡々とした返答。だがその裏には、感情を抑えた硬質な決意があった。
『……殺さないんですか?』
次に届いた声は、怒りと憎しみを滲ませていた。歯を食いしばり、絞り出すような問い。
「……その気持ちは、理解できます。あなた達の怒りも、恐怖も。正直に言えば、私もそうした方が良いのかもしれません」
クロは静かに言葉を選び、語尾を曖昧に沈めた。
「ですが――申し訳ありません。この人物から、聞かねばならないことがあるのです。その後のことは……あなた方の想像にお任せします」
そう言い切ると、クロは通信を切り、護衛任務へと戻った。
静まり返った航路を進む中、右手に掴んだ“転生者”は一言も発することなく沈黙を貫く。ホワイトライオン急便の輸送艦もまた、一定の距離を保ちつつ、バハムートに並走するよう航行していた。
(……まあ、無理もないか。殺された人も、奪われた物も、明日は我が身と考えても不思議じゃない。なのに、生かしている……納得しろというほうが無理かもしれん)
重い沈黙のまま護衛は続き、やがて自社の集積施設が見えてくる。
『……ここから先は我が社の管理区域です。もう大丈夫です、ありがとうございました』
「わかりました。ご苦労様です」
礼を返すクロに、通信越しの声が、わずかに間を置いて続けた。
『いえ、それはこちらのセリフです。本当に、ありがとうございました……。ただ、これは“アドバイス”とは言えないかもしれませんが、あいつは――』
「……言いたいことは、理解しています。けれど、任せていただけますか」
声の調子を崩さぬまま、クロは淡く、静かに返した。
『……わかりました。そうですね、貴方のおかげで、私たちは生きてここまで来られました。すみません、感情的になって』
「気にしないでください。……また、依頼があればどうぞ」
そう言って、クロは通信を切る。バハムートの巨体がゆっくりと旋回し、帰還の軌道へと進み出す。
しばらくはヨルハの指示に従い、航行を続ける。人影も通信もない、空白の宙域。そこへ転移座標を合わせ、コロニー近傍へと一瞬で跳ぶ。
「……さて。尋問といきましょうか」
バハムートの右手には、依然として無言のままのウイングが握られていた。もう、何も返ってこない。
(“神”が言っていた……転生者。そして、あの時の言葉――『君には“自由”がある』、か)
問いを胸に抱えたまま、コロニーのドックへ向かう帰路も、バハムートの思考は途切れることなく巡っていた。