狂気と現実の境界線
いつも『バハムート宇宙を行く』をお読みいただき、誠にありがとうございます。
本日、ブックマークが 1,000 件 を突破いたしました!
ひとえに応援してくださる読者の皆さまのおかげです。心より感謝申し上げます。
感想や評価、誤字報告で作品を磨いてくださった方
「家族としての始まり」から読んで一気に追いついてくださった方
そして新しくレビューを書いて背中を押してくださった方──
皆さまの一つひとつのリアクションが、次の物語を紡ぐ大きな力になっています。
これからも クロと仲間たちの冒険 を、どうぞ温かく見守っていただければ幸いです。
『お前、クロとか言ったな!? 大体卑怯なんだよ! なんなんだよ、そのデカくて無敵なロボットは!』
声は怒気を帯びながらも、どこか拗ねたような響きを含んでいた。
クロはその叫びを聞き流すように、無感情な声で言った。
「IDスキャン中……機体特徴照合、完了」
一瞬の間を置いて、淡々と続ける。
「――あなたは、“ウイング・セイバー”さん、ですね?」
『な……なんで俺の名前を知ってる!?』
驚愕の声が通信に響いた。
だがクロは、まるで関心がないかのように静かに答える。
「賞金、200万C。……なるほど。まだ初期段階ですか。どうりで情報が雑なわけです」
皮肉とも、ただの事務的な確認ともつかぬ声音だった。だが、その一言には、“あなたはその程度”という、明確な断定が込められていた。
「では――ウイングさん」
クロは改めて名を呼び、ゆっくりと問いかける。
「一応確認します。あなた……ここを、ゲームの世界だと勘違いしていませんか?」
『はっ? 何言ってんだお前。バカだろ? この世界はゲームに決まってんだろ!』
返ってきたのは、あまりに軽薄な確信だった。
『たぶんあれだろ、VRに取り込まれて現実と区別がつかなくなるっていうアレ? 病気じゃねーの、お前のほうが?』
言葉の端々に、深い認識のズレが滲んでいた。
だが、バハムートは“逆だ”と言いたかった。明らかに狂っているのはウイングのほうだ。彼の発言、思考、認識――すべてが“ゲーム”に閉じている。
けれど、この世界は違う。ここは、確かに存在している。人はここで生き、悩み、そして、確かに死んでいく。
その現実を、数千年にわたって見守ってきた存在――バハムートだからこそ、言える言葉があった。
「……あなたは、神に会いましたか?」
静かに、だが確かな意思を込めてクロは問いかける。
『ああ? あの爺さんのことか? 最初にいたやつだろ? あれはゲームのプロローグ演出に決まってんじゃん!』
断言するように笑い飛ばす声。それを聞きながら、クロは――心の奥に、小さな静寂を落とした。
ここには、想像よりも深い“錯誤”がある。それは単なる誤解でも、勘違いでもない。――思考の根幹ごと、ねじれている。
この相手に、理を説く意味はあるのか。あるいは、既に何かを取り返しのつかないところまで失っているのか。
クロはほんの僅か、瞳を伏せて小さく息を吐いた。
「……どうしましょうか」
独り言のようなその声は、誰に向けたものでもなかった。だがその響きには、確かに“世界を見守る者”としての重さが滲んでいた。
敵として片づけるのは容易い。だが――それで終わってよいのか。
眼前にいるのは、ただの暴徒ではない。
狂った転生者。歪んだ理解に囚われた者。そして、その背後に微かに漂う“神の気配”。
クロは静かに思考の水面を整えながら、次の一手を――ゆっくりと、定めようとしていた。
その時だった。
『まあいいや! そんなのどうでもいい!』
ウイングの声が跳ね上がる。
『お前、今ここで死ねよ! 俺の経験値になれ! それとそのロボットも全部よこせ!!』
叫び声と同時に、ウイングの機体が閃光のように動いた。
いつの間にか右腕に装備されていた実体剣――細身ながらも異様な煌めきを放つその刃が、ほとんど視認不可能な速度で振るわれる。
瞬間、空間が何層にも断ち割られるような鋭い空気の震えが走った。
『どうだ! スキル発動――《高速十連斬》!!』
ウイングの声が勝ち誇るように響く。
だが、次の瞬間、静かな――あまりに静かな声が、それを上書きする。
「……すごいですね」
バハムートの巨体は、確かにその場に存在していた。だが、体の表面――胸部右側に、わずかに切り裂かれた痕跡が残っていた。
極限まで薄く、浅く、だが確かに裂けている。それは、数千年間を生きてきた体が受けた――“初めての切創”だった。
「……初めてです。私の装甲に“切り傷”を残したのは、あなたが」
その声音に、称賛も驚愕もなかった。ただ、淡々と――揺るがぬ現実を告げるように。
だが、それはウイングの耳には、まるで嘲笑のように響いた。
『いやいや、意味わかんねぇだろ!? “なんでも切れる”スキルが通じねぇとか、おかしいだろ!』
怒りと困惑の入り混じった声が、無様に振り上げられる。
クロは静かに首をかしげながら返した。
「誇っていいと思いますよ。私の体に傷をつけた存在は、他にいませんから」
それは確かな事実の提示であり――同時に、どうしようもない“格の隔たり”の宣言だった。
その上から目線とも言える口調に、ウイングの怒気は沸点を越える。
『もう知らねぇ! お前なんか要らねぇ! 今すぐ死ねっ!!』
悲鳴にも似た叫び声とともに、ウイングの機体が再び跳ね上がった。
今度は、もう一振り――双剣の実体剣を両手に握り、刃が交差するように高速で振るわれる。
軌跡は光速に迫る勢いで幾重にも絡み、バハムートの巨躯を無差別に、執拗に斬り裂いていく。
体には細く浅い傷が次々と刻まれ、衝突のたびに火花が散り、真空に舞って消えていった。
だが――それでも、バハムートは一歩たりとも動かなかった。
逃げるでもなく、迎え撃つでもなく。ただ、そこに在り続けていた。
その内部で、クロは沈黙のまま思考を巡らせていた。
(……確かに、これまでの行いを鑑みれば、この人物は“排除すべき対象”に該当する。だが――)
思考の流れが、わずかに滞る。
この男は、根本的に――何かを勘違いしている。
認識は歪み、現実とゲームの境界線を見失っている。
いや、それすらも分かっていないのかもしれない。
彼の中では、“この世界”も“この命”も、ただのゲーム延長線上にある。リセットもセーブもできる――そんな錯覚のまま、生きているつもりで。
実体剣が再び振り下ろされる。
切っ先がバハムートの体をかすめるたびに、微細な裂傷が刻まれ、火花が虚空に弾けて消えていく。
それでも、バハムートは反撃を加えなかった。ただ、動かずに立ち続ける。
――殺すのは容易だ。だが、彼の思考はあまりに幼く、偏っている。
ウイングの双剣が振るわれ続ける。光速に近いその斬撃が空間に軌跡を刻み、真空の宇宙に、まるで空間が軋むような――波紋が広がっていく。
だが、それは戦闘とは呼べなかった。
ウイングにとっては“バトル”のつもりでも――そこに命の重みはなく、理解もなかった。
――それはただ、“生かされているだけ”の時間。
バハムートが与えた、“答え”を見出すまでのわずかな“時間”にすぎない。
クロにとっては、観察と静寂の中で得られる真理の導線。
ウイングにとっては、自らがまだ“処理されていない”というだけの僥倖。
そして、その一瞬のやり取りだけでも――両者の“格”の違いは、圧倒的に明白だった。